2019年8月31日土曜日

トゥールのバルザック像

     トゥールのバルザック像


気になったので、トゥールのバルザック像がどうなったのか、調べてみた

その像は彫刻家ポール・フルニエ(Paul Fournier, 1859-1926)の手になるもの
1889年11月にトゥール中心街(現在のジャン・ジョレス広場)に建った
ここはわたしも頻繁に顔を出すところだ
しかし、第二次世界大戦でやはり破壊されたようだ

建立記念式典の様子が描かれている
今でも残っていたならば、ラブレー、デカルトと共に毎日のようにその姿を見ることになった
残念である




バルザック(Honoré de Balzac, 1799 à Tours-1850 à Paris)

像は新たにトゥール出身のマルセル・ゴーモン(Marcel Gaumont, 1880-1962)に委ねられた
1回目の目標は生誕150年の1949年、2回目は没後100年の1950年だった
しかし、そのプロジェが日の目を見ることはなかった
1949年の計画は以下のように立派なものである




今年はバルザックの生誕220年に当たる
トゥール市は11月に新しいモニュメントを公表する予定とある
場所は駅前の県の庭園(Jardin de la préfecture)のようである
現代的な作品とのことなので期待して待ちたい








バルザック展へ



本日も快晴で、朝の空を見ていると暑くなりそうな感じ
午前中、ぼんやりしているといくつかアイディアが浮かんできたので、それを処理する
午後からいつものように旧市街へ
プロジェの周りに関係するものに当たっていた

一段落したので、先日、町のポスターで知ったバルザックをモデルとした彫刻展へ
シニア割引で半額の3ユーロ
本当に何気ない雰囲気の中、これでもかという具合にたっぷり味わうことができた
いつも感じるのは、日常と自然に繋がる空気の中でこんな経験をしてもよいのかということ
日本にいる時の目から見ると、何という贅沢、ということになるだろう

バルザックの小説は読んだことがないが、日本にいる時に彼の人生を知り、興味を持った
そのライフスタイルといい、実に興味深い

会場にトゥールのバルザック像の写真があったので、どこにあるのか訊いてみた
残念ながら、破壊されて?今はないようだ


以下にいくつか紹介したい



    ダヴィッド・ダンジェ(1844)
    (David D'Angers, 1788–1856)



アレクサンドル・ファルギュイエール(1898)
  (Alexandre Falguière, 1831–1900)



アレクサンドル・ファルギュイエール(c. 1900)



     オーギュスト・ロダン(1897)
    (Auguste Rodin, 1840–1917)


     オーギュスト・ロダン(1891)



   オーギュスト・ロダン(1891-1892)




    アンリ・チャピュー(1890)
    (Henri Chapu, 1833–1891)







2019年8月30日金曜日

世界は「そのように」動いている



昨日のこと

箱の上に置かれた資料の山が、不意に触れたため崩れて落ちた
以前であれば、やってしまった!と思うのだろうが、こころは全く動かない
崩れ落ちたことには意味があるはずと、ぼんやり考えられるようになっている
以前であれば心の揺れがあっただろうなどと考える余裕さえ持ちながら

そして落ちた資料を拾い集めながら、やっぱりそうだったのかと驚く
今まさに必要としているものがそこから大量に出てきたのである
そのためにそこに置いたのだろうが、完全に忘れていた

こういうことは珍しくなくなっている
そのように認識できるようになっていると言った方が正確だろう
まさにライプニッツの世界か
やや興奮、プロジェに対する心持ちが高まってきたようである


今日は午後から外に出た
しかし、相変わらずの亀の歩みである
そこにはどんな意味があるのだろうか

帰りにロワール沿いにあった組み立て式の観覧車がなくなっているのに気付く
いよいよ秋の始まりだろうか







2019年8月28日水曜日

表層的な興味が深い問題と結びつく瞬間



昨日も午前中から旧市街のいつものカフェへ
淡々とプロジェに当たる
ゆっくりとしか進まないが、これまでと充実の仕方が違うように感じている
錯覚ではないかとは思っているのだが、、
お昼にやや激しい通り雨があり少しだけ涼しく感じたが、一時は30℃を超えたのではないか


