2018年10月31日水曜日

翻訳の秋?



秋が深まり、あるいは日本での時間が経ったためか、落ち着いてきたように感じている
やっとコサールさんの本の最初のゲラを見直す気分になってきた
1週間くらいで終わらせたいものだが、おそらくそうは問屋が卸さないだろう

今日、久しぶりにフランスの免疫学者の友人からメールが届いた
やり取りの中で、クリルスキーさんの本のことが出た
フランス人の彼も読んだらしいのだが、専門家でも理解するのに苦労したという
おそらく、一度読んだだけでは頭に入ってこないのだろう
理解するためには、著者の思考の跡を何度もなぞらなければならないのかもしれない

そういう本の翻訳をやったことに驚き、そして労っていただいた






2018年10月28日日曜日

第4回ベルクソン・カフェ 迫る

Tod und Mädchen / Mort et Jeune fille (1915)
Egon Schiele (1890-1918)



フランス語を読み哲学する第4回ベルクソン・カフェが近づいてまいりました
興味をお持ちの方の参加をお待ちしております


<2回シリーズ>
① 2018年11月9日(金)18:00~21:00
② 2018年11月月15日(木)18:00~21:00

<1回だけの参加でも問題ありません>


テクスト
Pierre Hadot« Apprendre à mourir »「死ぬことを学ぶ」
Exercices spirituels et philosophie antique, pp. 48-60(Albin Michel, 2002)

<参加予定者には予めテクストをお送りいたします>


会場
恵比寿カルフールB会議室


参加を希望される方は、she.yakura@gmail.comまでご連絡ください
よろしくお願いいたします








2018年10月27日土曜日

第6回サイファイ・カフェSHE札幌、技術から現代を考える



午前中は雨と風でどうなるかと思ったが、午後から晴れてくれた
第6回になるSHE札幌を開催した
1名の方が都合が悪くなり欠席となったが、写真の4名の方が参加された
実はカメラを忘れたため、参加された長谷川氏のスマートフォンをお借りした
こういうことは稀ではなくなった

今回のテーマはハイデッガーの技術論を基に、テクネーの本質について考えた
何度も触れているが、日本語では見慣れない術語が出てきて苦労する
既にある言葉を使うのではなく、新しく造る傾向があるためだ
人を哲学から遠ざけることに貢献?している

ハイデッガーに関しては、個人的な縁がある
フランスに渡る前の2年間、フランス語を勉強するためにブログをやっていた
それを読んだフランスの哲学教師が長いコメントを書いてくれた
一つのポイントは、わたしはハイデッガーを愛するために生まれてきたというのだ

その意味がよく分からなかったが、今回彼が書いたものを読み、少しだけ見えてきた
と、思った
似たようなことを考えているように感じたからだ
以下、独断をもって書いてみたい

一つは、わたしが言っている「科学の形而上学化」についてである
科学の成果の本質は、科学では掴みえないので形而上学を導入しようという立場である
ハイデッガーは、技術の本質は技術的ではないと言っている
技術を中立的なものとして見ると、その本質には辿り着かない
本質が見えてこないと、技術との自由な関係も結べない
技術にどのように対処してよいのか分からないのだ

それから、彼が見ていた科学時代における思考の欠如である
勿論、人間は考えている
しかし、それは計算に基づく思考であり、科学的思考である
欠けているのは、存在そのものの意味に入る瞑想的な思考であるというのだ
これまでこの場で言ってきた瞑想の重要性に繋がる

この見方は意識の三層構造理論に当て嵌めるとさらに明確な像が浮かび上がる
つまり、現代人の思考は第二層止まりで、枠を超えた思考が行われる第三層には入らない
瞑想的思考が排除されているのである
この思考こそが世界を救うかもしれないのに、である
問題は、この思考は具体的な問題解決に貢献しないこと
そして、この思考に習熟するためには時間と訓練を要することである
そのため、残念ながら、その必要性が真に理解されることになっていない


ハイデッガーの技術に関する考えは、近いうちに専用サイトに纏める予定である
技術に関してここで言えることは、次のことだろうか
それは、技術の本質から齎されるものが我々の生活を覆いつくしていることである
目立たない形で、産業、経済、教育、政治、戦争、マスメディアなどに組込まれている
現代では、我々はすでに技術の本質の中に生きている
そこには主体性がないので、生かされていると言った方が正確だろう
しかし、その中にいる人にはそれが見えていないのだ

