2021年10月31日日曜日

10月を振り返って
























もう恒例となった月の纏めの時期になったが、今月もいくつかの項目が浮かんでくる


第一は、日課のようになったコンシュさんの読みを続けたこと

毎回、何らかの学びがあるように感じられ、なかなか止められない

外見はおとなしそうなのだが、意外に過激なところがあることを発見、驚いた

自由の精神の賜物なのだろう

それと、この読みがフランス語に触れる時間を確保してくれている

今読んでいるところを読み切って、その先をどうするのか考えることになるだろう


第二は、先日も触れたが、全く想定もしていなかったアトリエができたこと

8月にフランスから荷物が届いて以来、本当にゆっくり整理をしていた

月初めにはまだ荷物が散らばっていたが、ここに来て驚くほど綺麗に片付いた

当初は荷物置き場として考えていたスペースだが、余裕ができたので仕事場にすることにした

そこにはフランスから届いた書籍や資料しかないためか、不思議な集中ができることが分かった

このところ毎日のようにお世話になっている

そこから何かが生まれることを期待したい気分である


第三は、本当に長い間関わっている長期プロジェだが、もう少しで全体の姿が見えそうなところまできた

今月に入り、すぐにでも終えることができるかと思っていたが、なぜか急に前に進まなくなった

どこかに去り難い気持ちでもあったのか

単に考えが纏まらなかっただけなのか

あるいは、この身に沁み込むまで待っていたのか

いまその全体にも目を通しているが、次に繋がる可能性のある芽がいくつか見つかる

このようなプロジェは、一つのテーマについて自分がどう考えているのかが分かるだけではなく、その理解の先にある問題をも露わにする

かくして終わりなき道が続くのだろう

それはそれで悪くない




そして今年もこの季節が近づいてきた

折に触れて聴いていくことにしたい











2021年10月30日土曜日

コンシュ「形而上学の概要」(5)
































今私が言ったことは、議論と証明を区別することを要求する。

子供の苦しみを議論することには大きな説得力があり、わたしも実際に説得された。

しかし、そこに証拠としての価値はない。

もしそのようなことが事実なら、説得力があるだけではなく、実証的な力を持つだろう

そして神を信じる人は、理性が欠如していなければそれを拒否することができない。

精神には証拠に従うかどうかの自由はないが、議論に従うかどうかの自由はある。

自由が生まれるや否や個性が生まれる。

形而上学は哲学者の個性と切り離せない。

なので、「デカルトの」、「マルブランシュの」、あるいは「ライプニッツの」形而上学などと言われる。

哲学者の個性形成に極めて重要なのは、宗教的なのかどうか、キリスト教的なのかどうかというその人が受けた教育であった。

確かに、哲学自体は理性の飛躍から生まれるが、哲学は完全に実証的な特徴を持っておらず、選択を前提としている。

そのため、思想がこちらの方向、あるいはあちらの方向に向かう可能性がある。

そのことが、同じ時代にも関わらず、一方ではデカルト、他方では(例えば)ガッサンディを生むことになる。

わたしはわたしの時代の、わたしの国の人間として哲学してきた。

情報手段の進歩により、わたしはライプニッツが『弁神論』を書いた時代の人よりもこの惑星の人間の苦しみにずっと感受性が高くなった。

そして、わたしは12歳から18歳までの「補習授業」で、宗教から独立した教育を受けた。

そこでは、宗教的真理を教え込まれることが全くなかっただけではなく、宗教は何か古臭いものと見做されていた。

この教育は、まるで古代ギリシア時代に生きているかのように、わたしの精神を自由にしたのである。

それ以来、わたしが哲学に身を捧げることは極自然であった。

わたしの精神の哲学的発展を妨げ、わたしの精神を自分自身のものではない選択に従わせるような出会いがなかったのは幸いであった。

哲学者にとって、「師」を持たないということは大きな利点なのである。


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冒頭の論理がよく理解できなかった

このパラグラフでも、宗教とコンシュさんの考える哲学は相容れないことが分かる

宗教から自由であったことで、古代ギリシア人のような精神の自由を保持できたという

その自由は「師」からの自由とも通じるのだろう

まさにレオ・フェレも歌った Ni Dieu Ni Maître の世界だ

コンシュさんとこんなところで繋がっているとは思いもしなかった

本当に驚いた













2021年10月28日木曜日

コンシュ「形而上学の概要」(4)
































ヘーゲル流の絶対的観念論(ヘーゲルにとっての形而上学は絶対についての壮大な思考にしか過ぎず、その全体は絶対的なるものの絶対的思考を構成している)を認めるのでない限り、形而上学は同時にすべてが真ではあり得ないと言わなければならない。

すなわち、神は永遠である、あるいは、それは自然、精神、あるいは物質などである、となる。

しかし形而上学はまた、一貫性があるのではなかったか。

恐らくそうだろうが、誰がその一貫性を判断するのか。

それは、それぞれの形而上学について、その形而上学の支持者であり、他の形而上学の支持者ではない。

スピノザの体系はスピノザとスピノザ主義者にとって一貫性があるのであり、マルブランシュには当て嵌まらない。

わたしが有神論的形而上学(デカルト主義者やマルブランシュ、ライプニッツ、カントなどの)を拒絶したのは、世界を支配するこの上なく善良で全能な神が、同じ世界の中での悪の現実(とくに、わたしが「絶対悪」について話したことに関連する子供の犠牲者の苦しみ)と矛盾するようにわたしには見えたからである。

しかし、神を信ずる人はこの矛盾を否定し、「悪の神秘」という概念によって有神論的形而上学は依然として一貫性があると主張することができるのである。







2021年10月27日水曜日

コンシュ「形而上学の概要」(3)

























