2018年3月31日土曜日

元気の素



人間の活力を決めているもの
元気の素とでも言えるものは、人によって様々だろう
男であれば女性であったり、友人だったり、家族だったりするのだろうか

私の場合、そのような外的な要因に左右されないものを求めようとしてきた
それを最初に感じたのは、ニューヨークにいた30代前半のことである
その時、「内なるモーター」を作り上げるというアイディアが浮かんできた
それ以来、特に意識したことはないが、そのように生きてきたようである
外的な影響を受けない内なるモーターによって生かされてきたと自分では思っている

独立した、自立したと言われるような状態だが、本当にそうだろうか
そこで行われていることは、自律した自己との対話ではある
しかしそれは、過去人によって栄養を与えられた自己との対話である
生身の人間にではないが、やはり依存しているのである

ハイデッガーではないが、我々はこの世界に投げ出されている
しかし、それはあくまでも他者との関係の中でのことである
実際には、生身の人間の有形無形の影響もそこに働いているはずである
それを意識できるかどうかの違いだけだろう
死に向かう世界内存在とは、そういうものなのだろう
であれば、この世にある内にできるだけ多くの影響を受けたいものである

少しだけ認識が広がったように感じる土曜の午後である




2018年3月30日金曜日

クリッチリー教授の考察を読んで



この一週間の考察を自分に引き付けて考えてみる
どこが似ていて、どこが異なっているのか

人間は死に向かう存在である
この事実はほとんどすべての人が知っているだろう
しかし、それを真に理解しているのかと問われると、かなり怪しいものがある
そう言えるのは、自分がその違いをはっきり認識できた時があるからである

これまで何度か触れているが、それは退職の数年前のことである
死で終わる自分の有限性が見えた時、生き方に対する真剣な問いかけが起こった
つまり、すべてが終わる前にやることがあるとすれば、それは何なのかという問いである
生れて初めてのことであった
これは、ハイデッガーの言う真正な(オーセンティック)自分になることと関係してくる

その問いかけが起こる時は、凡庸さの中にある日常との決別がある
そこには強い決心が伴っている
そしてその時、自由に考えることができるようになるという

このような経験を持つことが、哲学に入る道を開くのではないだろうか
それは如何に生きるべきかという問いを前にしたものである
そして、それは取りも直さず、真の自分になることへの道でもある
哲学者には前と後があると言われるが、それはこのことを指しているのだろう

それから人間は死を前にすると、感受性が増すと言われている
私の場合、視覚を介するものの感度が著しく増したように思う
それは景色や映像のこともあるが、特に言葉に対する感受性であった
それまで右から左に流れていたものが、しっかりと捉えられるようになったのである
これはある意味で聴覚、さらに言えば思考に対する感度の上昇でもあった

人間は時間であり、それは有限であるという
過去の遺産を背負い、未来に向けて歩み出す時に、過去が解き放たれる
過去・現在・未来が一体になった、創造的にさえなり得る統合された時間がそこに生まれる
有限の時間をこのように創造的なものにするのが人間の生ということになるのだろうか

このような認識は、こちらに来る前から私の中にあったものである
過去の自分を現在に引き戻す(2007.1.30)
これを基にした生き方に違和感はなく、この10年ほどそれを実践してきたようにも見える
当時ご宣託を送ってくれたフランスの哲学教師には、その兆しが見えていたのだろうか

その一方、ハイデッガーの中には人種差別的思想があった
特に、根無し草のユダヤ人には人間としての価値を見ていなかった
普遍主義やアングロ・サクソン文化への嫌悪のようなものがその底にあったとされている

この点は私のこれまでの考え方や生き方と大きく異なるところだろう
普遍主義ついても批判的に見るべきだが、それを全面否定する立場ではない
二つの極端があった時、両者の中にある優れた点を見ようとする立場である
振り子が一方に振り切れる時、いろいろな場面で破滅が見られたからである

いずれにせよ、判断する前には現物に当たってみなければならないだろう
いつものように、それがいつになるのか分からない





ハイデッガーの『存在と時間』7



今朝は久しぶりの快晴で気持ちがよかったが、午後から雨
そして、夕方には雨は上がり、比較的明るい夜となった
いつももの凄い音を発するお隣さんだが、トロンボーンの音源も同じところであることが判明
今朝は西城秀樹のYoung Man(YMCA)が流れてきて、一瞬オヤッと思う
すぐに、元々はアメリカの歌だったことを思い出す


さて、ハイデッガーに関するクリッチリー教授の考察も最後になった
最後は時間性が問題になるようだ

ハイデッガーが時間の議論で避けようとしたことについて、最初に述べたい
第一は、均一で線状で「今の点」が無限に続くようなものとしての時間を批判している
過去は最早今ではなく、未来はまだ今ではない、現在は未来から過去に流れているもの
アリストテレスに由来するこのようなモデルは、低俗でありふれた時間の概念である

