2018年7月17日火曜日

キミコ・イシザカさんを発見



昨夜はいろいろな哲学のビデオを観ていた

その中に、初めて見る名前がエンドロールに流れているものがあった

Kimiko Ishizaka (1976- ) 

早速調べてみると、以前重量挙げの選手だったという日系ドイツ人ピアニストであった

Open Goldberg Variations という有難いプロジェクトもやっている

久し振りに、ゆっくり流れるバッハを聴きながら夏の遅い夕暮れを味わった







2018年7月16日月曜日

一皮剥けば



本日も30℃になろうかという暑さで、夏真っ盛りという状態だ
午前中から旧市街に出て仕事をする
さらにデジュネを挟んでもう一軒

ところで先月出たばかりの『免疫の科学論』だが、驚くべき発見をした
これまで印象的なカバーのお陰か、それを外すことはなかった
まさかその下に何かあろうとは想像もしていなかったのだろう
それがどうだろうか
思いもかけないおまけが付いていた
二度お楽しみいただける表紙ということになる

中身も地味な語り口だが、じっくり読むと何かが現れるかもしれない
こちらもお楽しみいただければ幸いである





2018年7月15日日曜日

移動が齎すもの



今日は快晴で暑いが、東京のようなことはない
時間の感覚が戻ってきたようである
午前中はぼんやりしていたが、午後から外に出ることにした

少し前までは日本にいたわけだが、そのことが嘘のように遠くに退いている
ずっと以前からここにいるような感覚になっている
僅か2年ほどだが、相性がよいのかもしれない

今回の日本ではフランスも遠くに感じられた
移動するだけで、そこに住んでいるような感覚が逆転する
実に不思議であり、新鮮である
これを繰り返せば、自分の中心がどこにあるのか分からなくなるかもしれない


今回戻ってきた当初は、秋のISHEの活動をお休みにしてはどうかという考えも浮かんだ
自分が抱えているものがあるためである
しかし僅か数日で、秋にもいくつかの会は開くという方向に固まりつつある
これまでより時間を自由に使えるようになるので、会を分散して開催できるためである
いずれにせよ、暫くの間は試行錯誤が続くことになりそうだ


夕方、街行く車のクラクションが鳴りっぱなしであった





2018年7月14日土曜日

静かな革命記念日



30℃は超えていないようだが、それなりに暑い
頭がボーっとするので、単調な作業をする
それと、いくつか新しい本にも目を通す
外に出る予定だったが、静かで、のんびりとした革命記念日となった




2018年7月12日木曜日

一夜明けて



いつもと変わらない朝だが、どこか新鮮だ
向かいのグラウンドの芝にスプリンクラーが水を運んでいる
静かだ
いつも感じるこの透明感は一体何なのだろうか

永遠とも思われる静寂の海に沈んでいるのも捨て難い
同時に、近いうちに訪れるだろう浮上を思い描きながらの海の底も濃密な時間になりそうだ
暫くの間このようなサイクルで生活してみようと思いながら戻ってきた
一夜明け、現時点ではその道が一番しっくりくると再確認している久し振りのトゥールである





2018年7月11日水曜日

無事にトゥールに戻る



本日、無事にトゥールに戻ってきた
実は、シャルル・ドゴールでは本当にタッチの差でTGVに乗り遅れるところだった
予定より30分ほど早くパリに着いたが、ゲートが空かないとのことで20分ほど待たされた
それから遊びなく動いたつもりだったのだが、、
TGVに乗り込むと同時にドアが閉まり、発車という際どいタイミングだった
乗り換え時間が1時間というのは厳しいかもしれない

トゥールの町は相変わらずで、東京の喧騒から戻るとどこまでも静かなところである





2018年7月10日火曜日

これからが見えてきた今回の滞在



2か月近くに及ぶ日本滞在であった
今回来る前にはまだ決めかねていたことがあった
しかし、それが見えるようになったのは大きな収穫と言えるだろう
頭の中で想像していたこととその場に身を置いてみた時に感じることの間には大きな差がある
今回それがいろいろなオプションを潰すのに役立った
もう一つは、全くの偶然が残ったオプションを後押しすることになった

当初、毎日のように考えが変わる日々が続いたが、最終的には一つのところに収斂していった
生活のスタイルに少しだけ変化をつけ、これまでより自由に動くことができればと考えている
どのようなことになるのか、暫くの間は様子を見ることになるだろう
常に変更可能な状態に開いておくのは、いつもの通りである

ところで、奈良で目に入った「玄」という字、好みの形にはなってない
この文字、老荘思想によれば、「時空を超越した天地万象の根源となるもの」だという
存在の根源にある「幽遠にして神秘的なもの」、「深遠な道理」を指しているとのこと
いずれの言葉もひと昔前には全く反応しなかったものだが、今では身近にある
時間が何かを変容させた結果なのだろう
勿論、その中身は未だ遥か彼方にしかないのだが、、


明日フランスに向かう





2018年7月9日月曜日

『ゲッベルスと私』 を観る



やっと精神的余裕が出てきたようだ
今日は先日のFPSSで紹介されていた映画『ゲッベルスと私』を観に朝から出かけた
いやはや暑い

会場に入るとほぼ8割の入りで、混んでいる
月曜の午前中のためか、ほとんどすべてがシニア
その中に入っているはずなのだが、どこか別世界を見るように感じていた
以下に映画の印象を思いつくまま

人生がその皺に刻まれた103歳の女性が、驚くほどしっかりと語る
ゲッベルスの秘書として働いていたという
原題は A German Life となっている
1936年あたりまではベルリンは素晴らしい街だったという
まだ外国人が来ていて、中には日本人らしき人もいたという
異質な人間に触れる悦びを感じたようだ

最初はユダヤ人の下で働いていたが、恋人の友人の紹介でナチスに入る
そして1942年に宣伝省での職を得る
ゲッベルスは上品で、常に自制心があり冷静だった(一度だけ怒鳴ったことはあったが)
しかし、大衆の前で演説する時には別人になり怒鳴り立てていた
彼ほどの役者はいないと見ている

ヒトラーもそうだが、彼の演説も理性ではなく感情に訴える
ロマンチックな考え方が批判される大きな理由はそこにあるのだろうか
個人的にはロマン主義的な傾向を全否定することはできないのだが、、

彼女は当時のことを振り返り、深く考えずに生きていた、浅はかで愚かだったという
義務を果たそうとして仕事をしていただけで、仕事の中身には関心がなかった
これは枠の中での考えとその外から見る視点を得ることができるのかという問題になるだろう
渦の中にいて流されていたので、色々な行動の理由を説明できないともいう

強制収容所という言葉は知っていたが、矯正するための施設くらいにしか思っていなかった
よもやあのようなことが行われていようとは想像もできなかった
国中がガラス製のドームの中にあり、国が隔離された収容所のようになっていた
また、国が平気でデータを改竄することも語られている

この世には神も正義も存在しない
美と醜、白と黒というように明確に分けることができないものがある
一色に染まっているものはないということだろう

今の人は、当時理性に適ったことができたのではないかと言う
しかし、それは絶対にできないと断言する
おそらく、そうだろう
それをするには命をかけなければならないからで、実際にそういう人達を見てきたという
枠の外からの思考とそれを支える強靭な意志がなければ難しいだろう