なぜ同じように可能な一貫性ある言説、すなわち同じように可能で、同じように論駁も可能な形而上学がいくつも存在するのか。

それは、「現実の全体」という表現の中にある「全体」と「現実」という言葉に問題があり、この言葉はどのようにでも理解できるからである。

「全体」はオーガニズムのように組織化することもできるし、砂の山のように構造をなくすることもできる。

最初の場合、ヘラクレイトスのように、全体は世界であると言うだろう。

なぜなら「世界」という言葉は構成要素が偶然集合するのではなく、組織化の法則に則って集合する全体にまで拡大するからである。

(この言葉はギリシア語ではcosmosで、「秩序」を意味している)。

第二の場合、エピクロスのように、全体は宇宙であると言うだろう。

宇宙においては、無限の空間と時間の中で、無数の世界(cosmoi)が始まりと終わりを持っており、全体的な視点を持ったり、一つのものとして考えることができない。

「現実」という概念については、机や机の上のパン、自分が飲むコーヒーは「実在する」とする一般の人(ここでは科学者も区別しない)にとって当たり前であるとしても、哲学者にとっては当たり前ではない。

哲学者は、机、パン、コーヒーが「実在する」と言うに値するかどうかを疑い、「真に」実在するもの(ontos on)すなわち永遠について自問する。

一般的に言う実在するものはすべての人にとって同じであるが、哲学的に実在するものは多様である。

たとえば、プラトンの本質、デモクリトスの原子、ヘラクレイトスの世界、スピノザの自然、モンテーニュの神、ヘーゲルの精神、エンゲルスの物質、ヘッケルのエネルギー、アナクシマンドロスの生命など。

これらの多元性から形而上学の多元性――観念論者、唯心論者、唯物論者、自然主義者、生気論者など――が生まれている。







2021年10月26日火曜日

コンシュ「形而上学の概要」(2)
























まず、哲学とは何か。

わたしは、現実の全体についての真理と全体の中での人間の占める位置の探究であると言うだろう。

科学も真理を探究するが、現実の部分的側面についての真理である。

宇宙学は宇宙の全体についての科学だが、宇宙と現実の全体との間にはどのような関係があるのだろうか。

この問題は最早科学的なものではない。

「形而上学」を現実の全体を理解する試みとすれば、これは形而上学の問題なのである。

すなわち、デカルトのように哲学を木と比較すれば、その根に対応するものなのである。

彼は、形而上学を単に自然についてアプリオリに知ることができるものと理解して、形而上学における貧しさに誓いを立てている。

それによって彼は、本来は形而上学の空間を空虚にし、そうすることにより、その空間を信仰のために確保できたのである。

神を信ずる者にとって、神、世界、人間が現実の全体である。

全体性の言説としての形而上学は、科学ではあり得ない。

カント自身が、そのことを十分に示している。

そうでなければ、宗教が証明あるいは論駁され得ることは明らかである。

ただ、伝統的な意味での形而上学が科学ではあり得ないことは、全体性についての理性的な言説を放棄しなければならないことを意味していない。

「理性的な言説」という言葉は「一貫性のある言説」と理解しなければならない。

しかし、「一貫性」を語る人が必ずしも「真理」を語るわけではない。





2021年10月25日月曜日

コンシュ「形而上学の概要」(1)














今日も気持ちの良い朝となっている

午後には久し振りに投票に行ってきたが、会場が混んでいたので驚いた


さて、コンシュさんの『形而上学』の続きを見ると、第3章が「形而上学の概要」となっている

興味をそそられるので、もう少し読み進むことにしたい


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もし「自然主義」という言葉をスピノザの哲学に適用するのなら、わたしの哲学も一種の自然主義――すなわち、自然(Phusis)がすべての「もの・こと」のアルファでありオメガである現実の概念――であると言うだろう。

多くの点でスピノザとわたしは違っている。

(形而上学が証明可能であり得るとか、真理を説明する方法としてユークリッドの枠組みが適しているとか。

もし自然が無限の側面を覆い隠しているとすれば、我々知っているのは二つだけだろう。

魂と体の間には類似性がある。

「意志」という言葉は空疎な言葉である。

知恵とは「死ではなく、生について」瞑想することである。――なぜなら、二つの対立するものは不可分だからである。――

悦びだけがよいことである。

道徳は倫理と混同されている。

倫理と政治は形而上学と結び付いている、ということなどである)。

主には、これである。

わたしから見れば、それは欲求ではなく、人間の本質である自由である。

人間は自然の創造である。

我々は、自然の中における自由な存在の誕生が理解できるように、自然を捉えなければならない。


これが、わたしが大雑把に「唯物論者」ではなく「自然主義者」だと言うところのわたしの哲学の本質的な特徴である。






2021年10月24日日曜日

意識の深度の個人史


























今朝は快晴で、快適である

今日はこの時間を味わってから動き出すことにしたい



ところで、目覚める時に何らかの考えが浮かぶことが少なくないが、今朝はこんな思いが巡っていた

それは内的世界の深さの問題で、以前から感じていたこととも関連する

今の時点から振り返れば、仕事をしていた時は「気晴らし」の時間が少なくなく、深く考えることはあまりなかったように見える

意識のレベルから見れば、浅いところに留まることが多かったため、思索していると思っていた時間は明確に区別され、深いところにいると思っていたようである

2つの状態の落差が大きかったとも言えるだろう


この状態に気付き、もう少し深いところを探索する時間を増やしたいという思いが、わたしをフランスに向かわせることになった

そして、「全的生活」と名付けた生活を目指して始めたフランス生活だったが、最初の6年くらいは新しい現実の前で意識は外に向かっていたようである

新しい現実の中には、フランスという新しい土地、文化、フランス語という新しい世界、そして哲学という新しい分野が含まれている

この刺激は想像を超えるものであった

この間、1冊200ページのノートを持ち歩き、入ってきた外の世界を写し取っていた

6年間で60冊超がたまったが、それ以降は書き込む意欲がなくなった

その時、新しい世界を日常として冷静に見ることができるようになったと感じたのである

そうなるために6年を要したとも言えるだろう


それから徐々に深いところに留まる時間が増え、今では「気晴らし」の時間との落差がなくなっている

言葉を換えれば、「気晴らし」を求めなくなっているため、定常的に意識の底にいるのである

仕事をしていた時の状態を今再現することができないので、意識の深度を比較することができないのは残念である

ただ、昔は見ることができなかったものことを見ることができるようになっているとは思いたいものである

そして、現在がどんな状態なのか、いずれ振り返る時が来ることも願っている








2021年10月23日土曜日

コンシュ「哲学者になる」(8)