第二は、時間と永遠の違いから始める時間の概念化を避けようとしている
その理解はアウグスティヌスが言ったように、高いところの永遠から時間性が生まれるとする
その永遠は神に通じるものである
ハイデッガーの時間性は、終わりに向けて常に走っているDaseinの実存に繋がるものである
時間の最初の現象は、死に向かう存在である私に現れる未来である
未来とそこに向かうということが結びつくのである
人間は現在に閉じ込められているのではなく、常に未来に投げ出されている

Daseinが未来に引き継ぐのは、存在論的な罪である
未来から現れるのは、わたしの個人的、文化的過去である
ハイデッガーが言うところのGewesenheit(having-been-ness)である
しかし、それは自分の過去に運命付けられていることではない
寧ろ、自由の中にいるという事実を引き継ぐ決意ができるのである
それを、固い決意をした状態、決然とした状態と言ったのである

ハイデッガーの現在は、今の点がどこまでも続くものではない
私がしっかりと掴むことができ、自分自身のものとすることができる何かである
未来を期待する中で開かれるものは、Gewesenheitを現在の活動の中に解き放つことである
それが彼の言うAugenblick(the moment of vision)である

この言葉はキェルケゴールやルターからの借用で、ギリシャ語のkairosの訳になる
kairosとは「適切な瞬間」を意味し、キリスト教ではキリストの出現と共に来る時間である
ハイデッガーの場合には、神との関わりなしに考えようとしている
その瞬間に現れるのが、真のDaseinである
彼の時間は、未来、過去、現在が統合されたものとして捉えられる
それは法悦であり、原初的なもので、死で終わる有限なものである

我々は時間である
時間性とは、統一体を作る三つの次元と共にある過程である
この書で彼がやろうとしたことは、有限な人間の動きを記載することであった
『存在と時間』は未完の書である
人間存在(Dasein)については解析できたように見える
しかし、より広く「存在そのもの」については手が付いていない 、ということなのだろうか

(了)






2018年3月29日木曜日

ハイデッガーの『存在と時間』6



本日も午前中は雨で、夕方にかけて明るい光が見えるようになった
夏時間の影響も出始めていて、よい感じなってきた
それでは、クリッチリー教授の考察に戻りたい

これまでの「死に向かう存在」という概念には、良心の問題が出てくるという
この概念自体は形式上は問題ない
しかし、onticなレベル(現実の具体的な経験のレベル)ではさらに何かが求められる
有限性が自己を捕らえるのは、良心を通してだからである

良心とは呼ぶ声である
馴染み深い日常に浸り切っている偽物の生活から離れよ、と呼ぶ何かである
この世界の喧噪や無駄なお喋りから抜け出て、忙しさを止める声のような何か
その外からの声を頭の中で聞くという神秘的経験である
これはアウグスティヌスやルターのようなキリスト教信者の経験に近い

しかしハイデッガーの場合、それは神が自分に語ることではなく、私が自分に語ることである
日常の偽物の生活から呼び戻される神秘的な経験である
良心とは、人間が自分自身を死すべき者として呼び戻す経験である

良心の声で何が語られるのかと言えば、何の指示も助言もない
無言である
それを理解するには、偽物の生活はお喋りに満ちていることを掴むことが重要である
良心の無言の呼び声が私を私自身に戻してくれるのである

しかし、それは何を理解させるのだろうか
良心の声は「有罪!」という一つの言葉に還元される
Daseinの罪とは何を意味しているのか
人間存在は投企されたものと規定されるので、あるべき存在を持っている
人間存在は欠乏であり、埋め合わせるために駆り立てられる負債である
それが罪の存在論的意味である

罪は倫理的な自己の深部構造を明らかにするとハイデッガーは言う
それは道徳に先立つものなので、道徳では説明できない
罪とは、如何なる道徳にとってもそれ以前の源で、善悪を超えている
単に我々が在るところのものであるということであり、我々は有罪であるということである
「常に、すでに」そうである

真のDaseinは声の意味を理解し、自身が罪ある者であると理解するようになる
そこで、Daseinはそれ自身を選ぶのだが、それは良心を持つことではない
良心を持ちたいと思うことである(欠乏に向けての傾きか)
私であるという欲求を欲することを選択するのである
そのことによってのみ、人間は責任を負えるとハイデッガーは言う
倫理において鍵となる責任の概念は、声を理解し、良心を持ちたいと思うことから成っている
この選択をするということは、固い決意を持つようになることである

(つづく)