2018年7月8日日曜日

2018年春のISHEの活動のまとめ



昨日、春のISHEの活動のまとめを終えることができた
以下に紹介しておきたい

お気づきの点などありましたら、ご連絡いただければ幸いです
よろしくお願いいたします


● 6月2日(土) 第5回サイファイ・カフェSHE札幌
 「最小の認識能をどこに見るのか

● 6月8日(金) 第7回カフェフィロPAWL
 「トルストイの『人生論』から生き方を考える

● 6月9日(土)、16日(土) 第3回ベルクソン・カフェ
 Pierre Hadot « Apprendre à dialoguer »対話することを学ぶ

● 6月15日(金) 第13回サイファイ・カフェSHE
 「『テアイテトス』に見るプラトンが考えた科学

● 6月30日(土) 第3回サイファイ・フォーラムFPSS
 「第2回サイファイ・フォーラムFPSS研究討論会





2018年7月7日土曜日

仙台で人生を語る



今日は凌ぎやすい一日だった
研究者時代にお世話になった方と一献傾けるため、お昼に仙台に向かった
このところ、1年に一度の割合でお会いしている

東北の酒と魚で、いつものように話が弾んだ
沈んでいる意識を偶には発散させるのもよいのだろう
先日の奈良と東京を除き、このところほとんど経験したことがない二次会までついていた
ジャズを聴きながらバーボンなどという組み合わせは、大昔に経験した程度
お話を伺うと、東北最古のバーとのこと
なかなか良いピアノが流れていた





2018年7月6日金曜日

残りの纏めは僅か



今日は雨が降り、時に肌寒い天候であった
久しぶりのことである
街に出て、残っていた纏めをする
以前にも触れたが、今回は一気に終えてしまうという気分ではなかった
ゆっくり、味わいながら纏めようということだろう
それにしても、以前より「ゆっくり」のスピードが落ちていることは十分に考えられる
しかし、それでよいのではないかというところに落ち着いている

纏めは残り僅かになった
日本を離れる前に何とか終えたいところである
全てが終わった段階で、この場に掲載する予定である





2018年7月4日水曜日

異分野に入ったお陰か



このところ連日の真夏日で参っていたが、今日は曇りで比較的しのぎやすかった
とはいえ、少し歩くと汗びっしょりになり、歩くのも嫌になる
すぐにカフェに逃げ込む格好になった

さて、これは仕事を終えてから異分野に足を踏み入れたお陰になるのだろうか
それまでは接触しようのなかったような方と言葉を交わすことが増えている
意識はされていないが、それは自らの地平を広げるのに役立っている可能性がある
この状態が維持されて行けば、わたしの地平は限りなく広がる可能性があるかもしれない

今夜はそういう中のお一人との歓談となった
帰国の折に何らかの形でお話するようになって久しい
仕事は続けたい意向のようだが、哲学的思考にも興味をお持ちのようである
哲学には暇が必要だとお伝えしてはいるのだが、、
いずれにせよ、今日もこれからに繋がる貴重なお話を伺うことができた
近いうちに、新たな求道者との出会いの機会が訪れることを願いたいものである
今日はかつて日本にいた時のペースで飲んだのではないだろうか
学割を要求したのだが、これには無理があったようだ

ところで、歓談の場所に向かう時のこと
なぜか、駅から降りると全く逆の方向に確信をもって歩いていた
こういうことがあるのである
おかしいと気付いた時には、戻るのが嫌になるほどのところまで来ていた
再度カフェで休んで気を静めた
このところの食べ過ぎに対する罪悪感から歩いていこうとしたが、そうはならなかった





2018年7月1日日曜日

春のISHEの活動を終えて



昨日で今回のISHEの活動を終えることができた
残っているのは、その纏めをすることである
これまではすんなり纏めていたが、今回は少し様子が違うようである
すぐに纏められなくなっていて、時間がかかるようになっているのだ

それは、これからのための資料を作るような気持が出ているためなのか
あるいは単に、纏める作業に時間がかかるようになっただけなのか
疲れのためか、後者の可能性は十分に考えられる
と同時に、前者の可能性も否定できないかもしれない
いずれにせよ、これからの1週間でそれを終えたいものである

サイファイ研究所ISHEはバーチャルな研究所だが、活動の時にその形が現れる
その構造を支えているのは、目には見えない繋がりではないだろうか
そして、その背後には研究所のミッションがあるのだと思いたい

本研究所は今年で5年目を迎える
その年の春に、予想もしていなかった日仏文化交流の促進を実現できたのは幸いであった
訳書の出版とシンポジウムの開催である
これからも歩きながら考える研究所にしたいものである

今回の活動に参加いただいたすべての皆様に改めて感謝いたします
そして、今後の研究所の活動にご理解とご協力をよろしくお願いいたします





2018年6月30日土曜日

第3回サイファイ・フォーラムFPSS、終わる



暑いけれども緑の眩しいお昼時であった
午前中は恵比寿ガーデンプレイスのカフェで纏めをやっていた
苦労したが、何とか最初の纏めを終えることができた

午後からは日仏会館で第3回サイファイ・フォーラムFPSSが開催された
今回は応募があった3名が話題提供者となり、遊び、時間、マインドフルネスが議論された
多彩なテーマにもかかわらず活発な議論が行われ、時間が不足している印象を持った
前回は4名の発表でかなり窮屈だったので今回は3名とした
しかし今回の様子を見ると、発表者をさらに減らすことも考えなければならないかもしれない
と同時に、発表の内容をコンパクトにまとめることも求められるだろう
それと発表者が重なる傾向も出ているので、これからの課題となりそうである

今回もお忙しい週末の午後に本フォーラムにご参加いただき、ありがとうございました
詳細な報告は、近いうちに専用サイトに公表する予定です
ご参照いただければ幸いです
本活動にご理解、ご協力のほど、よろしくお願いいたします





2018年6月29日金曜日

これから連日の真夏日か



いやー、東京も異常気象である
今日は37℃だったとの噂を聞いたが、どうも本当ではなさそうだ
これからも連日30℃超えとのこと
慣れないと聞いただけで疲れが出てくる

因みにトゥールの予報を見てみた
明日と明後日が30℃超えで、それ以後は20℃台中ごろで推移するようだ
乾燥しているのでこちらよりは凌ぎやすそうだ

ところで明日、今回のISHEの最後の活動、第3回サイファイ・フォーラムFPSSがある
どのような議論が展開するのか予想もできないが、それがよいところと言える
この会も他の会同様、これからどのような歩みをするのか予想ができない
歩きながら模索することになるのだろう




2018年6月27日水曜日

奈良で旧交を温める



昨日、今日と本当に暑い
今日は風も強かった
人間の住む環境ではないのではないか、という気にもなってくる
明るいうちは残っていた纏めをする
ホテル近くのカフェと言うより喫茶店で

カウンターには近所の常連と思われる元気な中年女性が座り、お話をしている
相当大きな声なので、自然にその内容が聞こえてくる
政治談議が耳に入ってきた
政治家の品定めである
やはり、見かけがよくないと評価は低いようだ
暗い政治家の人気は思わしくない
最近の政治家は二世三世が多くなり、正義感のあるのがいなくなったと手厳しい