デカルトは無限の「概念」について語る。

しかし、そこで取り上げられていることは、単に一つの「概念」ではない。

人間は、自然の外にいて天使のようにその上を飛んでいるのではないことを知り、常にそう感じている。

力から見れば、すぐにでも人間を消滅させることができる根本的な依存状態にあることを人間は感じている。

パスカルに戻ってみよう。

「人間は自然の中で最も弱い葦にしか過ぎない。しかしそれは考える葦である。宇宙全体がそれを押し潰すために武装する必要はない。人間を殺すためには、蒸気や一滴の水で十分なのだ。しかし、宇宙が人間を押し潰したとしても、人間は人間を殺すものより高貴だろう。なぜなら、人間は自分が死ぬことや宇宙が自分に対して持っている優位性を知っているが、宇宙は何も知らないからである」(Br. 断片347)。

我々はそのことを分かっている。

それは神の問題ではなく、人間そのものよりも「高貴」ではない力の問題である。

なぜなら、自分のしていることを知らない(理由なく我々を「殺す」)盲目の存在だからである。

人間を押し潰すもの。

それは、すべての有限な存在が人間のように、それ自体は有限の存在ではない根本的な依存状態にある非人格的な力。

なぜなら、この場合、それもまた依存しており、従って無限である。


主体の哲学は、人間の実際の存在の抽象化を行う。

哲学者は、単なる「主体」ではなく、人間を感じなければならない。

自分が自然の一部――自然の中の考える部分――であると感じなければならない。

兎に角、実際の哲学が始まるのはここである。

しかし、それは始まりにしか過ぎない。


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今日のポイントは、自分が自然の一部を構成する考える存在であることを感じることから哲学が始まるということであった

この点に関しては、わたしの中に出来上がっていると感じている

これで第1章「哲学者になる」が終わりになった

哲学者はそこからどのように歩むのだろうか

もう少し読み進みたい気分でもある





2021年10月22日金曜日

コンシュ「哲学者になる」(7)
























哲学は現実の全体――それは無限である――についての真理を探究する。

なぜなら、それを制限するものは他に何もないからである。

もし、ある宗教の信者である哲学者が真理を得たとすれば、彼は真理を探求しないだろう。

哲学者は自分が持っていないもの、欠けているものを探求するからである。

そこから彼は、自分の限界、有限性(もし自分が死ぬことを知っていることを加えるとすれば、有限であるという事実)に気付いている。

これは「それ自体に無限の否定が含まれている」(デカルト)。

自分自身の思考は無限の否定を包み込み、そのため「わたしはある意味で最初に無限の概念を持ち、有限の概念を持つのである。」(デカルト)。

この無限をデカルトは「神」と名付けた。

スピノザも同じだが、彼は "sive natura"(すなわち自然)と付け加えたのである。

わたしも同じようにする。

世界は我々がいる住まいである。

しかし、この住いの限界はどこに設定されているのか。

どこで世界は終わるのか。

我々を囲っている住まいはそれ自体がより広い住まいによって囲まれている。

エピクロスは「我々の」世界を星で止めている。

しかし今日、我々が見ている星は銀河系では取るに足らないもののようであり、銀河系は・・・

デカルトは、世界は無限ではなく、不確定なものに過ぎないと言った。

従って、無限が有限とは別物であるように、神すなわち自然は世界と別物なのである。


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じっくり読まなければ分からないところだった

まず、現実の全体の真理を求めるのが哲学である規定し、その全体の捉え方の違いをデカルトとスピノザに見ている

デカルトは世界の全体を不確定なものとしたが、それはいずれその全体を確定できると考えていることが含意されている

これに対して、スピノザは「神即自然」を全体としたが、それはデカルトが言う「世界」を超えているとコンシュさんは考えているため、両者は別物であると結論したのではないだろうか

つまり、スピノザの方がより大きな全体――おそらく永遠に捉えることができない――を相手にしていると考えているようなのだが、、









2021年10月21日木曜日

コンシュ「哲学者になる」(6)
































今朝、新しいアトリエに向かう途中、太く低く弧を描く虹が目の前に現れた

なぜか嬉しくなった

その気分に押され、再びコンシュさんの話に耳を傾けることにしたい


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哲学者は宗教的な寓話、一般的には集団が共有する幻想をすぐに否定して横に置くこと。

そして、自分に還ること。

すなわち、意識が直に受け取る情報ではなく――それは、なぜ意識が特別に存在するのかという問いに関わる――、そこに存在する人間に、そして恰も今この世界に来たばかりであるかのような人間に還ること。

親や教師の信条を教育されることにより自己を失うことなく、ただ自らの理性をもって。

この世界に来るとはどういう意味か。

それは二つのことを意味している。

「空間によって、宇宙はわたしを包み。一つの点としてわたしを飲み込むが、思考によって、わたしは宇宙を包む」とパスカルは言った(『パンセ』、Br. 断片348)。

まず、わたしがそうである開かれた存在に関係するものとして世界がある。

その考えが宇宙に広がる前に、森の樵は樵の世界と関係を持っている。

それは丁度、散策者が散策者の世界と関係を持ち、画家は画家の世界と関係を持つようなものである。

このように、「わたしはあなたのところ(ため)にいる(何でもおっしゃってください)」(Je suis à vous)と言うように、我々は世界に在る(On est au monde)。