最近、それまでは知ってはいるがそれだけだった過去人が新しい意味を持ってくるという経験をした
自分の中に熟してきた考えと繋がるものがその人物の思想の中に見えてきたのである
それは、これまで自分の中にあった見方の転換を余儀なくするものでもあった
つまり、わたしにとっての発見だったのである
これからその繋がりの中身を表現するという作業が待っている

1年に1回でもこういうことがあれば有難いのだが、、






2019年8月27日火曜日

異常な集中力の月曜日



週が明け、今日も文句のない快晴である

日中暑くなることが予想されたので、朝から旧市街に出た
週の初めはいつも集中力が増すようだが、今日は自分でも驚くような内容であった
結局、3軒梯子して7時間ほどの密度の濃い思索となった

日中、35℃くらいになったようである
座っているだけで汗がじわーっと出てくる
その汗を感じながら頭の中を歩き回るのが意外によいのかもしれない

こういうことは極めて珍しいので、明日も試してみたい




2019年8月25日日曜日

旧市街の仕事場




先週の金曜から再び30℃を超える日が続いている
予報によれば、今週の水曜辺りまでは残暑のようである

このところ、連日のように旧市街に行っていた
中央にはプリュムロー広場があるが、夏を迎える前は比較的静かであった
しかしヴァカンス・シーズンになると、そこに近づくにつれザワザワという音が大きくなる
その感じがなかなかよいのだ

以前であれば、その中に入ってもよいのではと考えたが、今ではそんな気は湧いてこない
その近くにある仕事場が待っているからだ
それにしてもよい仕事場を見つけたものである







2019年8月24日土曜日

あなたの目に聞け

         Maurizio Nannucci
        (né en 1939 à Florence)


昨日は一段落したからなのか、すぐに帰る気分にならず、午後旧市街をゆっくりと歩く
暫くすると現代美術館CCCODが現れたので、久しぶりに入ってみた
観光客の気分である

係の人の対応が開けていて活力があり、実に気持ちがよい
そこの本屋を覘いて数冊仕入れてから、もう少しゆっくりしたくなり街中に向かった
そこで2時間ほど読んだり、買うべき本をリストアップしたりして過ごした

充実した一日になった
変に肩に力を入れるより、観光客気分で過ごす方が結果的にはよさそうである
帰りは少々暑さを感じた











2019年8月23日金曜日

やはり外に出ないと駄目か



本日もどうしよもないほどの快晴
朝から旧市街へ
いつものプロジェに当たる
今日で一段落とすることができた

籠っている時には得られない集中ができるのは、やはり外である
この状態を維持できれば大変なことになるという感触はあるが、戻ると駄目である
逆に、少し広い範囲に思考を遊ばせるにはアパルトマンの方がよいのかもしれない








2019年8月22日木曜日

実りの秋



今日も申し分のない快晴で始まった
先週あたりに気付いたのだが、アパルトマン前の街路樹に小リンゴ?がたわわに実っている
根元にはその実が落ちて絨毯のようになっている
確実に秋が始まっている

ところで、今日も晴天につられて午後から旧市街へ
このところのプロジェに3時間ほど当たる
亀の歩みであるが、それに苛立つのではなく、愛することができるようになってきた
その僅かな積み重ねを

長い時間をかけての成長と言えるのだろうか





2019年8月21日水曜日

ボサーッとした翌日は



本日も快晴だが、涼しい
朝から旧市街へ
昨日閉まっていたカフェは夏時間になっていたようだ
確かに朝の客は少ない

今日はそこで考えをまとめようと試みる
昨日ぼさーっとしていたせいか、結局4時間ほど集中できたようだ
まとめたとされるものは、まだまだではあるのだが、、






朝の空気を感じながら



本日も晴れ上がってくれたので、朝から街に出た
まず旧市街のいつものカフェに向かうも閉まっている
そこで偶に入るカフェに行ったがなぜかネットに繋がらず、中心街のカフェへ移動
新鮮な空気を感じながら午前中を過ごす

午後からは結局のんびりと受け身で過ごした
Youtubeからは、ニーチェ、オルダス・ハクスリー、ジョージ・オーウェルなどが流れてきた
明日はこの状態から抜け出すことができるだろうか








