2016年7月28日木曜日

イポリットさんからカンギレム、リクール、フーコー、バディウさんへ





ジャン・イポリット(Jean Hyppolite, 1907-1968)という人がいる
ヘーゲルを訳すためにドイツ語を独学したという人である
あるいは、訳しながらドイツ語を学んでいったと教えられた人である

いまフランス語の翻訳をやっているが、そうしながらフランス語を学んでいるという感覚がある
それでイポリットさんことを思い出し、どんな人なのかネットで探してみた
そこに現れたのが今日のビデオ
とにかく、出てくる人が豪華なのに驚いた

ジョルジュ・カンギレム(1904-1995)、ポール・リクール(1913-2005)、ミシェル・フーコー(1926-1984)、アラン・バディウ(1937-)さんなどが哲学と真理について語り合っている
ディナ・ドレフュス(Dina Dreyfus, 1911-1999)という女性が出てくる
調べたところ、レヴィ・ストロースさんの奥さんであった

もう半世紀も前の映像である
全体の雰囲気がフランス語を始めた当時に感じたフランスものへの違和感を思い出させる
それは、それまでとは全く違う世界が広がっていることを予感させるものだった

まず、バディウさんが若く、痩せているのでご本人とはどうしても認識できなかった
それから、イポリットさんがタバコをやりながら話している
昔のビデオでは良く出てくる光景だ
そして何よりも、皆さん自由に話している
見せかけではなく、話の中に真剣さがある
近頃ではなかなか見ることができなくなった時空間である
また、このようなテーマも今では扱われることが少なくなっているように見える
わたしにとっては興味深いものなのだが、、、






2016年7月27日水曜日

メチニコフ没後100年シンポジウムのご案内



本日、パスツール研究所からシンポジウムの案内が届いた
メチニコフ(1845-1916)の没後100年を記念してのものである
面白そうな話も出そうだが、当日は別の用事があり、残念ながら参加できない
別の形で公開される情報があれば有難いのだが、、

以下に貼り付けておきたい

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Elie METCHNIKOFF Legacy :  From embryology to aging from phagocytes to microbiota   
September 26, 2016 Institut Pasteur - Paris 

http://www.metchnikofflegacy2016.org/

Overview

This year, we celebrate one century of the many legacies of the great scientist Elie Metchnikoff. The Institut Pasteur organizes a one-day symposium that will illustrate the impact of his work on modern biology. The Institut is also displaying an exhibition that presents the life and multiple achievements of Metchnikoff, who worked here for 28 years. Metchnikoff is considered the father of phagocytes, innate cellular immunity, probiotics and gerontology. His initial work as a comparative embryologist led him to be one of the founding fathers of immunology, and develop a new understanding of physiology and pathology. As an illustration of his boundless curiosity, his team investigated inflammation in guinea pigs, rats and frogs, infectious diseases in monkeys, caimans and geese, and aging in parrots, rabbits, dogs and humans. He then explored the gut microbiota of these animals and generated germ-free organisms. His later studies led him to propose that fermented milk delays the deleterious and pro-aging effects of toxic compounds released by putrefactive gut bacteria. Finally, he was also a philosopher, and ventured into writing essays on natural harmony, human disharmony, pessimism and, in the face of it all, optimism. In all these fields, Metchnikoff has been a visionary, publishing more than 200 papers in the Annales de l’Institut Pasteur. He has also been a remarkable team leader and mentor, supervising more than 100 young trainees and collaborators. This symposium will begin with an opening talk to remind us of the life and many achievements of Elie Metchnikoff. The sessions will then illustrate the four major scientific fields pioneered by Metchnikoff - embryology, macrophages and immunity, microbiota, and aging. The speakers will illustrate these periods through their own work, and project their modern visions of Metchnikoff’s legacy. Finally, a closing talk will reflect on the visions of Metchnikoff for the future of biology.