しかし他方、我々は世界の中、地球のどこかの場所にいる(On est dans le monde)。

従って、空間の問題になる。

一方で、われわれに開いている世界、開かれた存在としての人間(Dasein)との関係を内に持つ世界がある。

しかし他方では、他の生物と同様に人間に対しても超然としている世界があり、その中に彼らを含んでいる。

ところで、哲学者はどちらかの側に位置している。

一つは、世界は自身の前にあり、そこには開き(Offenheit)がある。

デカルト、カント、サルトル、フッサール、ハイデッガーの哲学のように、コギト、主体、主体性、存在、時間性、ダーザインの哲学がある。

あるいは、世界は我々を包み込む住まいであり、そこでは他者とともに存在している。

スピノザ、モンテーニュ、唯物論者だけではなく広く古代ギリシア人の哲学のように、存在、生成、時間、コスモス、絶対、絶対的現実の哲学がある。

エゴから、あるいは世界(コスモス)から哲学する。

我々は選択しなければならないのだろうか。






2021年10月20日水曜日

過去を解きほぐすこと、それがこれからのプロジェ















最近は荷物整理の日課が少なくなり、やや物足りなさを感じている

荷物到着から3カ月が経過し、かなり片付いてきた

来月初めには一応の終わりを迎える目途が立った

当初は荷物が収まるかどうか心配していたのだが、想像以上のスペースを確保できることが見えてきた

狭いながらも仕事用の場所もセットアップでき、先週あたりから毎日のように顔を出している

昼間から仕事の場所を探す必要がなくなり、しかもこれまでにないほどの集中が可能になっている

新しい展開があるのではないかという期待さえ浮かんでくる

暫くの間、様子を見ることになるだろう


ここ十数年を今の時点から振り返ると、過去を蓄積する時間だったように見える

未来は存在しない

それがあると思うのは淡い期待でしかない

在るのは過去である

過去を現在に蘇らせ生かすことが、未来を浮かび上がらせる唯一の手段だろう

わたしの横には、意識的に過ごした十数年に亘る「全的生活」の蓄積がある

それを解きほぐすことが、これからのプロジェであると考えるようになっている

そのための空間が今準備されつつあるように感じている

この落ち着いた気分は、その状態を反映しているのだろうか





2021年10月19日火曜日

コンシュ「哲学者になる」(5)
































このように、哲学者は自身の哲学的活動から気を逸らせる危険性のあるすべての活動をできるだけ手放さなければならない。

同時に、哲学と哲学でないもの(神話とか神学)とを分けなければならない。

これは、デカルト主義者やカント主義者がやらなかったし、宗教に自己を見失っていてでできなかったことである。

それがモンテーニュやスピノザとの違いである。

デカルトやカントにおいて神は存在しているので、もしわたしがこれらの著者に取り組んでいたならば、明確な良心を(わたしの哲学者としての良心を言っている)持つには至らなかっただろう。

本当のことを言えば、わたしが最初に書いたものはデカルトについての論文だったが、それは幸いにもなくなった。

わたしが若い時には、後にデカルト(必ずしも細部ではない)を拒絶することになる理由を持っていなかった。

わたしは真理を求める時に明らかにされた真理に頼ることの矛盾に気付かなかった。

モンテーニュは、彼の判断を歪める宗教的信念に委ねることなく哲学する。

それはしばしば、彼がカトリック教徒であることを忘れているようである。

彼がカトリック教徒であることは疑われたのである。

デカルトは反対に、形而上学の対象として神学の対象を定義する。

神すなわち魂なのである。

わたしとしては、神は「対象」ではないと言うだろう。

なぜなら、わたしが会うことはないからである。

それは理性や経験の外にある文化的対象に過ぎないのである。






2021年10月18日月曜日

コンシュ「哲学者になる」(4)




「気晴らし」というのは、哲学者が拒否するまさにそのものである。

哲学者は自分自身の外に自分を置く活動に打ち込むことを完全に避けることはできない。

確かに、哲学者の孤独は人が住んでいるところでの孤独である。

彼は自分自身と対話すると同時に、過去、現在の哲学者とも対話する。

しかし、他者を研究することで、新たなリスクが入り込む。

それは歴史科学や博識の中に(哲学者としての)自己を見失うことである。

そこから自分が成りたいものを見失い、歴史家に変容した哲学者が生まれる。

(勿論、わたしは歴史家の仕事を軽視したいわけではない!)

人々は、わたしが哲学の歴史書を書いたと言うだろう。

まあよいだろう。

しかし、わたしが書いた時点においてある哲学者に興味があったとしよう。

真理に近づきそれを捉え、あるいは真理に向けた運動を彼らの中にわたしが見た人たちである。

ピュロンモンテーニュエピクロスヘラクレイトスパルメニデスアナクシマンドロスについて、そして彼らと共に研究していると、わたしは真の中で働いている感覚を味わったのである。

近代の神学哲学者について研究する場合には、偽の中で仕事をしている感覚を持っただろう。

ある哲学者が言ったこと、あるいは言いたかったことを、それが真か偽かを自問することなく説明するだけで済ませる誘惑にかられるのである。

しかし、問われるべきはこの問題なのである。

歴史家にとどまるのでない限り、ある著者を自分で哲学することなしに研究することはできない。

ジャン・ヴァールはそのことを知っており、模範を示したのである。










2021年10月17日日曜日

コンシュ「哲学者になる」(3)
































しかし、精神をギリシアのように自由に開くところに回帰することが哲学に仕向けるとしても、真に哲学するためにはまだ、それがどれだけ必要であるとしても、精神が本質的でない活動に過剰に打ち込むことのないように警戒しなければならないと、わたしは言った。

まさに、それが必要であるとなった途端に、如何にその活動に没頭しないかなのである。

もし哲学者に財産がない場合、物乞いに出かけるのか。

シオランはそれができたが、わたしにはできなかった。

わたしは仕事をしなければならず、仕事の中に、そしてこの仕事に対する愛の中に我を忘れていた。

哲学者はその動物的側面の影響により、必要なものには必然的に自己を忘れる。

欲求に自己を忘れることは避けられる。

エピクロスは、愛を欲することは自然ではあるが、それは必要なものではないと言った。

しかも、他のすべての自己喪失は避けられる。

例えば、才能に我を忘れること。

わたしが芸術家の才能を持っていたとした場合、芸術の領域で名を成したいという誘惑に抗することができただろうか。

例えば、名誉、金銭、栄光のような満足感の中に我を忘れること。

あるいは、意見に我を忘れること。

集団の気分の風が一瞬でも我々に共有されるような何らかの意見を主張するために、我々が時間とエネルギーを消費する時。

あるいはまた、幸福に我を忘れること。

日常生活の楽しみに身を任せ、努力を要し、困難や痛みや絶望さえも齎しかねない省察を行わない時。

あるいは、気晴らしに我を忘れること。

絵やゲームあるいはテレビシリーズを前にして、あるいは観光旅行の楽しみの中で、人々の心は貧しさの中に傷付くのである。

もっともわたしが今言ったすべてのことは、パスカルが「気晴らし」という言葉の中に込めている。


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ここに書かれていることはわたしも考えたことがあり、5年前のエッセイでも取り上げている