2018年3月28日水曜日

ハイデッガーの『存在と時間』5




『存在と時間』の基本的な考えは、「存在は時間で、時間は有限である」ということだ
人間存在にとって、時間は死に向かい、死とともに終わる
従って、真の人間存在とは、本質的に我々は死の地平に投企されているということである
すなわち、「死に向かう存在」であり、我々の存在は有限だということである
ならば、真の人間生活は有限性と向き合い、そこから意味を汲み取ろうとすることである
彼は、古くからある「哲学とは如何に死ぬのかを学ぶこと」という言葉に同意する
死すべき運命は、我々が我々の自我の在り様を形作ることと関係しているのである

「死に向かう存在」には、次の4つの基準がある

一つはその非関係性である
死を前にした時、他者との関係が切断される
死は自分で経験するしかない
二つ目は、それが確実だということである
我々は死に行く存在であるという事実から逃げても、死は確実にやってくる
三つ目は不確定性で、確実に死ぬがそれがいつかは分からない
そして最後が、それは超えることができない極めて重要な問題だということである
死がやってくると、すべての可能性が消える
ハイデッガーが言った「不可能性の可能性」である

「死に向かう存在」に含まれている最も重要な意味は、可能性への賛歌である
 ここで、Erwarten(待ち受ける)とVorlaufen(先を走る)を区別する
前者は運命を前に受け身であるのに対し、後者はそれを予期して自由な行動の条件とする

ここで逆説が現れる
自由とは死という必然性の欠如ではなく、その必然性を肯定することから生れるのである
真に在るところの存在になるのは、「死に行く存在」の認識の中だけなのである
我々の有限性を受け入れることこそが、我々の生の基礎にある
これが偽物の日常生活に浸りきったところからDaseinを引き上げるものなのである

この主張は、自分の死こそが最も重要で、他者の死は二次的であるということに繋がる
それは間違いで、道徳的にも問題があるという批判がある
さらに、伝統的な人間中心主義が働いているという批判もある
つまり、人間の死だけが重要で、他の生物の死は下に置かれる
他にも死を経験できる生物がいるのではないかという批判である

(つづく)






2018年3月26日月曜日

ハイデッガーの『存在と時間』4



本日は朝から雨模様
今日もクリッチリー教授による『存在と時間』の考察を振り返ってみたい

ハイデッガーにとっての気分は、人間存在を明らかにする本質的な方法となる
中でも基本となる気分(Grundstimmung)は、不安である
Daseinは世界内存在であり、我々の日常は世界の在り方に完全に浸ることである
世界内存在は全体として不安の中で明らかにされ、配慮・関心(Sorge)として定義される

まず捉えるべきは、不安は何かについて絶えず心配することではない
そうではなく、不安は稀で微妙な気分であり、平静・平和の感情と比較される
自由で真の自己が最初に存在に現れるのは、不安の中でのことである

ハイデッガーの不安を理解するためには、恐怖の気分と識別しなければならない
恐怖は何か特定のものに対するものである
対象があり、それが除かれると恐れもなくなる
しかし、不安には特定の対象はない
敢えて言えば、世界内に存在しているそのことに対する不安になるだろう
はっきりと定まらないものを前にした時に経験するのが、不安である

この世界には多くの意味が溢れ、その世界に魅了されていて、居心地がよい(heimlich
しかし、突然世界が意味のないものに見え、不安に駆られる
自分の世界が居心地の悪い(unheimlich)異質なものに感じられるようになる
サルトルの『嘔吐』のようなものだろう
それまで人生のゲームでプレーしていたところから観客席に移動するような感じだろうか

不安の中で最初に垣間見るのが、真の自己である
偽物の生活では、ものや他人に完全に縛られ、日常の凡庸さの中で窒息している
不安とは、まず自己が自らを世界と峻別し、自己に注意が集中するようになることである
不安を感じるのに特別な舞台装置は必要ない
何ということもない状況の中で、突然、自己と世界との根源的な違いを感じるのである

ものや他人からの自由としての我々の自由、その経験が不安である
自分自身になり始める自由である
不安は優れて哲学的な気分である
他のものから自由になり、自分自身のために自由に考え始める経験である
アウグスティヌスからキェルケゴールに至るキリスト教の伝統の中における分析がある
しかしハイデッガーの場合、神との関係では分析しない
死との関係でそれは行われるのである

(つづく)






2018年3月25日日曜日

ハイデッガーの『存在と時間』3



本日から夏時間
朝からの明るい優しい日差しが嬉しい
素晴らしい季節の始まりであることを願いたい

先日目に入った記事の中に、ガダマーさんの追悼記事があった
長命だったことは知っていたが、それ以外は気にかけていなかった
彼が生まれたのは1900年で、2002年に102歳で亡くなっているので年齢が分かりやすい
その記事に「60歳で出した『真理と方法』で有力な哲学者になった」とあり、驚いたのだ
ドイツ語のウィキに行くと、彼の作品はすべてそれ以降のもの
76歳、83歳、89歳、93歳、96歳(2冊)、100歳(3冊)という具合だ
驚くべきスタミナである