なぜ文系の役人が文系の学問を軽視するような方針を出すのか疑問であった
しかし、こういう背景を考えると腑に落ちる
おそらく、彼らの思考も技術の本質から齎されるものに侵されていたのである
そのため根源的な思考、瞑想的な思考ができなくなっているのである







2018年10月26日金曜日

終日ハイデッガーを読む



今日は朝からハイデッガーの日本語訳を読んでいた
言葉を読んですぐにイメージできない日本語が出てきて、それが重要になる
そのために言葉を造るのである
そして、それが日本では術語になるのだろう

そういう時はフランス語訳を読んだ方が分かりやすい
すでにある言葉を使っていることが多いからだろうか
日本語で哲学するのも大変である

カフェ前日ということもあり、これまでになく集中できたのではないだろうか
この集中を日常的に維持できれば素晴らしいのだろうが、そうはいかない
明日も準備は続ける予定である













2018年10月24日水曜日

黄色い満月、そしてクラクフ再訪



今週土曜のカフェSHEの準備をして店を出たところで、低く上がった大きな満月を見た
一瞬、得をしたような気分になる
残念ながら、その色をわたしのカメラは捉えることができない
おそらく、この時しか見ることができない色なのだろう 
卵の黄身を少し赤くしたような、黄金色と言った方がよいような色をしていた
昔から月見をしてきた人の気持ちが分かるような、深い悦びを感じさせる景色であった


ところで昨日の朝、テレビをつけると懐かしい町を歩く番組が始まったところだった
「旅と散策とヨーロッパ」は日本のテレビの一つのテーマであることを再確認
その町はクラクフ
ほぼ十年前、同じ町を歩いたことを思い出す

 ポーランドの旅(2009年4月)

実際に見たところだけではなく、行けなかったところも出ていた
いつものように、頭の中が清風にそよいだ











2018年10月23日火曜日

篠田桃紅さん、再び



先日、図書館にあったパンフレットでタイトルを見かけた本を注文
今日届いた

 『桃紅一〇五歳 好きなものと生きる』(世界文化社、2017)

篠田桃紅さんについては以前にも触れたことがある

 久し振りの週末気分、そこで味わう100歳気分(2017.6.17)

薄い本なので、すぐに読み終えることができた
その中に、わたしの考えていること、感じていることと繋がるところがいくつかあった
例えば、

 ● 昔と今を繋げている
 ● 有名もへちまもない
 ● なにぶん旅のことで
 ● 一生もの
 ● 無用の時間を持つ
 ● 一切は変わる

それから、まねはできないが、これからの参考にしたいところもあった
それは、これまであまり関心がなかった物理的な生活空間をどう作るのかという問題
無粋故に難しいとは思うが、折に触れて頭を使ってみてはどうだろうか
今回の滞在では身の回りの具体的なものに注意が向くようになってきた
これからに向けての発見であったことを願いたい







2018年10月22日月曜日

トンボも日向ぼっこ




朝の陽ざしは暖かく、この世にあることの幸せを感じさせてくれる
扉を開けると、トンボが多いことに気付く
そして壁の方に目をやると、トンボも日向ぼっこである
全く動かない
同じように気持よいのだろうと感情移入
外に出てその様子を写真に収めた

暫くすると、お隣さんの?猫も姿を現した
こちらも全く動かず、寝転がってわたしの方を見ている
快晴の今朝、至福の時間が流れた








2018年10月20日土曜日

穏やかな土曜



本日は朝から完璧な快晴
朝露を踏んで庭を歩く
先日の訪問者を見つけた
こちらを見て、全く姿勢を変えない

午前中は庭に出て無為の時間を過ごすことにした
わたしの瞑想と言ってもよいだろう
このように使うことを覚えると、遠くに出かける必要がなくなる
わたしの瞑想にとって重要なことは、自由な姿勢、外気、できれば日光に触れることだからだ

フランス語を読んで訳そうとしているが、なかなか進まない
これまで何度も触れているが、意味を理解することとそれを日本語にすることは全く別である
翻訳が厄介なところはそれで、体によろしくない
何とかその日までには間に合わせたい

午後、海の方へ
のんびり釣り糸を垂れる人
時に船の乗組員が中から顔を出す
近くの海鮮料理店は長蛇の列で入りたくても入れない
海を近くに感じることがなかったので、なぜか落ち着く
穏やかな昼下がりであった


夕方、白い虫が手の甲に止まった
これ一匹だけで周りには同類がいなかったので、最初はゴミかと思った
よく見ると綿のような胴体なので、綿虫と言われるのもよくわかる
今年初めての雪虫であった