このエッセイも好きなものの一つであると同時に、わたしにとって重要なものとなっている


コンシュさんの考えによれば、哲学者は何をするのかよりも、何をしないのかの方が重要になる

つまり、本質的なことに打ち込むために、それ以外のことを捨てなければならないという

これは言うは易く、行うは難しである


パスカルにとって本質的なものは神だったので、コンシュさんに言わせれば哲学者ではないとなるのかもしれない

この見方によると、哲学者とはそれぞれが本質的だと思うことに没頭する人と言えるだろうか

彼らにしてみれば、どうでもよいことに時間を使う暇などないということになる









2021年10月16日土曜日

コンシュ「哲学者になる」(2)
































しかし、すべての社会において哲学が一つの回答を与えることができるわけではない。

哲学は、宗教が思考に対して優先的に権利を行使していないところでしか存在し得ない。

このような状態はギリシアで、そしておそらくギリシアだけで突然出現したのである。

なぜならギリシアでは、聖職者が真理そのものの探究――それが哲学である――を排除する「信仰の真理」を教えなかったからである。

聖職者は、子供の精神を思考のために自由にさせたのである。

従って、哲学者になるとは、ある意味でギリシア人になることである。

前もって与えられた真理なしに――すでに決められた「人生の意味」なしに――人生に取り組むギリシア的なやり方への回帰。

これを近代の主要な哲学者はやらなかった。

そのため、デカルト、カント、ヘーゲル、そして彼らの弟子や先人には、神学化された哲学しかない。

彼らは哲学と宗教の和解を行ったが、このような和解は常に哲学と真理の犠牲の上に起こるのである。






2021年10月15日金曜日

コンシュ「哲学者になる」(1)
































やや癖になってきた感がある

コンシュさんの『形而上学』第1章「哲学者になる」も読むことにした

そこには彼が哲学者をどう捉えているのか、さらに進めて言えば、哲学とはどういう営みなのかについての考えが書かれていると予想されるからである

それでは早速始めたい


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人間が携わっている大抵の活動は些細なことである。

なぜなら、彼らは自分自身の状態や人間とは何かということを探求する人間としてではなく、何らかの仕事を持ち、社会で何らかの役割を演じるという活動に従事しているからである。

そのことにより、彼らはこの社会をまさに存在せしめている。

従って、もし哲学者になることが自分自身に還ることであるとすれば、それはある意味で、社会から自らを引き離し、孤独を選ぶことになるだろう。

つまり、試験の準備をする哲学教師はいるが、哲学者というものは実質的には何の役にも立たず、決まった役割も持っていないのである。

それは、哲学というものが社会的な要求には何も答えないことを意味している。

人間の問題、すなわち「もの・こと」の全体における人間の意味の問題は、政治的決定や政策の意味、あるいは歴史の意味とは何の関係もないのである。

この問題は如何なる社会においても等しく存在する。


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外形的に見ると、わたしはコンシュさんのイメージする哲学者に近づいていることが分かる

その中身はどのようなものなのだろうか

明日以降に期待したい





2021年10月14日木曜日

コンシュ『形而上学』のプロローグ(4)





しかし、西洋の形而上学を破壊したが、だからと言ってわたしは形而上学を捨てなかった。

哲学的オリエンテーション』の中で、わたしは新しい構築物、新しい体系のための下準備をした。

なぜなら、「そのニュアンスがどんなものであれ、すべての哲学は思考の自律的な構築として生じる」からである。

そして、モンテーニュが言うように、「破壊」(desbastiment)の後には「建設」(bastiment)がなければならない(『エッセイ』、第2巻、第12章)。

わたしの出発点は、デカルトのそれに近づくことができるだろう。

彼は神から出発する(なぜなら、cogitoは神の保証を要求するからである)。

すなわち、彼は無限から出発したが、それはわたしにも当て嵌まる。

しかし二つの理由から、デカルトの無限は「間違った無限」である。

まず、神が一人の人間であるということは、有限性を意味している。

それから、神は自分の外に世界を置き去りにする。

それは神を制限することを意味しているからである。

デカルトは言う。

有限の存在における無限の思考は、現実態(すでに完全なものとして実現した状態という意味か)の無限の存在によってしか説明できない。

まあいいでしょう。

しかしなぜ、現実の無限を特定の文明に固有の文化的対象、すなわち一神教の神と同一視するのか。

そして全く必然的ではないやり方で終了されるのである。

スピノザがやったように、神の中に無限の自然を認めるだけで十分だったのである。

それはまた、わたしがやることである。

しかし、わたしの出発点は、デカルトのように考えではなく、無限の経験、すなわちすべてのものことの絶対的基盤であり、無数の世界はその結果にしか過ぎない自然である。



従ってわたしは、自然(phusis)を無限(apeiron)と理解したアナクシマンドロス、計り知れないほどの良い兆候(omne immensum)を前に眩暈を覚えたルクレティウスジョルダーノ・ブルーノパスカル(『パンセ』、断片72)、スピノザの系列に位置している。

なぜなら、『エチカ』の第一部、定義6の中に、「『無限に無限な』無限としての自然の本質的で疑問の余地のない、殆ど神秘的な経験」(Présence de la nature, PUF, 2001, p. 95)を認めないわけにはいかないからである。








2021年10月13日水曜日

コンシュ『形而上学』のプロローグ(3)


























このような脱構築は、システムを解析するーーすなわちシステムをその要素に分解するーー歴史家が進めるもの(それはゲル―が見事にやったことである)とは非常に異なっている。

この違いは何から成っているのだろうか。

神学化された形而上学を解析する歴史家は、この形而上学が真であるか否かについて言明しない。

恰も真のようにやるのである。

そのため、要素は全体の中で持っているのと同じ特徴を持つ。

世界は神によって創造され、神の摂理によって支配された世界で、人間は人生の意味などを知っている神の創造物である。

反対に、わたしが神という概念を間違ったものと見做した途端、その誤りはシステムのすべての要素に拡大し、以前そうであったものに最早留まることはできず、破棄されるのである。

『形而上学を脱構築すべきなのか』

そのすべてを間違った概念に頼っている形而上学に関しては、わたしはそうすべきだと思った。









2021年10月12日火曜日

コンシュ『形而上学』のプロローグ(2)




























