2017年12月13日水曜日

これがここしばらくの日常か



月曜は朝から窓を叩きつけるような激しい風が吹いていた
垂れ込めた雲は西から東へかなりの速さで流れていた
夕方、青空は覗いたものの雲の流れには変わりはなかった

一夜明けた昨日は朝から晴れてくれたが、向かいの芝生には霜が降りていた
霜が見えなくなってから散策に出た
そして今日は朝から雨である
だが、基本的には籠ってプロジェに当たる毎日だ

これだけでもう1週間以上たったような気分だが、まだ2日だったのには驚く
疲れが溜まっているのか、キーボードの誤作動も少なくない
困ったものである




2017年12月10日日曜日

予想がつかない日々



一日は実に長い
外からの圧力がある時には、そのことに気付かない
それがなくなると、そこには広大な世界が広がっている
謂わば、使い放題の時間空間がそこにある

それだけ長い自由が広がっているので、その日に起こることは予想できない
予定のようなものを思い描いてもその通りに事が進んだためしはない
つまり、その日が終わるまで力を尽くさなければならないということである
何が出てくるのか分からないからだ

このところ、プロジェを追う生活になっている
それに対する意識を変えてはどうかという考えが先日浮かんだ
これまでは日常から横滑りするような感覚でプロジェに当たっていた
偶には、その時だけ、エネルギーを注ぐという意識でやってみてはどうかというものだ
英語で言えば、pump up するという感覚だろうか
なんだか、どんどん詰まらなくなっていくようではある

いずれ、以前のような願望が湧いてくる時も来るのではないか
そんな希望を抱きながら、ここしばらくはこういう日々が続きそうである




2017年12月9日土曜日

ジャン・ドルムソンさん亡くなる

2007年1月、ジャン・フランソワ・ドニオーさんの葬儀にて


昨日の朝、ジャン・ドルムソン(Jean d'Ormesson)さんが亡くなったことを知った
享年92
キオスクで特集を組んでいる雑誌を見掛たからである
写真左の方で、48歳という若さでアカデミー・フランセーズの会員になっている
それ以来、フランス社会に大きな影響を与えてきたようだ 
パリ行きの電車の中でざっと目を通した

日本にいる時にはもちろん知らない方だったが、こちらではよく目にした
何冊か手に入れたが、熱心な読者ではなかった
やはりアカデミシアンのマルク・フュマロリさんのドルムソン評を読んだ記憶がある
写真右の方である
「彼は多くの人に愛されていて軽く見られているが、彼の本を読み直してみて、実は執拗に考える哲学者であることに気付いた」
マルク・フュマロリさんが語る文学に纏わること (2015.3.4)




目に留まった言葉をほんの少しだけ書きとめておきたい
まず、上の写真にもある言葉
「人生、歴史、時間は、思い出を作り出す機械以外の何ものでもない」
それからなるほどと思ったのは、次の言葉
「わたしは後ろを見ている世界に生まれた。そこでは、過去が未来よりも重要だったのである」
わたしがこれまで感じていたことが間違っていなかったと思うと同時に、なぜこれまで心地よく生活できたのかもよく分かる言葉である。わたしの目指しているものと重なっていたからである。

それからこんなのもあった
「インターネットは恐るべき道具である。どうしてそれを否定できようか?そこにはすべてがあるのだ!・・・しかし、危険なのでネガティブと言える面もある。それはネット・サーフィンと言われるものだ。それは組織立った注意散漫(la dispersion)である。注意散漫とは闘わなければならない」
これは耳に痛い言葉だが、la dispersionという言葉が印象に残った
わたしの場合、この現象は何もネットだけに限らない
気が多いためか、次から次へと対象を変える傾向がある
これからは "Éviter la dispersion !" (気を散らさない!)を掲げて歩みたいものである




2017年12月8日金曜日

パリの空気を吸う



本日はパリに用事があり、日帰りをした
先週も行っているが、もう大昔のようだ
少し雨に降られたが、用事はすんなり終わった

場所を変えると、できそうもない欲求が出てくる
その場ではそうは感じないのだが、本拠地に戻ると日常に埋没して易きに流れる
今回はどうだろうか?