Organizing committee

Jean-Marc CAVAILLON, Institut Pasteur, Paris, France
Jean-François CHAMBON, Institut Pasteur, Paris, France

Gérard EBERL, Institut Pasteur, Paris, France
Philippe HERBOMEL, Institut Pasteur, Paris, France
Elisa PERDIGUERO-GOMEZ, Institut Pasteur, Paris, France


Scientific Programme

Opening Keynote

Metchnikoff's history and legacy
Jean-Marc Cavaillon

    Institut Pasteur, Paris

Session 1 - From embryology to immunology

Comparative macrophage biology
David Hume
Unversity of Edinburgh, UK

Phagocyte development in zebrafish
Philippe Herbomel
Institut Pasteur, Paris

Resident macrophages
Elisa Gomez Perdiguero
Institut Pasteur, Paris

Session 2 - Phagocytes as key players of immunity

Phagocytosis in Dictyostelium
Thierry Soldati
University of Geneva, Switzerland

Macrophage polarization
Subhra Biswas
A*Star, Singapore

Macrophages as APCs
Emil Unanue
Washington University, St-Louis, USA
  
Session 3 - Influence of microbiota on immunity and health

Microbes and immunity
Gérard Eberl
Institut Pasteur, Paris

Microbial metabolites and pathology
Mark Brown
Cleveland Clinic, USA

Microbiome and human health
Johan van Hylckama Vlieg
Hansen, Denmark

Session 4 - Aging

Pathology associated with aging
Philippe Amouyel
Institut Pasteur, Lille

Microgila in aging 
Amanda Sierra
University of the Basque Country

Rejuvenation of the aging
Lida Katsimpardi
Institut Pasteur, Lille
  
Closing Keynote

Macrophage immunobiology
Siamon Gordon
University of Oxford, UK





2016年7月22日金曜日

開かれた大学



用事があり、久し振りに大学へ
身分証明書を出そうとすると、要らないという
そう言われて他の門を見ると、すべて開いている
この解放感は何とも言えないものがある
以前、特に不都合を感じていなかったのだが、それがなくなると以前の状態が異常に見えてくる
今は目に見えないつかえが少し軽くなったように感じる

昨日からBNF生活を始めた
しかし、眠気が襲ってくることに変わりはなかった
今日はどうだろうか



2016年7月21日木曜日

フランス社会の 「イスラエル化」 ?



今週の月曜
いつ殺されてもおかしくないという微かな意識が奥底にあり、それは戦争状態ではないかと書いた
昨日の散策で買ったLe Pointを読んでいたところ、この状態について考えている人を見付けた
ドミニク・モイジ(Dominique Moïsi, 1946-)という政治学者である

彼はテロが永続的にある社会で陥る精神状態を「精神のイスラエル化」と呼んでいる
第六感とか反射がこの状況に対する適応として起こって来ると考えている
進化の過程では必須になる適応かもしれない
もう7年前になるが、イスラエルで次のような観察をしていたので、この形容がよく分かる

ナタン・シャランスキーさんのアイデンティティとは、あるいは内が外のイスラエル?(2009-6-14)

この記事の中に次のように書いてある
今回の短い滞在では確かなことは言えないが、エルサレムの街中で多様な人の波を見ている時、ひょっとしてこの町はここに住んでいる人にとっても外国なのではないか、という思いが湧いていた。世界で最も多くの外国人を受け入れている国に入るらしいので、ある意味当然のことかもしれない。外に開いているのだが、内が外に捲れ返り、内側の粘膜が外気に触れているという印象である。日本人がぬくぬくとした家の中に丸まり込み、内輪の話に明け暮れているように見えるのとは対照的で、ここから眺めるとその落差が益々際立ってくる。旧市街に向かう時に出会った紳士の言ではないが、それを幸せに感じて一生を終えることができるとすればそれに越したことはないのではないか、ということになる。また、イスラエルの若手研究者がストレスの生物現象に与える影響について発表する時、それはまさにこの町で常に緊張とストレスの中で暮らす影響と言ってもよいでしょう、と冗談めかしたおそらく本音の比喩を使うことにもつながっているのだろう。
ただ、いまのフランスがイスラエルの状態に近いということではないだろう
パリの街を歩いていてもエルサレムを思い出すことはなかった
新しい状況への必然的な適応として、イスラエルで経験されてきた精神状態が生まれつつある
いまはそう理解しておきたい