その記事によれば、略歴は以下のようになる
29歳でハイデッガーの下へ
昨日の記事にもあったが、彼はナチスには加わっていない
学生時代にポリオに罹ったようで、兵役にも行っていない
34歳でナチスの拠点だったキール大学で教え、37歳でマールブルクの教授となる
その2年後にはライプツィヒに移り、戦後ソビエトが彼を学長にしたという
しかし、47歳でフランクフルトに戻り、49歳でハイデルベルクへ
亡くなるまでそこに留まり、最後まで独身を通したようだ


再び、『存在と時間』に戻りたい

本書の目的は、形而上学の根本問題である存在の問題についての困惑を呼び起こすこと
彼は、この世界における日常の存在としてのDasein(人間)を解析することにより行う
Daseinはこの世界に投げ出(投企)された存在である
その状態をGeworfenheit(thrownness)と彼は言った

ハイデッガーは心の状態、気分、投企された状態という三つの概念について解析する
心の状態(Befindlichkeit)は、英語では次のように訳されている
'already-having-found-oneself-there-ness' 「すでに自分自身をそこに見出している状態」
つまり、人間はこの世界の中のどこかにすでに存在しているものということになる

気分(Stimmung)は感情や情緒を意味するが、心理学的な含みはない
寧ろ、この世界と調和しながら向き合っている我々の根源的な在り方を意味している
我々は世界との関係抜きには存在し得ず、その関係は理性ではなく気分の問題である
我々の日常は、恐怖、退屈、興奮、不安などの諸々の気分の中にいることを意味している

Daseinは投企された受け身の状態ではなく、我々はその状態を理解することができる
理解するとは、どのように何かをするのか、操作するのかという活動の概念である
真の人間は、存在する可能性、能力(Seinkönnen)によって規定される

纏めると、人間は世界に投げ出されているだけではない
その状態を取り払い、具体的な状況における可能性を掴むという運動に入ることができる
これがハイデッガーの言う投企(Entwurf)であり、自由の経験である
自由とは抽象的な概念ではなく、世界内での行動を通して可能性を示す人間の経験である
真の人間とは、そのように行動する人のことである

(つづく)





ハイデッガーの『存在と時間』2



昨夜、ハイデッガー関連のビデオを観た
その中からナチスとの繋がりに関係する発言を少しだけ

バディウさんのコメント
「彼がナチスであることは何の疑いもない。当時の知識人も含めた多くのドイツ人が支持していた。それは事実だ。ただ、恰も探偵小説を読むように、ナチスの証拠を探すように彼の作品を読むことは、どうだろうか。それは哲学の本当の味わい方ではないのではないか」
リチャード・ローティさんも同じ観察をした後で、こう付け加えている
「彼はナチスのやったことを知っていたはずだが、そのようなこと関して何も発言していないのはどうだろうか。・・・どうしようもない人間が素晴らしい作品を書くことがあるが、ハイデッガーはその好例だろう」
ハイデッガーの弟子ハンス・ゲオルク・ガダマーさんは、当時の驚きをこう語っている
「その事実を知った時、わたしだけではなく周りも言葉を失った。どうしてそんなことがあり得るのか。どうして彼がこのような過ちを犯し得たのか、と問わなければならない。そして、彼は気が狂ったのだと我々は考えた」

では、『存在と時間』の続きを始めたい

本書が扱っているのは、存在の問題である
生物や物理的世界というような特定の存在ではなく、存在そのものについての学問だ
抽象的で、普遍的で、最も根源的な哲学の領域
2,500年前にアリストテレスが「第一哲学」と呼び、後に形而上学と呼ばれたものである
我々はその答えを持っていないし、その問いに困惑を感じることもない
ハイデッガーがやろうとしたことは、存在についての困惑を呼び戻すことであった
ライプニッツの「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」という問い関するものでもある

まず、我々自身が解析されるべきものとしてあると告げる
つまり、この問いはわたし自身のものとなるのである
人間存在は何から成るのか?
それは時間によって規定される人間の実存(Existenz)である
個人的、文化的な過去を持ち、現在から未来にある一連の可能性へ歩み出す存在である
この存在はわたしに無関係ではあり得ず、自らに問いかける、開かれた存在である
これが彼の言うEigentlichkeit(オーセンティシティ、本来あるべき性質)の本体である
ここで、自分自身としてあるのか、そうしないのかという重要な選択が出てくる

哲学は、例えば、世界は存在するのかというような現実離れした推論をすることではない
そうではなく、我々の日常にある人間を記述することから始まるのだ
その日常性の中から一般的な構造を引き出そうとするのが哲学である
しかし、我々に最も近く、当たり前のことを記述することは極めて難しい