夕方から空が曇りはじめ、少し楽になってきた
夜は奈良まで足を延ばし、昔同じ領域で仕事をしていた仲間と歓談をする
昨年もお世話になったが、今年もお手を煩わせることになった
今回は思いがけなくも仙台からお客さんが参加され、賑やかな会となった
他の皆さんはすでに3次会?を終えてから来られたようであった
そのため、そのハイテンションにはついていけず、追いつくのに一苦労
最後まで一歩後を行くという感じだったのではないだろうか
しかし、いろいろな方との対話では、いつも触発されるものを感じる

興味深い会をセットアップされた渡邊氏に感謝したい




2018年6月26日火曜日

大阪で旧交を温める



本日は、大阪で古い友人と旧交を温めた
いつも関西に来るとお世話になっている
大阪大学の後も別の大学で仕事をされた後、この春やっと自由の身になられたとのこと
わたしであればお喜び申し上げるしかないのだが、そうではない見方もあるようだ
しかし、これから人生が始まると言ってもよいのではないだろうか
充実した時間を持たれることを願いたい

それにしても、今日は久しぶりにお酒が入り過ぎたようである
これまでのものと合わせて、早く疲れを取りたいものである






2018年6月23日土曜日

日仏科学セミナーとクリルスキー博士の講演会、終わる

     開会の挨拶をされるクリルスキー教授


今日は午前中から新丸の内ビルの会場に行き、通訳との打ち合わせや登壇者との雑談をする
開場の午後1時半を過ぎると、知り合いの参加者も現れて言葉を交わす
また、サイファイ・カフェに参加されている方も4名ほど出席されていた

2時からクリルスキー教授の挨拶の後、日仏共同研究の発表が行われた
以前にも触れているが、中身が記号ばかりなので素人にはほとんど意味をなさない
念仏と同じように聞いていた

それから研究がどんどん大型になり、多くのデータを集めて解析するようになっている
データを集める過程はほとんど考えることがないのではないだろうか
そして、解析にしても人間が直接手を下せるところがどれだけあるのか分からない
研究がどんどん非人間化しているという印象を持った
内容の理解が不十分なので、どれだけ正確に現状を認識しているのかは定かではないのだが、

わたしが司会を担当したクリルスキーさんの講演も難しいものであった
そもそも分かりやすくしようなどというサービス精神はない
自分の思考をなぞるように話すので、概略でも掴んでいないと理解するのが大変である
幸い翻訳者として何度も著者の考えに親しんでいるのでついて行けたとは言うものの・・
ただ、講演後の質疑応答は活発で、個人的にはよいセッションになったと思っている

閉会の挨拶をされたフランス大使館の方が北里柴三郎とフランスの縁について話していた
その時、最前列に座っているご老人に向かって話していることに気付いた
終わってからお話を伺うと、北里柴三郎のお孫さんに当たるという
有難いことに、親しく言葉を交わさせていただいた
世界は狭いものである

懇親会でもいろいろな方と言葉を交わすことができた
昨秋にフランス大使館でこの企画を最初に話した時に担当された方とも会うことができた
二人の方がいたが、いずれも2年が経過する夏以降にはフランスに戻られるとのこと
また、久しぶりの出会いや記憶が呼び覚まされるような再会もあった

このような集まりで語り合うのも科学を文化にする上では重要になるだろう
逆に言えば、そのような認識の下に対話をしなければならないということになる
フランスからの参加者も積極的に発言されていた
そこでは結果だけではなく、その先に何が言えるのかまで視野に入るような話をしたいものである

今回の集まりは全体的に見ると成功だったと言ってよいのではないだろうか
このような会の運営には、財政面だけではなく大変な手間がかかるものである
主催されたパスツール財団の皆様のご尽力に心から感謝したい

そして、今回の翻訳を通して著者と人間的なつながりが生まれたように感じている
これは翻訳を始める前には予想していなかったことである
翻訳の過程でのやり取りが、ある種の化学反応を起こしたのかもしれない
これも対話というものが齎したのだろうか
どうもこのところ、何でも「対話」に持っていこうとするところがあるようだ

いずれにせよ、これで今週の大きなヤマを何とか越えることができた
来週も結構忙しそうである
明日はお休みだろうか






2018年6月22日金曜日

対話を前にした対話の夜

(左から)松田文彦、本庶 佑、フィリップ・クリルスキー、湊 長博、A・サクンタバイ、狩野繁之の諸先生


今夜は明日のシンポジウムで発表される方が集まったフォーマルなパーティがあった
ほぼ10年ぶりにお会いする方も少なくなく、久しぶりに興味深い話を伺うことができた
それから、これからに向けてのヒントやエネルギーも注入されたように感じている
心を開いた対話の重要性を改めて認識した一夜であった

明日の会が参加された皆様にとって何らかの刺激になるとすれば、幸いである
対話という視点から見れば、明日の会もまた対話の機会になるはずである
実は、その効果は終わってみなければ分からない
そして、その効果に気付くのがいつになるのかも分からないのだ
油断できないのである





2018年6月21日木曜日

人間が生きている、かけがえのない時間



今日は曇天だったが、雨にはならなかった
午前中から外に出てこれからの準備をしようとするが、ままならないものである

お昼は銀座まで出て、古い友人とデジュネ
いつも気の利いたところを紹介していただく
それにしても、人生にはいろいろなことが起こるようである
お体には気を付けてお過ごし願いたい

午後は適当に時間をつぶす
近代的な街並みが空虚に感じられるようになって久しい
何か目新しい進んだ空間が生まれているように見えるが、中身が空っぽという感覚
これが人間の目指しているものなのかという感覚でもある
人間が生きているというよりは、その中で制御されながら生かされているという風景である

そして、夜は来日されたばかりのクリルスキーさんを囲んでインフォーマルな会があった
参加するように言われて顔を出す
いろいろ興味深いお話が出ていた
わたしは科学者ではなく、冗談だとは思うがフィロゾフ扱いになっていた
実際には、細かいことを指摘するので「プレシジョン・フィロゾフ」と綽名された

まず今回のことに絡めて、次は翻訳の哲学でもやってみてはどうかというような話が出ていた
それから、コレージュ・ド・フランスに関係する哲学者や法哲学者の話などが参考になった
いくつかの著作を含めた貴重な情報も紹介していただいた
博士にとってはお疲れだっただろうが、インフォーマル故のお話も多く聞くことができた

人間が生きている、かけがえのない時間となった





2018年6月20日水曜日

思わぬ展開の雨の午後



今日は朝から雨模様
今回のカフェのまとめをするために外に出た
しかし、なかなか捗らない

午後、場所を変える
まとめの作業はさっぱりだったが、想像もしなかったような展開が待っていた
ある本を読んでいる時、気になることが出ていたので早速問い合わせた
そうすると、すぐに返事が来た
役所だったので、その速さに驚く
それが、これからに向けての考えを固めるのを助けてくれたように感じた

その時である
それを後押しするようなメールが思いもよらないところから飛び込んできたのだ
海の向こうからである
こういうことがこの世で起こるのかというタイミングだったのだ
驚きの思いでそのメールを読んでいた