2018年10月18日木曜日

再びの訪問者、そしてベルクソン・カフェの準備



このところ寒さが増している
早朝、庭に再びの訪問者があった
今度はお仲間を連れて
ほぼ一月ぶりのことである

今日も完璧に晴れ上がってくれた
ただ、長持ちしないかもしれない
だんだん土地の癖がわかってきた

午後から図書館に行き、昔書いたものを直しながら読み進む
時間とともに少しずつ広がり深まっている部分がある
小さな発見だが、貴重である

それから来月のベルクソン・カフェで使うテクストを調べ始める
文章の意味するところが体の中に浸み込んでくるような感覚が生まれている
他のカフェで扱ったテーマも出てきて、有機的な結びつきも見えてくる
この感覚も捨て難い






2018年10月16日火曜日

あなたのこころを開きなさい



昨日まで昔やっていたような研究論文に当たっていた
意識を狭い世界に集中して自分の考えをまとめるという作業である
そこから離れることがここ10年ほどの目的であったので、終わった今朝は開放感があった

早朝は曇っていたが、快晴になった
朝から庭に出て静かに過ごすことにした
庭の雑草に寄ってくる蝶々、トンボ、バッタ、蜂、カラスなどとともに

その時、日本でフランス語を学ぶために少しだけ通っていた学校で聞いた言葉が蘇ってきた
こころの深くに入ってきたその言葉は、フランス人の先生の発したouvrir votre espritである
問いに向き合う時に「こころを開いて考えなさい」という流れの中ではなかったかと思う

そして最近、ハイデッガーを読んでいる時、似たような話が出てきた
こころを開くとはどういうことを言うのか
それは、すべてのものに同じ価値を与えることだという

目の前に広がること、頭の中に浮かぶこと、それらを選択せずに一度受け入れてみること
その上で考えを巡らすこと、それがこころを開いて考えるということなのだろうか
フランスに渡って以来、わたしがやってきたことはこれだったのかもしれない

それはこころを落ち着かせる効果がある




2018年10月14日日曜日

第6回サイファイ・カフェSHE札幌、迫る



第6回サイファイ・カフェSHE札幌が、来週土曜に迫りました
興味をお持ちの方の参加をお待ちしております

サイト

テーマ: ハイデッガーとともに「技術」を考える
今回は、現代では科学と不可分なものとして「科学技術」などと言われることが多い「技術」について考えます。20世紀の哲学者マルティン・ハイデッガーの思索を基に、科学、そして科学の「方法」が現代社会に及ぼしている目に見えない影響、技術、そして技術により「挑発」される自然と人間、さらに科学と技術の真の関係について考える予定です。ハイデッガーの考えは『技術への問い』(関口浩訳、平凡社、2013)などで知ることができます。
 
日時: 2018年10月27日(土) 16:00~18:00

会場: 札幌カフェ 5Fスペース 
札幌市北区北8条西5丁目2-3






2018年10月12日金曜日

みすず書房訪問



丁度タイミングよく翻訳本の最初のゲラが出来たとの連絡が入り、みすず書房を訪問した
今回のコサールさんの本は前回のクリルスキーさんのものの半分位だが、科学的事実が多い
哲学的な含みがない分すっきりしているようだが、事実だけというのも辛いかもしれない
いずれにせよ、来月に入ると校正でまた忙しくなりそうである

昨日、今日と街の中を歩き回っているが、汗びっしょりになっている
まだ暑いということなのか、運動不足の太り過ぎということなのか
日中は少々不快である
環境を変える丁度良いタイミングかもしれない





2018年10月11日木曜日

日本パスツール財団を表敬訪問



今年の6月にはいろいろお世話になったこともあり、パスツール財団にご挨拶に出かけた
近々恒例のパーティを開催するとのことでお忙しいところにお邪魔することになった
代表理事の渡辺氏とお話しをして、財団運営の大変さを感じ取る

今回、財団の科学的な側面をサポートする科学者コミッティーを創設
わたしもそのメンバーの一人として参加するよう依頼された
微力ではあるが、できるだけその任に適う仕事ができればと考えている

これからの大きなテーマは、財団の社会的認知度を上げること
そのことにより、結果的に財政基盤が充実することを目指しているようだ
来年からは催し物だけではなく、日本の大学とパスツール研との連携も増したいとのこと

科学と社会との間を橋渡しするこのような活動はわたしのテーマとも重なる
さらに、日本とフランスとの間という意味でも同様である
財団のこれからの動きとともに考えていくことになるだろう