最後まで読んでから、また付け加えるかもしれない





偶には発散を





蒸し暑い日が続いている
昔からこんなに暑かったのだろうか
プロジェを抱えているが、さっぱり進まなくなって来た
エンジンがオーバーヒートしたという感じである
ここは無理に向き合おうとしない方が体に良さそうだ
ということで、少し発散することにした





2016年7月18日月曜日

一昨日からの瞑想――時間、空間が融合する



フランスでもテロが頻発するようになっている
それに伴い、外に出た時、以前にはなかった心の変化が起こっている
一昨日、明確にそのことを意識できた
例えば、カフェで何かをしている時、心の奥底に微かにこんな思いが生まれるようになっている
それは、いまこのカフェに銃弾が浴びせられても何の不思議もない、というものである
これまさに、いま戦争状態にあることではないだろうか


一昨日の会話からこんな瞑想に繋がった

住む場所が変わる時、どのような心の変化が起こるのか?
その場を去る寂しさとかその場に対する懐かしさという感情が湧いてくるのかという問いでもよい
それがこちらに来てから全くなくなっているのだ
寧ろ、それらの場所が同じ平面で繋がり、広がっているという感覚が強いのである
住む世界が広がっているという喜びに似たような感情の方が大きくなっている
若い時、仕事をしている時にはそうはならなかった
それだけに、その驚きは大きい

どうしてそんなことになっているのか?
これは「過去を現在に引き戻す」という作業の過程で生まれてきたものと関連しているように見える
時間に関して言えば、過去も現在と同じ平面でその辺りに転がっているという感覚になっている
時間のこの捉え方が空間の捉え方に感染してきたように見えるのだ
つまり、それぞれの空間もその辺りに転がっていて、距離を感じなくなってきているのである
この時空が繋がって境がなくなるという感覚は不思議な感情を呼び起こしている
それはどこかで幸福感とも繋がっているように見える

時空をどう捉えるのか
この世界をどう見るのか
それがわれわれの存在に特別の意味を与え、それが同時に幸福感を与えているようなのである
そして、いまの社会状況はわれわれの生が本来持っている本質の確認を改めて迫るものでもある

この瞑想、哲学の本義に関わる問題に繋がることだったのである 





2016年7月17日日曜日

半年ぶりのディネ



今日は完璧な快晴である
久し振りではないだろうか

昨日はバカンス真っ盛りの雰囲気の中、カルチエラタンに出て少しだけ仕事
やはりアパルトマンにいるよりは集中できる

夜はやはりカルチエラタンで友人とのディネ
正確には半年以上振りではなかっただろうか
デカルト通りに面した開放的で簡素な店内は気持ちが良い
店員のフランス語がやけに早く聞こえた
その跳ねるような音がまた心地よさを運んで来てくれる

いろいろな話に盛り上がり、最後は11時近くなっていたのではないだろうか
夜が明るいので時の流れに気付かなかった





2016年7月15日金曜日

久し振りのアナ・モウラさん、そしてマリザさんを発見





カフェで仕事をしようと思った時、微かに聞き覚えのある歌声が耳に入った
名前はすぐに出て来なかったが、どこにその情報があるのかは分かった
もう5年も前のことであった

ファド歌手アナ・モウラを聞く Ana Moura, chanteuse portugaise de fado  (2011年3月6日)

Ana Moura (born 1979)

以下、最近のものと思われる作品を聴いてみることにした
元気が出るものが見つかったので暑気払いも兼ねて貼り付けておいた
体が自然に動き出す
タイトルもお休みを意味するようである
お陰様で仕事もどこへやら
想定外のオフモードになった

検索の途中、マリザ(Mariza, born 1973)という歌手も目に入った
こちらも最後に貼り付けておいた
ポルトガル語に漂っている哀愁のようなものに親近感を覚えているようだ












2016年7月14日木曜日

哲学は探究か?