これはデジャヴュである
フランスに渡る前の状況と同質のものではないだろうか
もう少し様子を見ることにしたい





2018年6月19日火曜日

人形町散策



今日は体調調整日になるのだろうか
午前中はこれまでのカフェのまとめをやる
できたのは一つだけ

午後から人形町を散策
殆ど地を這うようなペースで歩きながら、町を眺めていた
このペースは初めてではないだろうか

途中、大正八年創業という文字が見え、中に入る
喫茶去 快生軒 というカフェである
落ち着いた雰囲気で、流れている音楽も耳に馴染む
結構よい時間になった






2018年6月18日月曜日

散策後の歓談



大きなヤマを越えたところだが、疲れがたまっているようだ
先週準備をしている時、頭がボーっとして全く動かないという感じになったからである
頭がその状態なので、体にはそれ以上の影響があるはずだ

今日は朝から八王子の方に足を延ばし、散策した
そして、夜は40年来の友人とその御友人を交えての歓談となった
温かい会話が続いていたのではないだろうか
偶にはこういう会も味なものである





2018年6月16日土曜日

第3回ベルクソン・カフェ、二日目終わる



本日は雨模様だったが、結局は降られずに済んだ
午前中からベルクソン・カフェの二日目の準備をする
問題なく終わると思ったが、途中に理解できないところが出てくる
疲れのためか、理解力低下のためか、何度試みても駄目
自分ではここ1-2週間の疲れが出ていると思いたいのだが、、

今日は遅刻せずに会場に辿り着くことができた
3名の欠席はあったが、6名の方の参加をいただいた
毎回信州から参加される方もおり、有難い

初日に2ページを終えることができたので、今日は3時間で3ページの予定だった
ゆっくり読み始め、初めてホワイトボードを使い適宜説明しながら進めた
これまでその存在に気付かなかったのである
そのためか、理解が深まったというコメントも聞かれた

「対話することを学ぶ」というテーマで、最終的には魂の世話に繋がる対話について考えた
ソクラテス的対話とプラトン的対話の境界は明確ではない
そこで行われていることは弁証法的な鍛錬で、それこそが魂の鍛錬である
それによって対話者や読者は密かに回心することになる
魂が感知できる世界から離れて善に向けて回心することを可能にするからである
対話することにより、対話者が変容するのである

そうなるためには、対話が理論的、独善的にならないようにすること
そして、具体的で実際的になるように縛りをかけること
これが成功するか否かは、対話者の大きさにかかってくる
会の詳細は、専用サイトに近いうちに掲載する予定である

今日も週末のお忙しい時間帯に当カフェに参加していただき、ありがとうございます
テクストの読みだけではなく、活発な議論ができたと思います
今後ともこの会の活動にご理解をいただければ幸いです
次回もよろしくお願いいたします





2018年6月15日金曜日

第13回サイファイ・カフェSHE、終わる



本日はISHEの活動の第二ピークの初日で、朝から準備に明け暮れた
残念ながらエンジンをかけようとしてもなかなか動き出さず
最後まで苦労したが、現時点での限界までできたように思う
ということは、さらに読み込まなければならないということでもある

今日は3名の方が欠席となり、静かな語りができたのではないだろうか
プラトンの『テアイテトス』を読むというテーマで、知識とか科学について考えた
この中で、これまで聞いたことのあるお話の元がここだったことを発見
このような経験には、いつも頭の中をすっきりさせる効果がある

例えば、有名なソクラテスの産婆術(マイエウティケー maieutikē)がそれである
プラトンはソクラテスに次のようなことを語らせている
母親パイナレテは由緒ある厳しい産婆で、自分も同業だ。対話の結果、自分の中にうまく表現できないようなものがあり(何か生み出すべきものがお腹にあり)、それが気がかりになった時が陣痛である。母親との違いは、男たちのための取り上げ役であり、肉体ではなく精神のお産を見とるところである。⇒ 「魂の産婆役」。自分は問いかけるが、何の知恵もないので自分の判断を示さない。それが非難の的になっているが、産むことはしないようにと神に定められている。自分の精神から出たもので、知恵のある発見は何もない。対話者は交わりが進むと驚くほど進歩し、自分の中から自分で見事なものを発見、出産する。
それから、知識についての検証の合間に、これまた有名な余談が出てくる
そこでは、司法と哲学の世界の違い、すなわち、一般職業人と自由人の違いが語られる
その違いがよく分かるようになって久しいのだが、
家来育ち(法廷などを徘徊して育った者): 時間に限りがあるので、せわしない言論しかできない。その上、思うことについて言論する自由を与えられておらず、相手から監視されている。したがって、彼らの精神は矮小で不正直なものになる。自由闊達さがなくなり、成長して大成することのない奴隷の境遇にある。ついには了見の少しも健全なところを持つことなしに大人になり、それを自分たちは、智慧者になったとか、人から一目置かれるような人物になったと思っている。
自由民育ち(知恵の探究などというものに暇を使うよう育てられて来た者): 知恵の探究者は時間の余裕が不断に具わっていて、言論も悠々閑々と行われる。真実を求めているので時間などに頓着しない。周りに裁判官も監督するような者もいない。
さらに、哲学者というものについてもソクラテスに語らせている
この哲学者像はわたしが描く姿に近いものがあり、途中で吹き出したところがあった
こんな具合である
丁度タレスが星度推考をして上を眺めていた時に穴に落ちて、トラキア出身のおどけ女に「あなた様は熱心に天のことを知ろうとなさいますが、ご自分の面前のことや足元のことにはお気づきにならないのですね」といって冷やかされたという、丁度その通りのものなのである。なぜなら、この種の者は近くの者や隣の者について、それが何をしているかはおろか、それが人間であるか、何かの畜類であるかということさえほとんど知らずに済ましているのであって、知ろうと研究に苦心しているのは、寧ろ、そもそも人間とは何であるかというような本性に属することである。そのため、足元のことや目前のことについて言論しなければならなくなった時、あらゆる行き詰まりを演じて大衆の嗤笑を受けることになる。
本題の知識についての検討は、近いうちに専用サイトにまとめる予定です
お忙しいところ、お時間を割いて参加していただいた皆様に感謝いたします
SHEの活動にご理解いただければ幸いです
よろしくお願いいたします





2018年6月14日木曜日

恒例のデジュネ



本日は朝から外で明日からの山に向けて準備をする
デジュネは、このところ恒例になっている学友との歓談とともに
近く出る予定の拙訳の本とわたしの日本語が話題に上がっていた
以前はどこかもやもやとしたところがあったが、最近透き通ってきたように感じるとのこと
頭の中がすっきりしてきたのだろうか
こればかりは自分で観ることができない

学生時代の話題も出ていた
昔の話を聞かされると、いつも発見がある
教養時代の夏休みが終わって戻ってくると、ドストエフスキーは凄いなどと言っていたという
全く記憶にないので、読まずに吹いていたのではないだろうか
そう答えておいた

それから、日本の現状も話題になっていた
それは日本人の頭の中と言い換えてもよいのかもしれない
あるいは、頭の使い方になるのだろうか
いかに効率よく、楽に事を進めるのかに関心が行っているようなのだ
この世の目に触れるもの、手に触れることができるものにしか関心がない状態なのだろうか