(つづく)





2018年3月24日土曜日

ハイデッガーの『存在と時間』1



本日は曇り後雨で暗い一日
週末が近づくと、目覚めが微睡に変わるようだ

昨日のハイデッガーについての記事の印象をここで簡単にまとめておきたい
ハイデッガーとナチスとの関連については、広く論じられていると思う
以前のブログでも結構取り上げている
ハイデッガーの二つの顔 (I)(2006-07-09)
ハイデッガーの二つの顔 (II)(2006-07-10)
ハイデッガーの二つの顔 (III)(2006-07-11)

ハイデッガーさんの 「科学は考えない」 を考える (2012-01-11)
ハイデッガーの 『黒のノート』(2014-02-11)
1931年から41年にかけて書かれた『黒ノート』が4年ほど前に出版された
そのことに関する当時の記事が二つあった

特に発見はなかったが、最近取り上げた認識により、その意味がより明確になってきた
その認識とは、啓蒙主義が唱える普遍主義と地に根ざした考えとの対立である
ハイデッガーは1933年にナチスに入党し、大戦終了まで党に留まった
彼はユダヤ人が西欧世界を動かしているのではないかという強い懐疑を抱いていた
その普遍主義により、自分の民族の血が犠牲になるのではないかという恐れである
それを救うのがナチスではないかとの期待を抱いていた可能性がある

普遍主義には自由主義や民主主義や共産主義が内在している
ハイデッガーには共同体や伝統を破壊し、帝国主義的にもなり得るこの思想への嫌悪があった
それはロシアやアングロ・サクソン文化への嫌悪にも繋がった
そこで行われる思考の凡庸さ、味気無さに耐えられなかったようである
私流に言えば、第三層の思考が行われない世界と言えるかもしれない

反ユダヤ思想の持ち主の哲学から学ぶべきものはあるのか、という問いがある
これまで読んできたものの中には、全否定する人もいた
その一方で、反ユダヤ主義的ではない部分からは学ぶべきところがあるとする人もいる


ここで、サイモン・クリッチリー教授の『存在と時間』についての考察を読んでみたい
1927年に発表されたハイデッガーの主著である
アングロ・サクソンの分析哲学者とは違い、大陸のこの哲学者の影響は甚大であった
哲学の外でも、建築、芸術、社会政治理論、精神医学、心理療法、神学などに及んだ
そこで目指しているのは、哲学の伝統の破壊であると宣言している
伝統的権威を受け入れるのではなく、世界の生きた経験の根本にまで掘り下げようとした
そのために、新しい言葉を造った

人間は、Dasein(現存在)と呼ばれる
英語では、being-there、「そこに存在しているもの」となる
孤立しているのではなく、他の存在とともに世界の中にいる存在である
その上で、「存在は時間である」となる
人間は生と死の間の存在、あるいは死に向かう存在という意味である

真の(authentic)人間とは、そのことを常に意識している人間のことである
生の有限性を理解して、その存在であるところのものになろうとする人間のことである
ハイデッガーの場合、生の有限性(死)の問題を神との関係では考えない

(つづく)





2018年3月23日金曜日

ハイデッガーが突然現れる



これから外で仕事を、と思った時メールが入る
宣伝だったが、ホーキング博士の追悼記事が目に入った
ここ10年ほど身近で博士をフォローしてきた方のようだったので読んでみた

博士の場合、病気で体が不自由になっていたが、精神の活動には衰えがなかった
それが外に現れるまでには、かなりの時間がかかったようではあるが、
その経験から生きることや考えることの意味を考えたようだ

連想したのは最近のエッセイのテーマ、プラトンが考えた肉体と精神との関連であった
プラトンに倣えば、肉体の影響が消えた方がさらに深い精神状態に入ることができる
博士もそうであったかもしれない
我々の体も同じよう衰えるが、それが精神の深さに結びつくとは限らない
そのように意識して努めなければ難しいだろう


それを読み終わった時、下の方にハイデッガーの名前があるではないか
ナチスとの関連の他、『存在と時間』についての8回連載の記事が紹介されている
まだ手に触れていない本なので、内容に興味を持って読み始めると夕方になっていた
こういう回り道はこちらに来てから進んでやっているが、大きな発見に繋がることがある

書いているのはマンハッタンにあるニュー・スクールのサイモン・クリッチリー教授
その内容を自らの歩みに重ねて読むと、この生の捉え方が極めて近いことが分かる
全く違和感がない

日本にいる時にフランスの哲学教師から届いた仏版ブログへのコメントを思い出す
それはご宣託と言ってもよいもので、次のようなものだった
「あなたはフッサールやハイデッガーを愛するために生まれてきたのです」
これまで確かめることはできなかったが、その切っ掛けを掴めたような気分である
フランスの哲学の先生がわたしの書くものの中に同質のものを見出したのだろうか
そうだとすれば、専門家の目は恐ろしい