2019年8月20日火曜日

トゥールがゆっくりと変容中



今日は気持ちよく晴れ上がってくれた
やはり週の初めは新鮮である
用事があり、午後から街に出た

久し振りにフランス語を使って会話をした
なかなか言葉が出てこないものの何とか用事を済ますことができた
日常生活で便利なことを知らなかったことが分かった


ところで、これまでも見ていたはずだが、目に入っていなかったようだ
街の中心部で工事をしていることは知っていたが、特に気に留めていなかったのだろう
今日の写真がその完成図のようである

これは、ロワール川の北側から近未来の街の中心部を一望したところ
ウィルソン橋の先がアナトール・フランス広場で、川沿い左にあるのが市立図書館
同じくロワール川沿いでウィルソン橋の右にあるのがトゥール大学
ここには哲学を含めた文系の学部がある

ウィルソン橋から少し行くと、左側にサン・ジュリアン教会、右側には現代美術館が見える
美術館はCCCOD(Centre de création contemporaine Olivier Debré)と呼ばれている
ここには一度だけ入ったことがある

今回の工事では、アナトール・フランス広場周辺に新しい建物がいくつか建つようだ
それから、ロワール川沿いの景色がかなり変わりそうである
ウィルソン橋の右の川岸にはお店が出ているが、それらは一掃され、広い道や段々の休息所になる
同じようなコンセプトで左の川岸も変容しそうである


それにしても、いつ完成するのだろうか
ゆっくりと、気が付かないうちに姿を変えているという感じになりそうである
如何にもフランス的で?、いいペースである





2019年8月19日月曜日

パースの哲学: 可謬主義と連続主義



本日は朝からしっかりと雨が降っていた
一雨ごとに秋が熟していく
向かいのグラウンドの芝もこれまで一部茶色くなっていたが、この雨で緑が浮き立ってきた
午後からは日の光が顔を出してくれた


昨日取り上げたチャールズ・サンダース・パースの哲学に興味深い考え方があった
7-8年前に調べた時にも気付いていたことを思い出す
自分の中にも見られる考え方でもあるので、ここで簡単に纏めておきたい

一つは、可謬主義(fallibilism)
如何なる信念や見解にも理性的な確実性はないという立場で、わたしも同意したい

もう一つは、連続主義(シネキズム: synechism)
この言葉は、ギリシャ語の連続性を意味するsynechésに由来する
唯物論は物が第一で、観念論は観念が第一のものの見方である
同じように、連続主義はすべてを連続性の中に見る傾向としてパースが提案した

物の世界と観念の世界が全く別物であるとは認めない
連続主義者は、わたしはすべてがわたしで、あなたでは全くないとは言うべきではない
死を迎えたとしてもすぐには意識はなくならないと連続主義者は考える
ただ、この世界に不連続がないとは考えていない

完全に理解しているとは言えないが、世界に広がるストア派の意識と関係するのだろうか
最近のわたしは、この存在が外に少しずつoozingを起こしているように感じている
繋がっているという感覚が、恰も物理的な変化を伴っているように感じているのである
これもシネキズムに関係しているのだろうか

この問題には、これからも注意して行きたい







2019年8月17日土曜日

チャールズ・サンダース・パースというアメリカの哲学者

   チャールズ・サンダース・パース


本日は朝から雨模様
一段と涼しくなってきた

昨日、メールで届いた情報からこの哲学者が蘇ってきた
チャールズ・サンダース・パース(Charles Sanders Peirce, 1839-1914)
記号論(semiotics)について調べていたのは7-8年前になるので、それ以来である
今日は彼の人生をざっと振り返ってみたい

彼は1839年にマサチューセッツ州ケンブリッジに生まれている
父親ベンジャミンはハーバード大学の天文学と数学の教授
10代後半から神経性の症状に苦しみ、その影響で社会との関係がうまく取れなくなる

子供のころから論理学の本を読み、終生論理の進め方に興味を持つようになった
ハーバード大学ではウィリアム・ジェームズと親交を結ぶ
ただ、40年間ハーバードの学長の椅子に座ることになる人物がパースを評価せず
大学での正規の採用が難しくなった
父親の影響もあり、1859年から1891年まで米国沿岸測量局での職は維持したようだ