体系の構築に対して、探究こそが哲学だという考えも存在する
今日は「体系は幻想」と考えているイヴ・ミショー(Yves Michaud, 1944-)さんの考えを読んでみたい

哲学における体系と探究を彼はこのように見ている
体系とは、現実の全体を包括する概念や表象の整合性ある一つの集合である
探究とは、一つのものの構成要素を確立するための検討である
その中には、現実の一つの次元、人間の生の一つの状況などが含まれる

彼も最初はマルクス主義や実存主義というような体系に至ることを目指していた
しかし、それは不可能であることに気付き、探究に、そして「試み」に向かった
体系を断念した理由は、科学理論を研究していたことと関係する
科学において絶対的な真の概念は何もないことに気付いたのである
真とされるものは、ある時点で現実を説明できるように組み立てられたものに過ぎないからである

探究者にとってまず重要になるのは、可能な限り詳細に記載することである
それから、別の枠組みから見ることができること
例えば、人間の目から見ると同時にタコの目から見る
西からと同時に東からという具合に
真の懐疑主義、純粋の研究である
ミショーさんの哲学は、非常に多様な概念的枠組みとともに現実を記載しようとする試みである

探究は行動に結び付くのか?
探究の根にあるものは、われわれが生きている中での問題を解決したいという切実感である
まず探究により状況を明確にしてから選択が生まれる
前段が哲学者の仕事である
行動は探究の後からついてくる
もし正しいと考えたのであれば行動すべきだとミショーさんは考えている





2016年7月13日水曜日

哲学は体系の構築か?



先日のPhilomagで取り上げられていたテーマの一つ

「哲学は体系の構築を目指すのか、それとも(真理を)探究するものなのか」

それはわたしが哲学に入る時に思い描いていた哲学像とも関連する
哲学という言葉さえ意識から消えていた時のイメージは、前者ではないかというものだった
もしそうであれば、あまり向いていないのではないかと考えていた
わたしの思考方法にはないものだったからである
しかし、実際にはそれは哲学の一部の営みであることが「思想の七大陸」を見れば明らかである

上の写真はアラン・バディウさんの考えを図にしたもののようである
彼は形而上学の体系を提唱している稀な哲学者として紹介されている
この図をじっくり見ながら頭の中を整理すると、いろいろなものの繋がりが浮かび上がってくる
以下、彼の考えも交えながら思いつくまま書いてみたい
まさに体系的な思考をしない人間の本領発揮だろう

体系の野心は、思想や存在するものの「全体」を包み込むこと
そのためには内的な統一性が要求される
その中にある要素間の繋がりが論理的に説明できなければならない
それは批判に晒されるものであり、より整合性のあるものに向かって開かれているべきだろう

バディウさんは自らを厳密な意味での体系の構築者とは見ていない
その理由は「全体」とか「一」、「一者」いう概念を信用しておらず、敵でさえあるからだと言う
彼は「差(la différence)」と「多(le multiple)」の哲学で「全体」の哲学に対抗する
ただ、数学の教育を受けたので、言説を体系化しようとすることには親和性があるようだ

存在とは抽象的なカテゴリーだが、在るものすべて、在り得るものすべてを指す
バディウさんは、それを「純粋な多」と考えている
在るものすべては要素からなるが、そこに多数性がある
分解していくと原子のような究極の要素に辿り着くというのではなく、「空」が最後に残ると考える
それが「純粋な多」の意味だという