さらに、本物を本当に大切にしようとする心が弱いという観察もあった
奥深き文化を抱えている日本をどのように見るのか
アマチュアとして、これも興味深い問題である

お二方ともまだ仕事をされているようだ
この人生においては暇が大切と説いておいたのだが、どれだけ通じただろうか
いずれにせよ、次の機会を期待したいものである




2018年6月12日火曜日

さらに広く文化へ



今日は蒸し暑い一日で、夕方には一瞬の激しい雨に見舞われた
からっとして時折肌寒さを感じることのできる向こうの天候とは明らかに異なっている
この気候、まだ体に馴染んでいないようだ

午前中から東京の西、高尾方面を散策
夕方からは40年来の友人と一献酌み交わしながら、なぜか比較文化論になった
というよりも、そちらの方に目を向けてはどうかというニュアンスの話が出ていた
新しい拙エッセイのテーマは「対話」だが、その予想できない力を感じることになった
そこに、面と向かって話をすることの醍醐味があるのだろう

それからアメリカ時代の記憶にかなりの欠落があることにも気付かされた
フランスとは異なり、アメリカ時代を体系的に振り返ることが等閑にされていたようだ
深い意味付けもされていなかった可能性がある

東から西を見、そして西から東を見る
その往復が何を齎すのか、自分でも興味が湧いてきた
実はこのテーマ、新年にもこれからのものとして取り上げていた
今年はその準備期間になるのだろうか
当分模索が続きそうだ





2018年6月10日日曜日

文章の若さ



今回、拙エッセイを読んでいる友人からこんなことを言われ、驚いた

「文章が若い、若作りしているのではないでしょうね」

意識して若い人のように書いているのではないかというのである
勿論、そんなことを意識したことは一度もない
それではどんな理由が考えられるのだろうか

第一に、人間の成熟が未だ不十分で、中身の未熟さがそのまま表れている可能性である
作っているのではなく、天然である可能性だ
これは十分に考えられる

それから、あの文章を書く時に気を付けていることがある
一つは、頭の中にあることをできるだけ正確に再現しようとしていること
もう一つは、各文章間の論理の繋がりに乱れがないように気遣っていることである
これは全くの想像だが、そうすることで無駄のないものになっている可能性がある
純粋なものになっている可能性である

「純なるものは時を超える」

プラトニストとして、そのことは想像できる
ただ、余分なものが削ぎ落された純なるものとはどういうものを言うのか
それを見極めるのは難しい
そして、それがこのケースに当て嵌まるのか否かについては全く分からない








2018年6月9日土曜日

第3回ベルクソン・カフェ、初日終わる



本日も蒸し暑い日であった
こういう日は、それでなくても働きが鈍っている我が脳は動くのを嫌がる
夕方から第3回のベルクソン・カフェを予定していた
しかし、講師が移動にかかる時間を間違えて30分の遅刻となった
ご迷惑をおかけしたことをお詫びしたい
また、写真撮影も完全に失念していた
注意を促していただいた方に感謝したい

今日はお二方の欠席はあったが、5名の方が参加された
実は上の写真の左側に、もうお一方が隠れているのが分かるだろうか
それはともかく、「対話することを学ぶ」というエッセイの前半を読んだ
脚注も読んだため、2ページ終わるのに2時間半かかったことになる

古代哲学の研究者であるアドーさんのエッセイなので、ソクラテスの対話がメインだった
魂の鍛錬の実践は太古の昔から行われている
ただ、西欧の歴史において道徳的良心を呼び覚ましたのはソクラテスだという認識がある
ソクラテスは対話者を質問攻めにして、その魂に注意を向けさせ、世話するように仕向けた
社会的な地位や名誉、富ではなく、思考、真理、魂をよりよいものにすることを説いた
フロネーシスアレテイアプシュケーの向上である

他者との対話の達人だったソクラテスはまた、自己との対話の達人でもあった
すなわちそれは、彼が魂の鍛錬の実践の達人であることを示すものであった
外的価値ではなく、内的価値に注意を払い、内的世界を豊かにしていくこと
それは哲学が古代から説いている重要なテーゼである
そして、人間の生き方にも大きな影響を与えてきた


詳しいまとめは専用サイトに近いうちにまとめる予定です
蒸し暑い夕べに貴重な時間を割いて本カフェに参加していただいた皆様に改めて感謝いたします
次回は6月16日(土)16時から、恵比寿カルフールにて開催されます
後半にはどのような展開が待っているのか、興味をそそられます
このテーマに興味をお持ちの皆様の参加をお待ちしております
よろしくお願いいたします






2018年6月8日金曜日

第7回カフェフィロPAWL、終わる



今日は「トルストイの『人生論』から生き方を学ぶ」をテーマとしたカフェフィロPAWLがあった
キャンセルされた方が数名おられたが、1世紀以上前の著作について熱い議論が展開していた
日本語では生命と人生に分けられるが、英語では life、フランス語では la vie と一語である
ロシア語でも同様なのだろう
これが人生を扱わなくなった生物学に対するトルストイの批判の元にあるのだろうか
生物学を始めとした科学批判が色濃く出ている

そのためか、トルストイの捉え方についての批判や議論が前面に出る場面も見られた
現在ではトルストイのような批判は出てこないと想像される
生命は実験室から消えているという指摘もある
ただ、それは生物学者が生命とは何かの問いかけを止めているわけではない
そういう意識を持った科学者により実験室を離れたところで行われているはずである

時代が大きく離れた作品を読む場合、現代の視点から批判することは容易である
作品から何かを学ぼうとする時には、作者の置かれた立場に立つことも重要になるだろう
読者の方が時空を超えて作者に寄り添うのである
そうすることにより、豊かなものが見えてくることがあるかもしれない


本日もお忙しい中、参加していただき、活発に議論していただいた皆様には感謝したい
会のまとめは近いうちにこちらのページに掲載する予定である
今後ともPAWLの活動へのご理解をいただければ幸いです




2018年6月7日木曜日

ISHEの活動の山を迎える、そしてツイッターと付き合う



先週土曜からサイファイ研ISHEの活動が始まったが、明日からその密度が増してくる
以前から触れているが、なぜかフランスにいる時には具体的な準備をする気分にならない
頭の中ではいろいろなことが蠢いているのだろうが、形になった目に見えるものができない
ということで、いつも日本で最終的な準備をすることになる
今週は明日と土曜、来週も金曜と土曜に山が来る
何とか間に合うことを願うばかりだ

ところで今回の日本では、もう一つの変化が現れている
それはツイッターというものに対する感じ方である
向こうにいる時には、ISHEの活動について偶に案内を出す程度だった
空の上から言葉を投げるという感じで、どこか遠い存在だったのである

しかし今回は訳本が出ることになったこともあるのだろう
案内を出すための身近なツールという感覚が生まれている
語り掛ける人との距離感が向こうにいる時とは全く違う
例えば、本の案内に対して、一言「読みます」というコメントがあったりする
それだけで、同じ平面のすぐそこに相手がいることを感じることができる
それだけに、接触事故も多そうではあるのだが、、