明日以降、今日の印象をまとめておくことにしたい




2018年3月22日木曜日

驚きの出会い



今日は一日快晴であった
ただ、寒さは変わらない
日本のニュースを見ると、関東に雪とのことで同期している?
本日は朝から旧市街に出かけたが、まだそれなりにできているようだ
冬眠から覚めたのだろうか

帰りのバスでは、何年か前のモンペリエの学会でお会いした方とばったり
ここの大学の哲学科長として2年前に来られたとのこと
わたしの所属は医学部なので気付かなかった
これからディスカッションする機会を持つことになった
この小さな町でも驚きが時に顔を出す

本当に何が起こるかわからない






2018年3月21日水曜日

調子が出てきたのか



午前中は気持ちの良い快晴
午後から少し雲が出てきたが、明るい一日だった

午後から外に出てプロジェに当たる
3時間ほど集中できた
このところ、と言っても昨日からだが、調子が良いようだ
春で目覚めたせいだろうか

昨日も問題にしたが、この寒さの影響もあるのだろうか
出かける時のバス停で、お年寄りが話しかけてきた
「いやぁー、寒いですねー。昨日なんか、冬でしたよ」というような調子で

小学生が授業で植物園内を走っているのが見えた
良い景色であった




2018年3月20日火曜日

寒い春の一日



朝から旧市街に出て、プロジェに当たる
久し振りに4時間ほど集中できた
週の初めということもあったのだろう
しかしそれ以上に、このところの天候が嘘のような寒さが影響していたのではないか





2018年3月16日金曜日

第13回サイファイ・カフェSHEのご案内



第13回サイファイ・カフェSHEのご案内

ポスター
サイト 

2018年6月15日(金) 18:30~20:30

『テアイテトス』に見るプラトンが考えた科学 

西欧哲学の重要なテーマの殆どは、プラトンによって考えられているという認識があります。特に意識してはいなかったのですが、昨年のカフェフィロPAWLではプラトンを続けて取り上げました。想像以上に興味深い議論ができたと思っております。これからは多少とも意識してプラトンを読んで行きたいと考えています。今回は、『テアイテトス』を読みながら、プラトンが考えた科学あるいは知識の基盤を考える予定です。本は、岩波文庫、ちくま学芸文庫などで手に入ります。いつものように講師のプリズムから見えたところを概説した後、議論を展開していただきます。

東京都渋谷区恵比寿4丁目4―6―1  
恵比寿MFビル地下1F

 このテーマに興味をお持ちの皆様の参加をお待ちしております。






2018年3月15日木曜日

第7回カフェフィロPAWLのご案内



第7回カフェフィロPAWLのご案内


2018年6月8日(金)18:30-20:30

トルストイの『人生論』から生き方を考える
今回はロシアの文豪トルストイの『人生論』を手掛かりに、我々の生き方を考えます。本は岩波文庫、新潮文庫、角川文庫などで手に入ります。そのタイトルは『生命論』と訳してもよい内容を含んでおり、本来は生命を扱うべきだとトルストイは考えている科学に対する批判、そして科学の成果から考えられるあるべき生き方が問題にされています。このテーマはまさに PAWL の対象としているものと重なるものです。いつものように最初に講師が問題点を提示した後で、自由に議論を展開していただければ幸いです。

東京都渋谷区恵比寿4-6-1 恵比寿MFビルB1


興味をお持ちの方の参加をお待ちしております
 






2018年3月14日水曜日

第3回ベルクソン・カフェのご案内



第3回ベルクソン・カフェのご案内
サイト
  
  <2回シリーズ>


① 2018年6月9日(土) 16:00~19:00 
② 2018年6月16日(土) 16:00~19:00 

1回だけの参加でも問題ありません


テクスト
 
Pierre Hadot
« Apprendre à dialoguer »
「対話することを学ぶ」 

Exercices spirituels et philosophie antique, pp. 38-47
(Albin Michel, 2002)

参加者にはテクストを予めお送りいたします

会 場

恵比寿カルフールB会議室
 東京都渋谷区恵比寿4-6-1 恵比寿MFビルB1




日本語で議論しますので、フランス語の知識は必須ではありません
このテーマに興味をお持ちの方の参加をお待ちしております






第5回サイファイ・カフェSHE札幌のご案内


 