わたしが『哲学的オリエンテーション』(1974)を書いた時には、形而上学の正当性が疑われていた。


このタイトルは余り良くない。

なぜなら、"la" métaphysique(唯一無二の形而上学)は存在しないからだ。

"des" métaphysique(複数の形而上学)は存在する。

デカルトの創造論形而上学は、ベルクソンの唯心論形而上学ではない。

エピクロスの唯物論形而上学は、スピノザの自然主義形而上学ではない。

さらにオーバンクは、『脱構築の試み』という副題を付けたわたしの作品(『哲学的オリエンテーション』)において、古典期(デカルトからヘーゲルまで)の神学化された形而上学を解体したことを忘れている。

神という概念を捨てたので、わたしは神という考えに関連するすべての考えを捨てなければならなかった。

すなわち、絶対的真理という考え、人間(人間本質としての)と人間の真理という考え(なぜなら、人間が神の創造物であるとしても、人間である在り方や人間としての生き方に関して一つの真理はあるから)、至高の理性により支配された理に適った全体としての世界という考え、普遍的調和という考え(なぜなら、絶対悪が調和を乱すから)、全体という考え、それに関連して、普遍的秩序という考え(なぜなら、絶対的無秩序があるから)、そして最後に、存在という考え(なぜなら、存在としての神は存在を生み出すが、神が廃止され、存在は存在の見かけに過ぎなくなっているから)である。








2021年10月11日月曜日

コンシュ『形而上学』のプロローグ(1)

























コンシュさんの『形而上学』の続きを読むことにしたい

まず、何度かに分けて「プロローグ」から

言葉の意味をゆっくりと探りながら進みたい


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わたしは「形而上学」を実在の全体についての「自然の理性による」 (デカルト)言説であると理解している。

形而上学の伝統的な定義を「存在の科学」とするところで止めない。

まず、形而上学は科学ではない。

なぜなら、科学は知性の合意を実現するが、形而上学は相互排他的な形而上学に複数化するや否や、知性の不一致を認めるからである。

それから、わたしは、マルシャル・ゲルー同様、「存在」という言葉より「実在」という言葉の方がよいと思っている。

ラシュリエは、「わたしは、一般的な存在と存在の全体という二つの意味において、形而上学が存在の科学に再びなることを願っている」と書いた。

わたしは、次のように修正するとすれば、この定義を受け入れることができるだろう。

すなわち、形而上学とは「そのものとしての実在と実在の全体という二つの意味において、実在についての理性による言説」である。

もし「存在(être)」という言葉を伴った定義を望むとすれば、形而上学とは真に存在するもの(ontôs on)と、「存在するもの」(on)にとって「存在」(einai)が意味するものについての言説(logos)である、とわたしは言うだろう。






2021年10月10日日曜日

荷物整理で、この十数年を味わい直す
































相変わらず、フランスの荷物の整理を日課にしている

資料関係についてはすべて確認して選別した

いずれ役に立つ時が来るかもしれないとしていたものでもその対象となった

新たな出発を考えたのかもしれない

ということで、残っていた資料関係の段ボール十数個はすべて片付いた

それから別の段ボールからは向こうの日常の中で使っていたものが出てきた

それは現在の生活に必要不可欠ではないのだが、少しずつ取り込むようにしている

二つが融合する様は、なかなか良い感じである



この過程で、荷物置き場として想定していたところが、生活の場としても使えそうなことが見えてきた

仕事のスペースも確保できそうである

今日、それが一歩前に進んだ

床には本の類が半分くらいそのままの状態になっているが、ひょっとすると今月中に一段落できるかもしれない

そんな期待が湧いてきた



それにしても、この程度の労働で結構疲れることに驚いている

単純に体力の衰えによるのか、過去を経験し直すことの精神に与える影響も関係しているのだろうか

十数年ともなると、かなりの「もの・こと」に触れていることが今回分かった

切っ掛けがなければ、このような過去の一断面が浮き上がってくることはなかっただろう

記憶と経験を豊かにするのが、今回残した資料であるとも言える

それだけのものがこの身に詰まっていると思うと、やはり愕きを禁じ得ない

それが疲れの真の原因だろうか









2021年10月9日土曜日

コンシュ『形而上学』の緒言(4)






























快晴の週末

快適である

まさに、紫煙日和

トンボも気持ちよさそうに今季最後?の飛行を、多くはタンデムで楽しんでいる

今日は緒言の最後のところを読むことにしたい



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2003年におけるわたしのものの見方は、今日でもわたしのものである

それは、わたしが書いたものやわたしが昔明らかにしたものに頼っているのでは全くなく、わたしには本当らしく見えるものを、思考において、絶えず見直し、それが今日においてもまだ真実らしく見えることを確認しているのである

それ加えて、2003年以来わたしは無駄に生きてきたのでは全くない

わたしの5巻になる『奇妙な日記』の中で、わたしの具体的な人生のいろいろなエピソードに多くのスペースを割いたが、哲学のいくつかの領域に踏み込むことも楽しんだ

しかし、本書の各章で分かることは、長年に亘ってわたしの思考が最も執拗に行われたことーーすなわち、わたしの無限の感情ーーについてである

わたしは今、無限の核心に関するすべてのことを観、考える人としての哲学者を定義しようとしているほどである

確かに、それは形而上学的経験に関するものだが、『奇妙な日記』の中で詳述したものを含めたわたしのすべての経験の根底にあるものなので、最終的にこの『日記』は哲学者としてのわたしの存在と無関係には見えない


2011年12月


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この中で、「無限の感情」と「無限の核心に関するすべてのことを観、考える人としての哲学者」という言葉に反応

この感覚はわたしの中にあるものとも通じる

5年ほど前に、このことに関連するエッセイを書いたことがある

比較的気に入っているものの一つで、わたしが親和性を感じているストアにも繋がりそうである

ご参考までに










2021年10月8日金曜日

コンシュ『形而上学』の緒言(3)



















(23)道徳は意見の問題ではない。それは対話という単純な事実とそれが包含するものに基づいている、すなわち道徳は、対話においてすべての人間が対話者を対等であると認めることから正当化されるのである(『道徳の基盤』、PUF)。

(24)我々の時代が持っている形において、すべての人がすべての人を助ける義務としての道徳的義務は、世界内存在(Dasein)の本質的特徴で、それは今日の我々のものである(『愛と他の主題の解析』、第2章、PUF)。