それから存在には局在するという性質がある
それぞれがある関係の下にあり、それを世界と呼んでいる
しかし、その世界も一つではない
もし一つであるならば、それは宇宙と呼び替えなければならない
ただ、彼の中に宇宙は存在しない
それぞれの世界がそれぞれのやり方で現れている
このような構造を彼は「超越的(transcendantal)」と呼び、この言葉に新しい意味を与えている
ある世界の中で局在する多数性を「対象(objets)」とする
そして、その現れを決めているものが彼の言う「超越性」である




そこに現れるのが「出来事」である
これは純粋な突然の出現であり、予測不能な断裂である
そこに、それまでは見えなかった新しい可能性が現れる
その例が、愛情、芸術、政治、科学の領域での乱れや発見である
この話題については以前にも触れ、昨年パソコンが消えた時にも思索の貴重な糸口となった

「出来事」 に忠実であること、それが人間になる道 (lundi 28 février 2011)
● 記憶のクラススイッチ、あるいは「出来事」から創造へ. 医学のあゆみ (2015.11.14

バディウさんは、すべての真理は「出来事」の後に現れると考えている
愛情、芸術、政治、科学の領域で
「出来事」の後、世界の構成要素を真理という視点から考え直すのである
真理は主体の創造的営みによってのみ、生成し、構築され、存在することができる
この主体は個人と同じではない
個人はある社会に属していて、そこで割り当てられた満足を追求する
一方の主体は、さらに高い何かに開いている
出来事にもその結果にも忠実である
主体とは真理の構築に参加し、その過程に関わる者である
そして、真理を取り込むことにより、新たな方向性を得るのである
つまり、真理は方向性を変えるものだと理解される

それから「幸福の輪」に繋がるが、その中心に哲学がある
バディウさんによれば、哲学は真理を作るというよりは、真理を検出する道具となる
真理と「絶対」の間に関係はあるが、それは宗教的な意味での絶対ではない
絶対とは普遍と同義で、決定された世界に還元されない、時空間を突き抜けるものである
絶対はある種の永遠を運ぶ
アリストテレスによれば、主体とは真理の絶対に触れるので不滅の中に生きる者である
幸福とはこの経験そのもの、すなわち有限の生の中で無限を味わうことである





2016年7月9日土曜日

「懐かしさ」 という感情が薄らぐ



これまでの時間の中で、過去を現在に引き戻すということをやってきた
それは恰も過去に生きているように過去を見ることである
そして、過去を現在の中で感じ直そうとするものでもある
以前に用いた比喩で言えば、すべての出来事を一つの平面の上に置くような感覚である
垂直の時間軸があり、昔のものは深いところに埋まっていて、普段は見えないというのとは違う
いつでも全体を見渡せるというイメージである

そうすると、これまであった「懐かしさ」という感情が薄れてくるのに気付く
過去をいつも身の回りに置いているからだ
それは本当に良いことなのか
現在に対する打ち込みがやや鈍っているようにも見えるからである
この疑問は秋からの生活を9年振りの動的生活の始まりとして見ている証拠なのだろうか


これは昨日の散策中に浮かんできたことになる





Don Friedman (May 4, 1935–June 30, 2016)






「こと」 はすんなり進まないもの



朝から事務手続きに出掛けた
すんなり事が運ぶと思いきや、予想もしていなかった障害が現れる
このようなことが最近よくある
本当に思いもよらなかった理由が出てきて前に進めなくさせるのである
最終的には収まるところに収まることになるのだが、いつもアレっと思う
このようなことが続くと、出掛ける前にこう思うのが良さそうである

「今回はどんな想像もできない障害物が現れるのだろうか?」

幸いどんなことが起こっても静かに対応できるようになっている
なので、こういう視点が一つの楽しみを提供してくれるのでは、という意味においてなのだが、、





2016年7月7日木曜日

トゥールからパリへ



今日も空は晴れ渡っていて気持ちが良い
まだ仮ではあるがトゥールのベースが見つかったことが、町を見る目を変えている
正味三日間のトゥール滞在は今日で終わる
これからパリに戻る

今日はオステルリッツ駅行きの座席からのアップとなった


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パリに到着
ウィークデーのはずだが、どこか静かだ
もうバカンスに入っているのだろう
それにしても暑い





2016年7月6日水曜日

ここはカリフォルニアか?