2018年10月10日水曜日

東京理科大で講義



本日は依頼のあった講義をするために東京理科大に向かった
生命倫理シリーズで、ここ数年は引き受けている
今回はわたしの哲学観を話した後、SHE札幌でも取り上げる「技術」について考えた

昨年は初回をすべて英語でやったが、日本人学生は殆ど理解できないとのことであった
そのため2-3回目はスライドは英語で、話は日本語でやることにした
寝ている学生が少なくなったのではないだろうか

今年もこの方式を採り、日本語のスライドも大幅に増やすことにした
その効果はどう表れたのだろうか
これから小テストやレポートを読むと見えてくるのではないだろうか


夜、ホストの研究室にサバティカルで来ている研究者も交えたディナーとなった
元々はイギリス人だが、アメリカの大学に20年近く勤めているという
アメリカ国籍も取ったようである

わたしの素性はすでに紹介されていたようで、哲学的生活について訊いてきた
彼にしてみれば、科学の後に仕事もしないで哲学をやるという生活は理想的に見えるようだ
彼だけではなく、科学者たるものそのような余裕の時間を欲しているようである

科学者を取り巻く現実は時とともに厳しさを増している
一つのことをフォローするだけでも大変な状態で、統合的な視点を持つことは殆ど不可能
人間は全体的な視点を持つことによって初めて、精神的安らぎを得ることができるのだろうか

そう言えば、いろいろな発信を英語でやるように強く勧められた
そうしなければ伝わらないとでもいうような勢いであった
おいおい実践を始めたいものである

久し振りにじっくり飲んで意味のある話ができた一夜となった







2018年10月4日木曜日

驚きのトレーニング



今日は快晴
朝から図書館に出かける
このところ頭を使っているプロジェに当たる
久し振りに学問的なことをやっていると緊張感が生まれる
特に評価を受けるような場合には科学者の時代を思い出す

午後、庭にテントを出してみた
パラソルとは違い、風と光を遮ることができる
ひょっとすると、屋外のオフィスにできるのではないか
そんなアイディアが浮かんだ
ただ、風は意外と厄介である


ところで今朝のこと
公園に行くとラジオ体操をやっているユニフォーム姿の7-8人のグループがあった
それが終わったので仕事に行くのかと思いきや、軍隊式の訓練?が始まり驚く
整列して番号を言い、標語を何度も発声し、列を変えてまた同じことをする
何かの不備があると「やりなおしィ―」などの大声が返ってくる
1時間ほど続いただろうか

公園の世話をしている人に訊いたところ、耳を疑う答えが返ってきた
大企業に派遣される人間の訓練ではないかという
機械の一部になるようなトレーニングであった
いやはや恐ろしい世界である

そう言えば、テレビなどを見ていてもイジメやパワハラの要素が溢れている
パワハラの報道のことではなく、お笑いなどの普通の番組でのことである
それを容認するような、受け入れなければならないような心理にさせる効果はないだろうか
無意識のうちに
天井に何かが被さっていて、抑えられているような感じがする
突き抜けていないのである
晴れやかなところがないのである





2018年10月2日火曜日

台風一過の朝




もう10月に入った

9月は新しい環境の中に入ろうとする準備・調整の期間だったのか

今月は実りの月にしたいものである


台風24号の上陸はなく、大きな影響はなかったが、余震があった

台風一過の晴れた朝、これまでに見たこともないような数のトンボが庭に現れ、驚く

二匹のトンボがタンデムに飛んでいる

そして、尻尾の先端をできたばかりの水たまりに何度も軽く叩く仕草も

その昔に見たことがあるこの景色、なぜか懐かしい






本庶佑先生のノーベル賞受賞を寿ぐ

(左から)松田文彦、本庶 佑、フィリップ・クリルスキー、湊 長博の諸先生
(2018年6月22日@東京)



外出から帰りテレビをつけると本庶先生の顔が大写しになっており、事情をすぐに理解した
アメリカのジム・アリソンさんとのノーベル賞共同受賞であった
残念ながら最後の一瞬だったが、これからいろいろな形で目に入るだろう
以前にこの研究でアリソンさんだけがラスカー賞を受賞していたので心配していた

これまでの経過を見ると、その評価が周りの人より一歩遅れているという印象を持っていた
それがここ数年の研究の進展で逆転したように見える
どこでどう動くのか分からないのが研究だろう
あるいは、人生だろうか
わたしの研究生活においても重要なポイントに先生がおられた
有難いことであった

全てを振り返りながら、心からお祝いを申し上げたい