(25)道徳は一つだが、倫理は複数ある。道徳は無条件の義務という概念を含むが、倫理はそれぞれの自由な選択に属している。

(26)幸福の倫理(幸せであるために生きること)は、可能な倫理の一つにしか過ぎない。

(27)人間が「真に」存在する在り方はいくつもある。その存在の真実において、人間は自己原因(causa sui)である(『明日のためにどんな哲学?』第4章、§3、PUF)。

(28)知恵は形而上学と整合性のある倫理である。

(29)悦びにも幸福にも導かない悲劇的な知恵は、可能な最大の価値を、長くは続かないにもかかわらず生命と作品(仕事)に与えることを狙っている(『哲学的オリエンテーション』、第7章、PUF)。

(30)人間にとって、自分が持った生以外の生は存在しない。

(31)我々は不確実さの中を進む。未来は短期的なことを超えては予知できない。

(32)幸福が、その性質上、期待されることも望まれることもなくやって来る時、賢者はそれを感謝の気持ちで受け入れる。

(33)戦争は、子供は理解できないという理由で行われ、他方、すべての戦争は無垢の人が初めて殺されたところで不正義になるので、賢者は如何なる戦争にも参加しない。しかし、彼は「侵略者に抵抗してはいけない」とは言わないのである。

(34)生命の意味は、我々の後に来る人達への愛である。

(35)作品(仕事)の意味は、この愛の中にある。


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これがコンシュさんの哲学の35のエッセンスである

この中でわたしに訴えかけてきたのは、最大の価値を生命と作品(仕事)に与えよ、という悲劇的な知恵であった

そして、生命の意味を後に続く人たちへの愛の中に、作品(仕事)の意味をその愛の中に見る

しかしそれは悦びにも幸福にも導かないという意味で悲劇的というのだろうか

もう少し考えてみたい







2021年10月7日木曜日

コンシュ『形而上学』の緒言(2)
































(11)哲学するということは、現れたものの全体について瞑想することである。その全体はすべての見方を提示し、それぞれが語ることができる。それは現れていないことからではなく、証拠ではなく信念の対象から出発するのである。

(12)デカルト主義、カント主義、ヘーゲル主義のように、一度前もって与えられ自主性を喪失した哲学は、その解析の一部にどのような価値があろうとも哲学と神学の混合であり、神学化された哲学である。

(13)一神教の神は特定の文化に関連した文化的対象であるのに対して、自然はすべての人間に証拠とともに提示されたものである。

(14)自然以外には何ものも存在しない。それが全体である。何ものもそれを限定しない。したがって、自然は無限である。

(15)自然は一つの存在ではない。在り続けるものとして自然を理解すれば、それは「存在」である。しかしこの意味において、存在は生成を排除しない。

(16)自然は発展、分割、原因の連鎖や連続としてではなく、即興として理解されるべきものである。自然は詩人なのである(参照:『不確実性』、第7章§4、PUF)。

(17)世界は自然の表情にしか過ぎない。そして、無数の世界がある(それぞれの生物はその世界の中で生きている)。自然は多種多様な表情を持っている。

(18)科学は自然の全体を相手にしていない。ビッグバンの宇宙は宏大さの中では取るに足らないものである(参照:パスカル『パンセ』、ブランシュヴィク版、断片72)。

(19)自然は古代ギリシアの「フュシス」(phusis)である。すべてを包み込むものとして、自然はその中に人間を含んでいる。

(20)すべてのものの「場」、あるいは宇宙を「包み込むもの」としての「自然」の一つの哲学は、精神との調和を実現できなければならない。そしてその哲学は、グローバリゼーションの時代に哲学的エキュメニズムを可能にするべきものであり、それは自然科学者の英知なしには進まないのである。

(21)自由とは、それなしには真理に開く能力が存在し得なくなる条件で、それが人間である(そして、それが動物との違いである)。

(22)いくつかの形而上学はあるが、道徳は一つしかない。われわれの時代にとって道徳的に絶対的なものは、人権の道徳である。









2021年10月6日水曜日

コンシュ『形而上学』の緒言(1)
































マルセル・コンシュさんが2012年に出した『形而上学』(PUF)の緒言を読んでみたい

形而上学についての見方がそこにあることを期待して


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緒 言

2003年にアンドレ・コント・スポンヴィルの質問に答えながら、わたしの哲学を35に纏めたが 、それにいくつかの修正を加えてここに取り上げる。

(1)哲学は現実の全体、および全体の中にいる人間の場についての「自然の光による真理の探究」(デカルト)である。

(2)「現実」あるいは「存在」という言葉の意味は自明ではない:「存在」(einai)の意味の問題は問われなければならない(参照:モンテーニュ『エッセイ』第2巻、第12章、PUF)。

(3)我々のものである「縮められた」時間の観点から見ると(参照『自然の存在』、第6章、PUF)、存在するとは存在する本質(ousia)である(例: 一匹の蜂がある)。

(4)存在しないものの本質はない(プラトンにも拘らず)。

(5)自然のものである無限の時間の観点から見れば、人間を含めたすべての存在は儚い見かけのものに過ぎない:そこから相関しない(相関するものを持たない)(n’ayant pas l’être pour corrélat)としての見かけという範疇が出てくる(『ピュロン、あるいは出現・外観』、PUF)。

(6)哲学は幸福の探求でもなければ、真理を所有する英知(知恵)の探究でもない。なぜなら、(絶対的)真理を所有することは不可能であるからである。しかし、哲学の条件として英知(知恵)がある。なぜなら、ある種の英知(知恵)(内的平和や本質的ではないことへの無関心から成っている)がなければ、真理の探究に身を捧げることはできないからである。

(7)実在の全体を理解する試みとしての哲学は「形而上学」と言われ、その名に値するすべての哲学は何よりも形而上学的なのである(参照:デカルト『哲学原理』のフランス語版緒言)。

(8)形而上学としての哲学は科学ではなく、科学であると自称しようとする必要はない(カントの『科学として現れるであろう将来のあらゆる形而上学のためのプロレゴメナ』はあるのだが)。(哲学者が全員一致するような)哲学的知はない。一つの哲学は理性だけではなく、人間のすべての可能性に訴えかける試みなのである(参照:プラトン『国家』VII、518ⅽ)。