今日は初めて晴れ上がってくれた
それだけで気分も晴れ上がる
これまでの印象とは異なり、街が輝いて見える

新しいベースの辺りを再訪
近くのショッピングセンターのようなところのカフェに入る
なぜかカリフォルニアのどこかの町にいるような錯覚に陥る
フランス語が英語に聞こえてくる
町中では味わえない広々とした空間である
朝からカフェを変えて締切り間近の仕事をする
少し形が見えてきた

それにしても、日曜日にこちらに向かう時に思い描いていた図とは大幅にズレる結果となった
しかしよく見直せば、「駅から近いところ」が「トラムの駅から近いところ」に変わっただけとも言える
それだけだが、やはり全く違う展開となった
ただ、郊外と町中の両方を日常的に味わうことができると考えれば、悪い結果ではないようだが、、
快晴の今日だからこそ、そう思えるのか

それと、今回もまたアルフレッド・コージブスキーさんの言葉の意味を噛みしめることになった
「地図はその土地ではない」
いつも地図から想像していたものとは違うものが目の前に現れたのである
誰かが抽出したものだけに頼っていると、真の姿は見えてこない
そこに行かなきゃ分からないということか
行ったからと言って必ずしも分かるものではないが、どんな形でも歩みは進むはずである 

いずれにせよ、スリリングで興味が尽きない旅となった






トゥールのベース決まる



今日も曇りである
昨日の最後に辿り着いたアイディアを確かめるため、朝から出掛ける
町の中心から離れた場所なので、トラムで向かう
最初のところは坂が多く、駅からもやや距離がある
初めの内はよいだろうが、その内大変になりそうだ

町の中心部は手入れが行き届いていない古い建物ばかりで気が滅入りそうになる
ここも似たような感じで、その中に入ってしまえば日常になるのだろうが、今は受け付けない
不動屋さんも何軒か目に入ったが、もう一か所に向かうことにした

こちらも行く途中は古くくすんだ建物が多く、嫌になる
しかし、目的地に近くなると広々とした空間が広がる
建物も新しくなり、気分が明るくなる

駅に着いて目的地を探すと、駅から近くで、しかも平らである
これでかなり気持ちが傾いた
どうも部屋だけではなく、あるいはそれ以上に周りの環境を重視していることに気付いた
担当者が現れ中を見せてもらうと、気分が晴れてくるのを感じた

昨日一日でかなり疲れたので、その他の予定をキャンセルして、ここに決めることにした
昨日の流れで言えば、こうなるように決まっていたことが分かったことになる
言葉を換えれば、このような場所を自分は好んでいたことが分かったとも言える

さて、最後の書類の検討をするためにランデブーに行くが、担当者がまだ外に出ているという
全く苛立たず、これが人生、という感じ
結局2時間遅れで始まった話で一段落
アパルトマンの持ち主による書類審査があり、OKが出れば正式の手続きに入ることになる

二日目でこのような展開になるとは、予想もしていなかった
実際には密に詰まった時間だったので、まだ二日しか経っていないことが信じられないのだが、、、
もう一度訪問することも考えていたので、この滞在で決めることができたのは幸いであった








2016年7月5日火曜日

トゥールの町を歩き回る

  Sabine Weiss (1924- )