2018年6月6日水曜日

『免疫の科学論ーー偶然性と複雑性のゲーム』配本迫る



フィリップ・クリルスキー著『免疫の科学論ーー偶然性と複雑性のゲーム』(拙訳)
みすず書房から今月18日の配本と決まったようだ
出版社のサイトはこちらから

表紙は若手芸術家、石井正信さんの作品『キラーT細胞』
今年2月に東京で開催された「君と免疫。展」において多彩な作品を発表されている
今月23日のシンポジウム会場でもその一部が展示されるというお話を伺っている
わたしも楽しみにしている

生物の働きの基礎を形成している生体防御とは、どのようなものなのか
生きること、生き残ることの背後には、どのような仕掛けがあるのか
本書を読んでいただくと、そこに驚きを発見することになるだろう

是非手に取って、ゆっくりと考えながらお読みいただけると幸いです
よろしくお願いいたします


サイファイ研究所ISHEの本書紹介ページ





2018年6月5日火曜日

これまでにない変化



本日は鎌倉を散策した後、パスツール財団にて23日の会の打ち合わせを行った
細かいことを最終的に詰めたというところだろうか
実際にはどうなるのか分からないが、そこに現れるズレを楽しみたいものである
日本におけるズレの許容範囲がどの程度かは分からないのだが、、

当日、本の予約をされた方には著者のサイン入りを届けるという話が出ていた
わたしはクリルスキー博士の講演の司会をするように仰せつかった
講演後、10分ほどの質疑応答の時間が用意されている
参加される方には積極的にご発言いただければ幸いである


ところで、これまで帰国した時にはフランスから日本を見ているところがあった
外国として日本を見ていると言ってもよいだろう
それが今回は、日本から日本を見ているところがある
これまでにない大きな変化と言えるだろう
もう少し様子を見ることにしたい





2018年6月3日日曜日

染色作家柚木沙弥郎を発見



今日も日美には気付かず、始まってしばらくして行き当たり、いくつかの発見をした
染色作家柚木沙弥郎(ゆのき・さみろう)
1922年生まれなので御年96歳になるのだろうか
妻を亡くして16年、一人暮らしだという 
体は弱っているように見えたが、精神は若さを保っているのが分かった

その中で、最近書いたエッセイと共通することが語られていることに気付いた
自分の中で自分と問答する
ナイフとか器と対話する
それが楽しい
自分を取り巻くものとの対話
それがうまくできるのかどうかが理解に至るかどうかを決めている
そのことを実践されている様子が窺えた

また、形についても興味深いことを語っていた
形とは本質である
それは突き詰めれば、いのちになる
対象に出会った時に感じたものを表現するが、それは対象との対話であるという
形とは本質であるとは、まさにプラトンになるのだろうか
その意味ではわたしとの共通点も見えてくる

教え子の方も重要なことを語っていた
教えを受けている時は、神経質な先生だったという
しかし、年齢を重ねる毎にどんどんと自由になっていったと見ている
教師時代からは想像もできない変容のようである

ご自身も還暦までは窮屈な気分で過ごしていたと言っている
行き詰まりを感じ旅に出たサンタフェで、おもちゃに出会った
それは、明るく生活を楽しんでいる人の作品であることを想像させるものであった
その時、この人生では何をやってもいいんだということに気付き、以来自由になって行った

自分のやっていることを心底楽しんでいる様子が伝わってきた
それが長生きと活力の維持に関係しているのだろうか
そんなことを考えながら視線をずらすと、遠くの棚の上のフクロウとピッタリ目が合った




2018年6月2日土曜日

第5回サイファイ・カフェSHE札幌、終わる



本日、第5回のサイファイカフェSHE札幌が無事に終わった
直前に急用のため参加できなくなった方もおられた
しかし、今回二度目になる札幌カフェの社長さんの参加もあり、活発な議論が行われた

今回のテーマは、最小の認識能をどこに見るのか、であった
専門外の方にはイメージし難いものだったかもしれない
参加された方はリピーターになるのでそのようなことはなかったとは思うのだが、、
ただ、時間があったので二度説明をしたところ、理解が深まったという声が聞こえた

講師の頭の中にはいつもあるテーマである
しかし、内容の各部分が一つの大きなテーマになり得るようなものである
一度の説明ではすぐに理解するのは難しかったかもしれない
賛成するか否かは別にして、最終的にはご理解をいただいたのではないかと想像している

会の詳細は近いうちにこちらのサイトにまとめる予定である
今回もお忙しい中、参加していただいた皆様には感謝したい
今後の活動にもご理解をいただければ幸いである




ところで、お昼に入ったレストランで北大の大学祭をやっていることを知り、足を延ばす
留学生のお国自慢の出店が目に付いた
北の端まで人ごみの中を歩くと農場に辿り着き、初めてその中に入る
一瞬だが、アメリカのどこかにいるのではないかという錯覚を覚える
サイファイ・カフェ前の適度の散策となった





2018年5月30日水曜日

翻訳が手を離れる



今週で翻訳の最終確認を終え、わたしの手を離れた
何かをやり終えたという感覚は全くない
今は生体防御について考える多くの方の一助となることを願うばかりである
ご批判もいただければ幸いである

今日は日本の歌を流れるままに聴いていた
記憶を刺激するものが意外に多いのに驚きながら
それぞれの時代に実に多くの歌を聴いていたことが分かる

今夜聞こえてきた30年前の懐かしい歌声を一つだけ
若き日の一時期、よく聴いた歌手である









2018年5月26日土曜日

不染鉄の画集、届く

  『没後40年 幻の画家 不染鉄』より


昨年秋に開催された不染鉄(1891-1976)の回顧展の画集が奈良県立美術館から届いた
早速、気になった海の絵を探してみた
ところが見つからない
・・と思ったが、おそらく絵葉書なのだろう、後ろの方にまとめられていた

『海底閑居之図』(1968)
不染77歳なので、晩年の作品
彼が辿り着いた境地を表していると言ってもよいのだろうか
添えられている文字が小さいので、読むのに一苦労

右横にタイトルがあり、左横に「私はお魚か」とある
適宜、書き出してみたい



    『海底閑居之図』(1968)
  『没後40年 幻の画家 不染鉄』より

此世は楽しい 何を見ても面白い 心が親切なれば 自然の方でも 私に親切だねぇ
自然と私とは別のものではない 自然即私だ ・・・
深海に住む魚のように 静に自分の心を見つめて
眞実とは何だ  倖せとは何だ 人生とは何だ 色々よく考へ かみしめよう
そしてさ 時々 此世へ 浮き上がり 人情の風にあたり ごちそうをたべ
そして深い深い海底へ沈んで
又 静寂の世界だ いいなぁ

普段は海の底に沈み、自省し、哲学せよ
その静寂の世界は何と素晴らしいことか、と言っている
そして、時には海の上に出て、人に触れ、うまいものを食べ、そして再び海底に沈む
そういう生活を理想としていたのだろうか

わたしのサイクルもこれと重なり、以下の記事に詳しい
不染の「海の底」がわたしの「フランス」で、不染の「此世」がわたしの「日本」と言えるだろう

  周年ライフサイクル(2016.11.30)

一瞬の偶然で発見することになった不染との思わぬ繋がり
まさに油断ならない
発見が溢れている此世も捨てたものではない


     『秋声(1918)
  『没後40年 幻の画家 不染鉄』より


もう一つ気付いたことがある
冒頭の方にある絵の屋根を見た時、10年前にオステンドで発見した画家のことを思い出した

  ヴァレリウス・デ・サーデレールという画家 Valerius de Saedeleer(2008.12.28)