(9)一つの哲学は一つの個性を刻んでいる。

(10)異なるやり方で理解できる実体の全体、いくつかの形而上学が可能である。その選択は証明によるのではなく(形而上学に証明はないからである)、瞑想による。(参照:デカルト『省察(第一哲学についての省察)』)。







2021年10月4日月曜日

時間は思索を深めるか

























先週だっただろうか

荷物の整理を終え、窓の方に目を上げると、擦りガラスが真っ赤になっているではないか

窓を開けると雨上がりの夕焼であった

もっと強烈かと思ったのだが、、

いかにも日本の風景だが、写真に収めた



去年のブログを読み返していた

「長期プロジェ」という言葉がよく出てきて、今にも終わりそうな感じなので驚いた

一体いつから同じことをやっているのか、という印象である

フランスからの荷物の中からも同じようなのが出てくる

こういうのを見つけた時には嫌になる


しかし、一つのことに対する見方が固まるには、それだけ時間を要するということを意味しているのではないか

その時間は見方を深めるために寄与しているのではないか

そして、それはどこかに表れるのではないか

そう考えて、歩みを進める







2021年10月3日日曜日

紫煙の効果


























今朝は気持ちの良い朝であった

プティ・デジュネの後、紫煙を燻らす

未だに不思議なのだが、庭に向かってぼんやりする時に紫煙があるのとないのとでは違いがあるのだ

紫煙がある時には考えが刺激されるのか、以前に書いたものについてのアイディアが生まれることが多い

偶に、新しいアイディアが出てくることもある

久し振りにやった後は倦怠感を覚えることもあるのだが、なかなか止めることができないのである

ところで、先日気付いた薄紫の花だが、まだ衰えることなく庭一面に咲き誇っている

今年の特徴であると思いたい

[ という願望だったが、念のため昨年のブログを見たところ、ちゃんと同じような写真が出ている

記憶は全く当てにならなくなっているーー4 octobre 2021 ]



これからフランスが感じられる場に身を移し、考えを纏めたり、荷物の整理などをすることにしたい

今日はどんな展開が待っているのだろうか









2021年10月2日土曜日

コンシュ「哲学とその向こう側」(17)

























ということは、我々を記憶するために後から来る人を当てにしているということなのか

ソクラテスは自分の記憶を守るために、クリトンやパイドンやユークリッドやプラトン等を頼りにするということなのか

そうではない
最初の人間の記憶はない

その後に来る人の記憶もない 

後から来る人においてもその記憶はないのである
コヘレトの言葉』はそう言う

それでもよいだろう

しかし、わたしの魂の子(生物学的な繋がりがあるかないかに関わらず)の中に、わたしが存在したという本質において再び生きるとすれば、わたしの記憶がなくなることを喜んで受け入れる

「わたしの魂の子」

哲学について、いくつかのことを除けば、わたし自身の見方を持っている職業哲学者

その結果、できる限りの満足を得るために、彼らを愛するだけで十分なのである

わたしを覚えてくれるという満足がつまらないということではなく、それはおまけで来るということである



わたしは「哲学の意味は何か」と問うた

わたしが知っていることはまず、その結果がどうであれ、真理の探究として、それ自体に意味があるということである

それはわたしの人生の意味であったし、現在もそうである

そして最後に、ソクラテスの例に倣い、哲学は死を消し去る愛をわたしに教えてくれたことである



このように、生きているが人生の最後に辿り着いた哲学者にとって、哲学の意味は哲学それ自体を超え、愛の知恵に身を委ねることである

「哲学は何に導くのか」とわたしは尋ねられる

最初の回答は「何ににも(導かない)」であり、第二の回答は「愛することへ(導く)」である



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このエッセイは、哲学を超えたところに何があるのかに興味を持って読み始めた

わたしの想像していたものは出てこなかったが、哲学が我々に与えてくれる大きな力を見せられた思いである

それが哲学の向こう側にあるものなのだろう

それは昔から聞いていたような気がする「死をアプリヴォワゼする」ことと関連したもので、それによって死を恐れなくなる力を与えてくれるのだという

そして、その源泉は隣人を愛することから生まれるという結論であった

理論や体系としての哲学ではなく、生き方としての哲学の力ということになるのだろうか

哲学に対する見方が少し変わったような気がする

そして今、哲学の向こう側に何があるのかを探る、わたしなりの旅の道行にあることを感じている

良い読みとなった








2021年10月1日金曜日

コンシュ「哲学とその向こう側」(16)




哲学において、誰がソクラテスを「超えた」と言えるだろうか

彼は知り得ることすべてを知っていた

抽象的な空間で、我々はどのようにより進歩したのだろうか

人間の状態は無知の状態である

彼はどのように生きるべきかを知っていた

死の瞬間には、一方で自分が送った人生に同意の眼差しを、他方、未来に対する自信の眼差しを送ることができるように

なぜなら、我々が愛した人たち、そして我々の理想において我々に似ている人たちが我々の人生を続けるからである



伝説によれば、カントは死に際して、「これでよい」と言ったとされる

彼はプロイセン人をより良くしようとしてケーニヒスベルクの通りを歩いたわけではなかった

しかし彼は、おそらくそれよりは容易であった『純粋理性批判』を書いた

ソクラテスのミッションを決めた神は、「哲学をしながら、自分自身と他の人を吟味しながら生きる」という仕事を彼に割り当てた

この神は、この仕事が永久に他の人のものであることを望まなかったのである

それはただ一人ソクラテスのものであり、あり続けている

したがって、ここでのソクラテスはモデルでもなければ実例でもなく、例外なのである

しかし、最後に「これでよい」と言うことができるように生きる方法はいくつもある



ところで、ソクラテスの生き方は彼だけのものであるとしても、彼の死に方はすべての人のモデルとなる

なぜなら、どのようにして死の悲しみを消し去るのかという問題があるからだ

ホメロスの英雄たちには、永遠不滅であるという考えが齎す慰めがあり、ホメロス自身にとっては、自身の作品が世紀を跨いで生き延びるという自信があった

しかし普通の人ーーたとえ生き延びる可能性のある作品を仕上げたとしても、自身を平凡な人間であると考えるほどに謙虚な人ーーにとって、ありきたりな人間にとって、幸福な死の秘密とは何なのか

それは愛である