昨日の予感が的中
カメラがおかしくなった
お店に行くとレンズを変えなければならないので、本体を買った方が安くなるという
仕方なく、買い替えることにした

今日は予定通り朝から不動屋さん巡り
結局、何軒回ったのだろうか
今思い出すだけで十軒近くになったのではないだろうか
最初の方で聞いたもので決まりかと思って一人現地に行ってみると、周りの雰囲気が今一つ
これを繰り返しているうちに多くなってしまった
そして、最後の方ではそれまでの考え方を変えて、全く別の場所に目をやることにした
そうすると、いくつか可能性が見えてきた
明日実際に見て、どのような印象を持つのか
担当の人に言わせれば、理想的なものは見つかりませんとのこと
どこを妥協するのかというところに落ち着くらしい
いろいろなことに当て嵌まりそうだ

久し振りに全身で町を歩き回った
パリでアパルトマンを探した時のことが思い出される
あの時は、最初に見たものに決まったので、今回もそうではないかと思っていたのだが、、
ただ、これは自分で選ぶのではなく、すでに決まっているといういつもの感覚がある
それが何だったのかを探し出せばよいだけのことである







2016年7月4日月曜日

今年二度目のトゥール到着



今夜トゥールに着いた
事故(人身?)のため、何と3時間遅れの到着であった
初めての経験である
ただ、精神の動揺は全くなかった
というのは、あまり正確ではない
ホテルのチェックインが22h30までとなっていたので少し気になっていたからだ
その時間は過ぎていたが23h前で何とかOKであった

何か不穏なスタートである





2016年7月3日日曜日

饗宴 「SHE と PAWL」 の予定



次回のSHEとPAWLについて

詳細は未定だが、日程の大枠を決めたところである
今年二回目の会を11月の初旬から中旬にかけて開催することにした
SHEは第10回、PAWLは第4回、SHE札幌は第2回になる
興味深いテーマを準備したいと考えている

詳細が決まり次第、この場ならびに以下の専用サイトで発表する予定です

サイファイ研究所 ISHE
カフェフィロPAWL

ご理解、ご協力をよろしくお願いいたします






2016年7月2日土曜日

自らの脳内に囲まれて



この夏には引っ越しを考えている
アパルトマンに溜まった本の山を眺めながら、よくもこんなに手に入れたものだと呆れる
それを見ていると引っ越しが嫌になる

しかし、これほど多様な本に興味が湧いたものだと不思議な思いもしている
なぜならば、いまはそんな気持ちにはならないからだ
学生であり、これから自分の考えを纏めなければならないと考えたからこそのことだったのだろう
一つのテーマを取り囲んでいる全体を埋めるものとして何かを感じて手に入れていたのだろう
その過程は確かに終わった

そのすべてをカバーしたとはとても思えない
しかし、何かを感じたという痕跡は残っている
そこに入るための感受性は残している
そこにあるものが、自分が興味を持っているものを反映しているのだろう
自らの脳内を目にしているような感覚も生まれている

このような探検は学生という暇な立場に身を置いていたからこそ、可能になったのではないか
それは永遠に感じられる時間の中での作業でもあった
結局、第二の学生生活は未踏の土地に転がっている石を集めることに費やされたようである
その解析はこれからということになりそうである





2016年7月1日金曜日

哲学は西洋の発明か?



100号目の Philomag では哲学に関するいろいろな問いが扱われている
その一つに、「哲学は西洋を発明か?」 というのがあった
古くから出されている問いになる
この問いにウィと言っているのは、前ブログでも取り上げたことがあるハインツ・ヴィスマンさん

ハインツ・ヴィスマンさんによる文明と文化 (2013-02-07)

否定的な答えを出しているのは、フレデリック・ネフさん
以前であればウィが圧倒的に優勢だったのではないかと思ったので、読んでみることにした

ヴィスマンさんの考え

哲学を思考・思想一般と考えれば、この問いには意味がない
古代ギリシャではそれまでの智慧とは異なる考え方に哲学という名を与えた
もしこのことについて言うのであれば、それは特別のものである
ニーチェによれば、ギリシャの哲学者は「すべては一」という形而上学の信条を作った
それは多様な現象から一つの原理を導き出すという義務を伴っている
この論理的拘束が特に東洋の伝統には欠けている