第5回サイファイ・カフェSHE札幌のご案内 

サイト


テーマ: 最小の認識能をどこに見るのか

今回は、認識を構成する最小要素は何なのかというミニマル・コグニションの問題を取り上げます。これは最初の認識能が進化のどのレベルで現れるのかという問題でもあります。この問いに対して、研究者や哲学者はいろいろな基準を出していますが、どの基準を採用すべきなのかというコンセンサスがないように見えます。認識能とその進化をどのように考えるべきなのかについて講師が概説した後、参加された皆様に議論を展開していただき、懇親会においても継続されることを願っております。

日時: 2018年6月2日(土) 16:00~18:00

会場: 札幌カフェ 5Fスペース

札幌市北区北8条西5丁目2-3


会の終了後、懇親会を予定しております
このテーマに興味をお持ちの方の参加をお待ちしております







2018年3月13日火曜日

パリ行きはディヴェルティスマン



今日は用事があり、パリに出た
用事が終わり外に出ると、雨
少し濡れたが、駅に着く頃には上がっていた
構内に避難したのだろうか、姦しい小鳥の鳴き声が嬉しい
このところのパリ行きは、ちょっとしたディヴェルティスマンになっている





2018年3月11日日曜日

少しだけほっとする



昨日はFEDEXが何種類かの箱(emballage)を持って来てくれた
ぴったり収まるものがあり、ひとまずはほっとした
これから最後ゲラの校正が待っているが、、

今日は気持ちの良い天候だったので、お昼から外に出た
もう夏のような格好の人も出ていた
こちらはまだ本調子ではない

アパルトマンに戻ると、向かいはラグビーの試合で大歓声が聞こえた
新しい季節に入ったようだ




2018年3月9日金曜日

肉体を信用しない



先日、エッセイの登場人物のリスト作りをしたことについては触れた
晴れている時にスタートしたので、外気を入れながら作業していた
しかしその後雨になり、冷たい風が吹き込んでいたが気にしないで4時間ほど続けた

そして翌日、鼻水が止まらなくなった
もの・ことには必ず原因がある
暫くはその理由が分からなかったが、午後になり前日の作業のことを思い出したのだ
あの程度で鼻水とだるい状態がまだ続いているとは、、

精神と肉体は繋がっている
しかし、それは別物である
精神で肉体をコントロールできないこともある
そろそろお歳を考えた方がよいのでは、、
それは、肉体を信用しないということである





校正ゲラ、送ることできず



朝明るくなるのが早くなってきた
少し前までは8時でも暗かったのが、7時になるともう明るくなっている
今日は朝から晴れてくれ、たっぷり朝の時間を味わった

昨日、翻訳ゲラの突き合わせを終え、今日、出版社に送る予定だった
FEDEXに頼んだのだが、発送用の袋を持ってきていなかった
電話での対応が怪しかったので、何度も確かめたのだが、、予想が的中した
アメリカ製のものはまだ十分に普及していないような印象がある
ヤマトなど日本の運送業者に比べると、その質は大きく見劣りする

明日はちゃんとしてやって来るだろうか





2018年3月7日水曜日

エッセイの登場人物をまとめる

    2009.4.21 @Cracovie


今日は雨が降ったり、晴れたりと変化があった
以前に途中までになっていたエッセイに登場した人物のリストを作ってみた
最初に人数を見た時には驚いたが、当初の予想よりは少ないものであった
それでも66回で626人
5回以上登場した人が32人(一つのエッセイに何度登場しても1回と数えた)
上から見ると、次のような人がいる

アリストテレス(22)
デカルト(18)
プラトン(12)
ダーウィン(12)
ソクラテス(11)
モンテーニュ(11)
ベルクソン(10)
ヘーゲル(9)
ニーチェ(9)
ハイデッガー(9)
パスカル(8)
アインシュタイン(8)

7回
エピクロス
ジョルジュ・カンギレム
オーギュスト・コント
フーコー
メチニコフ
マルセル・コンシュ

6回
スピノザ
ライプニッツ
ピエール・アドー
ラマルク
パウル・エールリヒ
クロード・ベルナール
エドガール・モラン

5回
ルソー
カント
ゲーテ
ショーペンハウアー
ペーター・スローターダイク
ニュートン
ジム・ワトソン


アリストテレスがこれほど多く登場していたとは知らなかった
それ以外の顔ぶれには、それほどの驚きはない
枕詞のように使っている人もいるので、中身に触れるのはこれからだろう





2018年3月6日火曜日

危険な夢

   クラクフ中央広場(2009.4.14)


午前中は雨
午後は明るくなったので、久しぶりに外に出ることに
比較的よい時間となった
移動の途中、緑が全く見えない樹から五月蠅いくらいの小鳥のさえずりが聞こえた
それを聴いている方は、なぜか嬉しそうに歌っているように感じた
春である