まだまだ発見はありそうだ





2018年5月24日木曜日

学生時代の仲間と歓談



昨日は、ピエール・フランソワ・スイリさんに関する記事へのアクセスが異常に多かった
こういうことは偶にあるが、一体何があったのだろうか


ところで今夕、大学同期の歓談会に出席
わたしを含めて13名で、昨年の倍の参加があった
次第にこのような集まりの意味が大きくなるのだろうか
卒業以来初めての方もいたが、若き日の颯爽としたイメージが消え、最初は識別できなかった
それは見ているこちらも同じなのだろう

いつものように雑談の後、一人ひとり近況を報告
殆どがいまだに仕事をされている
手に職があるので続けられるのだろう
どうもプータローはわたし一人のようだ

先日案内したクリルスキー教授の講演会に参加するという方もいた
本もすでにアマゾンで予約注文されたとのお話を有難く聞く
経営に忙しい方もいれば、お孫さんの世話を楽しみにしている方もいる
奥様が大病をされた方、けがをされた方など、ご苦労されている様子が伝わってきた

次の瞬間どうなっているのか分からない危うい存在が我々である
そうだとすれば、必然的に今をどう生きるのかが問題になる
ただ、皆さんは将来のことも計画されているようである
驚いたことにそれが実に具体的で、夢の中にいるわたしとは大違いだ
現世に降りるということは、なかなか大変なことのようである

こういう会に参加すると世界が広がり、活力もいただける
これからも折に触れて参加したいものである





2018年5月20日日曜日

久しぶりの日本、そしていくつかの発見



ほぼ半年ぶりに日本に戻ってきた
フランスが奥まった書斎だとすると、日本は現実がすぐそこにある台所や居間になるだろう
フランスでは意識の底に沈んでいるが、日本ではそこから浮き上がるという感覚がある
この感覚は現在に至るまで変わらない

現在も翻訳の仕事に当たっており、最後になる三校のゲラを読んでいるところである
まだ修正を必要とするところが見つかる
ただ、今回は全体を頭に入れて読み直すことができるようになっている
そのため、この読みの後には修正点は最小限になるのではないかという予感はある
勿論、今のわたしのレベルにおいては、という限定付きではあるのだが、、

この間、気分転換にテレビをつけることがあった
それはいつも偶然に導かれたものになるが、少なからぬ発見がある
日本人のどこかにヨーロッパに対するあこがれがあるのだろうか
今回も美しいヨーロッパの情報が少なくないことに驚く

その中に直接関係するものがあった
今日のお昼に放送された「辻井伸行×パリ ~ショパンが舞い降りた夜~
テレビをつけた時、どこかで見たような人が出ている
ピアノの修復や調律を専門にされているフィリップ・ジョリーさんだ
彼の工房にある古いピアノで辻井さんが演奏をしているところだった
6年ほど前にこの工房を訪問したことがあり、当時を思い出しながら懐かしく観た

左岸のピアノ工房で現代を語る(2012.2.17)

そして、今朝の日曜美術館
そうとは知らずにつけた時には終わりに近づいていた
今日は不染鉄(1891-1976)という画家が取り上げられていた
勿論、初めての方で、第一印象は囚われのない絵を描く方というもの

変わった経歴の持ち主で若い時に漁師をしていたこともある
その時の経験が関係あるのかどうか分からないが、海の絵の中に興味深いことを書いていた
正確なことは忘れたが、次のようなところでオヤッと思ったのだ
海に沈んでいる魚と一緒に暮らす
真実とは何か、幸せとは何か、人生とは何かを考えよ
そして時に陸に上がり、いろいろなものを食べ、そして再び海の底に沈んでいく
これはわたしの生活環と同じではないか思い、目を見張ったのだ
ウィキにあった彼の信条も今ではよく分かるようになっている
「芸術はすべて心である。芸術修行とは心をみがく事である」
「いヽ人になりたい」
「いヽ人」とはパスカルの「オネットム」に当たるのだろうか
もう少し正確な言葉を知りたくなり、画集などを注文した








2018年5月16日水曜日

「免疫学と感染症に関する日仏セミナー」のお知らせ



サイファイ研究所ISHEは、今年で創立五周年を迎えます
これまでの皆様のご支援に感謝いたします
今後とも当研究所の活動へのご理解をよろしくお願いいたします

来月中旬に元パスツール研究所所長でコレージュ・ド・フランス名誉教授のフィリップ・クリルスキー博士著『免疫の科学論――偶然性と複雑性のゲーム』(拙訳)がみすず書房から刊行される予定です

この機会に日本パスツール財団がオーガナイザーとなり、クリルスキー教授の講演会と日仏科学交流の会を以下の要領で開催することになりました

サイファイ研究所ISHEも会の開催に協力しております

興味をお持ちの方の参加をお待ちしております

当日、みすず書房による本書の展示と割引価格による予約受付があると伺っております
生体防御や生命について考える際の一助として、本書を手に取っていただければ幸いです




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日時:2018年6月23日(土)14:00~17:50

場所:京都アカデミアフォーラム in 丸の内(新丸の内ビル10階)

使用言語:英語と日本語(同時通訳付き)

セミナー参加費:無料(先着申込順100名)
懇親会参加費:5,000円(60名)

申込方法:こちらの申込用紙に記入後、日本パスツール財団事務局までメール(jimukyoku@pasteur.jp)あるいはファックス(03-6228-5365)でお送りいただければ幸いです。

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プログラム概略:

14:00~14:10  開会挨拶
14:10~15:50 パスツール国際合同研究ユニット発表

16:10~17:00 フィリップ・クリルスキー教授講演
17:00~17:10 質疑応答
17:10~17:40 パネルディスカッション
17:40~17:50 閉会挨拶

18:00~20:00 懇親会

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会の案内とプログラム詳細
ポスター

ご検討のほど、よろしくお願いいたします。





2018年5月13日日曜日

二度目のデジャヴュ



昨日のこと、二度目のデジャヴュに遭遇した
現在翻訳している本の著者フィリップ・クリルスキーさんの日本語情報が欲しくなり検索した
そうすると、最初の方はわたしがこれまでに書いたものばかりで驚く
つまり、わたしにとっての新しい情報はなかったのである

このような経験をしたのは、これまでに2度ある
一人はピエール・アドーさんで、もう一人はマルセル・コンシュさん
最初は本当に驚いたが、今回の驚きは同じことが3回もあったということだろうか

出版社によれば、クリルスキーさんの邦訳は今回が初めてだという
アマゾンに行ってアドーさんとコンシュさんの本を検索したが出てこない
邦訳されていないようである
どうもそういう人と縁があるようである






2018年5月12日土曜日

見方を変える時に哲学が果たす役割とは



昨日は申し分ない快晴だった
午後から旧市街で、医学雑誌の記事のタイトルを眺める
その中に Redefining medicineというエディトリアルがあった
Re- が付くと、哲学的な営みが含まれるという思い込みがある
私のフォルミュール「考える(think)とは、考え直す(rethink)ことである」の影響だろう