西洋の哲学的プロジェを特徴付けているものは、体系の整合性への野心である
西洋の哲学史を観ると、紆余曲折の後に辿り着いた一つの地点がヘーゲルの体系であった
肯定(テーゼ)から始まり、その否定(アンチテーゼ)を経て絶対的肯定(ジンテーゼ)に止揚する
彼の弁証法である

ターレスの「すべては水」から始まり、「一」の探究がダイナミックな思想に繋がった
これに対応するものは他の文化には見られない
現代科学もこの流れの中にある
いろいろなデータをより普遍的な法則の中に入れようとする試みであるからだ

この流れに抗して、ハイデッガーは哲学的というよりは詩的な側面に傾いていった
それが東洋思想(特に日本)に出会うだけではなく、ポストモダンとも関連することになった
存在の問題に向き合うと、哲学的構築あるいは科学から答えを得ることは難しいだろう
それは広い意味での文学、さらには精神分析の領域になるのかもしれない

カントは第三の道を開こうとした
判断能力に特異な省察の頼る方法である
彼は二つの判断を区別した
一つは、個別のケースの前に法則があり、それを適応すればよいとするもの
もう一つは、個別のケースに対して独自の法則を見つけ出すもの
この省察による方法が人文科学の基礎を提供することになった
そして、この省察に頼る姿勢が独断を排し体系を野心とする真の哲学的正当となっている



ネフさんの考え

西洋の哲学とアジアの哲学の本質的な違いは、三つある

その第一は、西洋には論理学の法則による推論があるが、アジアの智慧にはそれがない
しかし、二千年の間には西洋と東洋の論理が収斂することが、特にインドであった
紀元前三世紀のギリシャの懐疑派は、インドの仏教哲学者が生み出した論理的推論を用いていた
ギリシャのピュロンとインドのナーガールジュナ(龍樹)は四つの論理の働きを形式化した
その四つとは、肯定、否定、肯定と否定、肯定でも否定でもない、である
両者が影響し合ったのか、同時に独立して起こったのかについては結論が出ていない

第二は、東洋思想が救済を目指していたのに対し、西洋哲学は純粋な知の探究だった点である
同じような論理が生み出されていたとしても、その目的が違ったということになる
ピュロンは懐疑的な思想を生み出し、教条主義が失敗することを示そうとした
ナーガールジュナの方は、論理を錯覚を払いのけ、「中道」に至るために用いた
一方のギリシャの懐疑派は知と魂の平安の問題を扱った
他方、ナーガールジュナは空を求め、転生のサイクルから抜け出ることを試みた
ところで、両者の根本的な違いは、救済の探究なのだろうか?
ただ、西洋でもプロティノスからトマス・アクィナスパスカルを経てスピノザに至るまで救済がある

最後に、西洋哲学では多様性の背後にある一つの原理を見つけ出そうとする
これに対して東洋では、第一原理は一つではなく、多数あるとする
しかし、西洋哲学を「一」の探究に還元するのは真実を反映していない
例えば、プラトンは究極のイデアは一つではなく、多くの普遍があると言っている
驚くべきことに、これは仏教のダルマとも近い

もし西洋に特異的なことがあるとすれば、省察による方法と自らを歴史の中に置こうとする配慮だ
東洋では、止揚とか異議申し立てを求めるよりは連続性に組する
西洋では、伝統は否定的に捉えられ、東洋では肯定的に捉えられている


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両者の間には確かに差はある
しかし、以前のような白黒の違いというよりはニュアンスのある差として捉えられるようになっている
それはよいことなのだろう
この辺りの違いについても少しずつ目をやっていきたいものである
そんな気持ちにさせてくれる記事であった