2017年12月6日水曜日

淡々と歩む



このところ、いくつかのプロジェクトを進めるという生活になっている
パリのほとんどの期間、やろうと思ってもできなかったことだ
興味が外に向いていたからである
それが最近できるようになっている

その生活では、自らが決めたゴールに決めた時までに辿り着くのが原則になる
何と詰まらないことだろうか
この感覚を和らげるのが、ゴールに向かっているという考えをなくすことである
ゴールに向かっているのではなく、その日を淡々と歩いていると感じることである
そうすると、その時々に発見を繰り返すことができる
そして、気が付いたらゴールに着いていたということになるからである

そう言えば、この感覚、先日の吉野山散策でも味わったことであった




2017年12月5日火曜日

理解したと思うことと表現するということ



アパルトマンの裏庭にある木を昨日の朝撮ってみた
丁度霧の中であった
いまは赤い実を付けているが、春には白い美しい花を咲かせていた
こうも変わるものかというくらいの変わり様である
何も考えていないようだが、実は人間より考え、人間より強いのかもしれない
人間がいなくなるとその力を徐々に発揮し、地球は植物で覆われるのではないだろうか

このところ翻訳の見直しをやっていたが、送られてきた50ページほどを終えた
これでまだ三分の一程度である
今回も意味がさらに明確になってきたところがいくつかあった
フランス語の文章を日本語でよりよく表現できるようになったということである
よく言われることだが、外国語を理解することとそれを日本語に移すことは違う
この二つは別の次元のことである

ただ、こういうことも言えそうである
最初に理解したと思っていたことは、実は本当の理解でなかった可能性もある
その場合、よりよい日本語にすることにより、理解がさらに確実なものになると感じる
そういう個所がいくつかあったということである











2017年12月4日月曜日

平凡な一日




今朝は雨模様
午前中は再び霧がかかっていた
そんな中でも練習している人たちを眺めながらプロジェAに当たる
午後晴れてきたので外に出てプロジェBに当たる
比較的集中できたのではないだろうか
今日は先日ほど寒さを感じなかった
穏やかな冬の日というところだろうか




2017年12月3日日曜日

絶学の境地とは



ネットサーフィン中に、絶学という言葉に出会った
学問を断つということは想像できるが、学問を超えた境地という意味があるようだ
「・・・を超える」ということがわたしのテーマになって久しいが、この言葉は興味深い
学問を科学に置き換えれば、科学的真理を超えた境地ということになるだろう
それはわたしにとっては形而上学の世界だが、宗教の世界でもあり得る

この言葉は『正法眼蔵』の「行持 上」に出ているというので早速読んでみた
道元とは初めての接触になる
行持とは、仏としての修行の生活を続けることを意味している
これまでの優れた僧のエピソード集のような章であった

俗世の欲の世界から離れ、座禅の生活をすることにこそ真理・悟りに至る道だという
100歳まで生きてもこの時間がなければ虚しい生になる
何歳になってから始めても遅くなく、それをやらないのは愚かなことである
これらの教えは古代ギリシア哲学、例えばプラトンやエピクロスにも通じるものがある
若い時から抱いていたイメージがそのまま描かれているところもあり、驚く
そして、最後の方にこう書かれてあった
「寒炉に炭なく、ひとり虚堂にふせり、涼夜に燭なく、ひとり明窓に坐する、たとひ一知半解なくとも、無為の絶学なり。これ行持なるべし。
 おほよそ、ひそかに貪名愛利をなげすてきたりぬれば、日々に行持の積功(しやつく)のみなり。このむね、わするゝことなかれ」
「一知半解なくとも、無為の絶学なり」とは、知識や理解が貧しくとも、意志・意欲がすべてなくなった仏僧の境地を言うらしい。

ざっと読んだところ、ある結論に至るまでの論理が見えにくいところがあるように感じた
初めての道元で、ほんの一部ではあったが、それほど抵抗なく読むことができた





2017年12月1日金曜日

パリ日帰りの一日



本日は用事があり、パリへ
途中、田園風景に雪が見られたが、パリには雪はなかった
用事は順調に終わり、日帰り

トゥールに戻ると、朝見たツリーがライトアップされていた
空を見上げると、ほぼ満月
いよいよ寒くなってきた
 



2017年11月30日木曜日

ここ数日は



一昨日の午前中は雨
それでも小学生は体育の授業で走っていた
外に出る予定だったが、変更して籠ることにした

昨日は朝の内、久し振りに霧がかかっていた
それでも小学生は走っていた
前日同様、籠ってプロジェクトに当たった

今朝は向かいのグラウンドに霜が降りていた
その中で芝生の手入れをする人が出て作業をしていた
今日もプロジェクトに当たることになるだろう

少なくともこれからの数年間はこういう日常が続くものと観念できるようになってきた