このエディトリアルには、医学というものを広い視点から捉え直そうとする姿勢があった
求められるものが変わってくるので、解析の仕方、まとめ方に変化が出てくる可能性がある
時代の流れに合わせて、見る枠組みを変えるということは重要である
そこに哲学が果たす役割があるはずだ
それがあるとないとでは、枠組みの新鮮さに大きな違いが出るような気がする
勿論、科学雑誌なので哲学的な処理ということではないのだが、、

ただ、一つだけ気になったことがあった
それは、健康とは何なのかを考えていかなければならないとしていたことである
これは哲学的な問いとして考えられてきたものでもある
検査値が正常の範囲内なので健康というような機械的な対応ではない何かが求められたのだ
しかし、医学に反映されるような解は出されなかったのではないだろうか
この問題に対して科学も考えていきましょうということなのか
今後の展開を追ってみたい

哲学と科学の歴史を見ると、問題が科学で解析ができるようになると哲学から離れていく
つまり、哲学は必然的に科学では処理しきれない問題を扱うことになる
そこで、哲学を科学的にするということはどういうことなのか
哲学の原点に返ることも重要なのではないだろうか

この問題は本日のタイトルと併せて大きな問題になる
これからも考えてみたい





2018年5月10日木曜日

パリでの歓談、最近の話題と繋がる



昨日は懐かしい場所も含めて、メトロとバスでパリ市内を移動
予想通りには進まなかったが、まずまずだったのではないだろうか
カルチエ・ラタンのあたりは、やはり濃密な空気が流れている
他ではなかなか感じられない
ぶらぶらしながらギャラリーを梯子をする
これまた乙なものである

夕方は、こちらで研究をされている方との歓談となった
活発に研究されている様子が伝わってきた
また、拙エッセイにも目を通していただいているとのことで恐縮する
自分の生活に取り入れるような読み方をされているという印象を持った
数日前に触れた哲学書のことや最新のエッセイで触れた「対話」のことが思い出された
これは非常に重要なことだということが身に沁みて「理解」できるようになっている
益々のご活躍を期待したいものである

トゥールに戻るとこれまでの景色が少し違って見えた
旅から戻った時にはいつも感じることである
出発の時と異なり、気持ちよい祝日の空が広がっていた






2018年5月9日水曜日

時間を異常に長く感じる



昨日はヨーロッパ戦勝記念日
忘れていた
一点の曇りもない快晴で、朝からのんびりした
向かいのアパルトマンを見るとバルコンに出て、ヴァカンスの雰囲気
こちらにも感染してくる

午後から用事があり旧市街へ
祝日は午後から開いているところだった
そのついでに、いつものカフェで数時間仕事をしてきた
まずまずだったのではないだろうか

今日は一転曇り
朝から用事があり、パリに向かう車中だ
実はトゥールから乗り継ぎのサン・ピエール・デ・コール行きがキャンセルになったという
こういうことは稀ではないので慌てない
仕方なく、タクシーでその駅まで向かった
ただ、少し時間を気にしている素振りがあったのか、ドライバーがこう言ってきた
 「お客さん、ZENで行きましょう。ZENで」
わたしはこう答えた
 「それはわたしの専門だったはずなんですが、、」
これは意外に受けたようだ


ところでこのところ、特に今週に入り、一日が異常に長く感じられるようになっている
昨日の朝、まだ週の一日が終わったばかりなのに、もう週末のような気分でいた
時の流れをしっかり掴んでいるということなのか、時間が消えているのか
あるいは、単なる経年変化なのか
いずれにせよ、それは良い感じなのである





2018年5月8日火曜日

ロビン・ジョージ・コリングウッドによる哲学



先日、ある人の本を読んでいたら、イギリスの哲学者R・G・コリングウッドが出てきた
普段、イギリスの哲学者は視界から消えているが、手元に1冊あったので読んでみた

An Essay on Philosophic Method である

最後にあった「文学としての哲学」をパラパラと
R・ローティの「哲学とは哲学書に基づく文学である」という言葉を思い出したからだ

普段読んでいる文章、思考法と異なっているが、興味深い対比がいくつか出てきた
詩と散文、哲学と歴史、科学と哲学など
記憶に残っているところをメモしておきたい
一度自分の脳を通過しているので、少し修飾されているかもしれない


哲学には詩の要素もあるが、基本的には散文である
詩は言葉や言葉の並びの美しさを競う
一方の哲学はそういう美も求めるが、それが目的ではなく、あくまでも手段である
目的は思考をどれだけ明確に表現できるかで、真理の探究を目指している
同じ理由から、詩にとってのメタファーはそのものとして効果や意味を持ってくる
しかし、哲学では使うことはあっても手段であり、多用は厳禁である

歴史家は自分が知っている中から確実なものを選び、読者に諭すようなところがある
したがって、読者が歴史家に親近感を持つことは少ない
哲学者はその反対で、まず自分自身に向かって書く
告白の要素があるのだ
確実なものを選ぶのではなく、よく分からない曖昧なことも取り上げて書く
それらをよりよく理解しようとしているからだ
哲学者は難題に向き合うのに対して、歴史家はそれを隠す傾向がある

歴史書の読者は、歴史家に相談する
哲学書の読者は、哲学者の後を追うのだ
哲学者の体験を追体験して、自分もそのことを考える
そこに読者と哲学者との間に親近感が生まれる素地がある
つまり、歴史家には思考の結果を求めるのに対して、哲学者には思考そのものを求めるのだ
したがって、哲学者が抱えている問題意識と重なるものがないとその著作は意味を持たない
あの哲学者は何を言っているのか分からないなどと言っているのは、読者の責任になる
読む本を間違えているのである

科学は専門用語を多用する
ほとんど術語だらけで、それなしには科学は成り立たない
新しいことが見つかる度に、新しい術語が造られる
実は術語は言葉でなく、記号なのである
術語を普通の言葉で説明することは困難を極めることが多い
そのものとして知っていなければならないのだ
科学が一般の人に理解されないのは、当たり前と言ってもよいだろう

哲学は専門用語を殆ど使わない
科学のような、融通が利かない、それ故そのものだけを指すことができる専門用語は
使ったとしても、それは別の普通の言葉で説明することができる
第一、哲学に全く新しいことなど殆ど出てこない
既に少しは分かっているようなことに新しい意味が加わることはあっても
哲学が使う言葉にはいろいろな意味が内包され、柔軟性がある
つまり、科学書が技術書であるとすれば、哲学書は文学書ということになる
哲学は科学の言葉(=記号)を避けなければならないのだ







2018年5月7日月曜日

もう完全なヴァカンス、そして精神を支えているのは肉体



昨日も素晴らしかったが、本日も雲一つない快晴だ
午前中仕事した後、午後から街に出た
もう完全なヴァカンスの雰囲気である
木漏れ日の歩道など、ほとんど天国だ

先週の今週なので、何もやる気が出てこない
この雰囲気を楽しむだけだ
そんな中、比較的良い時間を持つことができた

ところで昨日、帰りに丁度バスが来たので、こちらに来て初めて走ってみた
しかし、体のコーディネーションが全く駄目で、驚く
考えてみれば、精神の中に生きているのだから、それは必然と言えるだろう
ただ、精神を支えているのは肉体であることも忘れないようにしたいものである