ところで、
上の方から大小のボールのようなものが次々に落ちてくる
これは絶対に避けなければ危ないというものが見えた時、頭を思いっきり左にやる
その瞬間、ものすごい音が聞こえてゆっくりと現実に戻る
固い壁に激突していたのだ
一瞬、頭蓋骨骨折でもしているのではないかと思ったくらいの痛みを感じた
それだけではなく、右手親指にも激痛が走る
見ると、爪が内出血していた
相当の圧力が加わったのだろう
壁と頭の間に挟まったのではないかと推測した

こういう起こり得ないようなことが起こるのである
人生、本当に何でもありだ
何が起こるかわからない




2018年3月5日月曜日

ゲラの突き合せを再開

  ヤギェウォ大学のコペルニクス(2009.4.21@クラクフ) 


昨日、今日と天候は優れなかった
今日はほとんど雨
しばらく休んでいたゲラの突き合せをやる
どこまで行っても限がないような感じもする
今週、残りの数章分が届くことになっている
それも併せて今週中には終えたいところである
ただ、これで最後ではない
今回のものをまとめたものを最終ゲラとするようだ
何度も書いているが、大変なエネルギーを要する仕事である




2018年3月2日金曜日

「あの人に会いたい」を観る

    クラクフのカフェ(2009.4.16)


昨日は午後には雪が解けてくれた
なぜかゆったりした気分でネットに行く
「あの人に会いたい」の石橋湛山が出てきたので、そのまま流していた
金子光晴、忌野清志郎、平山郁夫、陳舜臣、竹内均、手塚治虫、舛田幸三、高木仁三郎、加藤和彦、野上彌生子、山内溥、大野一雄、古今亭志ん生、古今亭志ん朝、なだいなだ、柏戸、山田風太郎、熊谷守一、平尾昌晃、三浦綾子、尾上松緑、・・・
流れるままに観る
困ったことに全く飽きない
ちょっとした発見がどこにでも転がっているからだろう

こういうシリーズを見ていると、人の一生など何とあっけないものかを痛感する
100歳の人生を眺めてもその感慨は変わらない
以前は100年というのは相当の長さだと思っていた節があるのだが、、
ここに来ての大きな変化と言えそうだ










2018年3月1日木曜日

想定外の可能性



今朝は雪は止んでいたが、予想通り一面白くなっていた

昨日、想像もしていなかったようなことを訊かれた
どこかに書いているような気もするが、このような経験をこれまで何度かしている
それはすべて外国で起こっている

おそらく最初に気付いたのはアメリカにいた時である
いくつかの大学にインタビューに行ったことがある
ファカルティの人と会うようになっていたが、その中のある人がこう訊いてきた
どこのお生まれですか?
それはアメリカのどの町ですかという意味だったのである
日本から来ていることを知って驚いたからである
この時、この私は全く想像もしないような人間として見られていることに気付いたのだ

内から見ると、それは決まりきったもの
しかし、その同じものは外から見ると何でもありということである
外から見ているだけでは人は分からない
しかし、内からだってよく分かっていない
自分を勝手に規定している、その幅を自ら狭めていることに気付く瞬間があるからだ

こちらの大学に入る数年前にフランスに来た時、1週間だけ語学学校に通ったことがある
その中には先生と一対一のクラスも含まれていた
ある時その先生が、フランスに来たのはこちらで職を探すためですかと訊いてきたのだ
なぜそう感じたのかまでは訊き返せなかったが、これには驚いた
その時もやはり、自分であり得ないと決めてかかっていることがあることに気付いた

同じようなことがこちらに来る1年前にも起こった
客員のような形で受け入れてくれる先生を探すためにパリに行った時のことである
一人だけ会うことができた老教授がいた
文系の先生はオフィスにいないと分かったのはその時である
会話の中でその先生が、あなたは学生になりたいのですかと訊いてきたのだ
今更そんなことはあり得ないと思っていたので、驚いたのである
学生を相手にしている専門家が言うのである
その想定外の質問は、あり得ないことなどないという声にも聞こえた
考えてもいなかったようなところから光が差してきたという感覚でもあった
自分が驚くような道の先には何があるのかという好奇心がくすぐられたのだろう
それが今に繋がっているような気もしてくる雪の朝である






トゥールに戻ると雪



今日は午後から用事がありパリへ
快晴で気持ちが良い
用事は何もなければ年に一度のもの
1時間半ほど話していた

その中で対応してくれた人が何を思ったのか、フランス国籍ですかと訊いてきた
このフランス語で?と返そうとしたが、関係がないことに気付き、思いとどまった
余りにも一生懸命に働いているようなので、こう言ってみた
仕事は人間によくないですよ
これは非常に受けたようである
マニュアル対応ではないので、人間がそのまま出てきて実に興味深い

帰りはゆっくりした電車だったので、よい読みができた
トゥールは雪
明日は積もりそうな勢いであった
春はもう少し先だろうか
クリスマスソングがしっくりくる夜である