1869年から1872年まで、ハーバードの天文台の助手
1879年、ジョンズ・ホプキンスの論理学の講師に採用
1884年、女性問題で大学を解雇される(これが唯一の大学での職となった)
この後も測量は続けながら、哲学、論理学、科学についての研究に打ち込む
1909年までの15年ほどの期間が最もプロダクティブだったようである

1887年、親からの遺産でペンシルベニア州ミルフォードに2,000エーカーの土地を買う
そこに引き籠り、「アリズビー」(Arisbe)と名付けた家を建てて執筆を続けた
1914年、その家で74年の人生を閉じた
800以上の発表論文(12,000ページ)の他、手書きの未発表原稿が10万ページ以上あるとされる

今ではアメリカの最も独創性に富む思想家とも言われているパース
彼に会ったホワイトヘッドは、パースのことを「アメリカのアリストテレス」と言ったという
因みに、ヨーロッパの知性が見たアメリカのプラトンは、ウィリアム・ジェームズとのこと







2019年8月14日水曜日

そういうものだと思うこと



シャッターを開けると、今朝も快晴
実に気持ちがよい
昨日、バスを待っている時に浮かんできた考えを思い出した

トゥールの町は所によっては古く、やや汚らしいところもあり、とてもいいとは言えない
これまでは、この状態をどうにかならないものかと思っていた
しかし、それこそがトゥールなのだと思えばよいのではないか、という考えが浮かんだのだ
そうすると、これまで違和感があった景色も美しいものに見えてきた
不思議である

この考え方は、現状に何の変化も齎さないのでコンサーバティブだとされ兼ねない
振り返ると、仕事をしている時は、いつも現状をどうにかならないかと思っていた
いまの状況に安住せず、どこか別のところ、何か別の状態を常に求めていたようだ
プログレッシブだったのだろうか
しかし、この状態はそこで生活していなかったことを意味しているのではないだろうか


一瞬の見方の転換であった





2019年8月13日火曜日

記憶を揺すって繋がりを探す



今朝は快晴だが、やはり涼しい
東京は未だに真夏日が続いているようだが、体調には十分にお気を付けいただきたい

昨夜は寝る前に何冊か速読し、古いメモに目を通した
そのせいかどうかわからないが、ボサーッとしている時より早く目が覚めた
脳を適度に刺激し、その後に発酵の時間が用意されているのだろうか
目が覚めたのは、これまでに見えなかった繋がりが見えたところであった

この関係は以前にも経験しているので、わたしの法則になるのかもしれない
これからは読書の、沈潜の秋
頻繁に試してみたい


ところで、今日も朝から旧市街へ
朝の冷気はどこかを刺激する
道路工事は続いているが、道の閉鎖は解けていたのでバスを利用した

待ち時間にサックのポケットに気付き中を覗いてみると、数年前のメモが7-8枚現れた
中にもう忘れていた非常に重要な記述があり、嬉しくなる
どこかに繋がりそうである








秋空の下、久しぶりに街へ歩く



今日も朝から涼しかった
朝の内、曇っていたかと思えば午後には晴れ上がり、そうかと思ったら再び激しい雨
夕方には再び晴れてくれた

こんな天気を愉しみながら、今日は午前と夕方に旧市街と街中に出た
道路がガスか水道の工事のため閉鎖されているため、アパルトマンの近くにはバスが通らない
仕方なく、別の路線まで歩くことにしたが、涼しいためか気持ちがよい
帰りも離れたところで降りて歩いてきた

もう秋の気候のせいか、外での仕事も結構集中できたのではないだろうか
進み方とは比例しないのだが、、
明日も今日のやり方に肖ってみたいが、起きてみないと分からない

ところで、ロワールの水嵩が減っているようだ





2019年8月11日日曜日

ディベート「21世紀に宗教の場所はあるか」を観る





今日は朝から雨模様で、非常に涼しい
もう秋に向かっているようだ
昨日に続き、ケンブリッジ・ユニオンにおけるディベートを観た

テーマは「宗教は21世紀の生活に合致しているか」である
宗教の役割は次第に少なくなるという立場の人の中にはリチャード・ドーキンス博士もいる
確かに、宗教が人類にいろいろな害を齎したことは認めなければならないだろう
その中には宗教の名を語ってのものも含まれているかもしれない

わたしの印象に残ったのは、宗教には意味があるとする最後の人の考えだろうか
彼は自らの無神論者とした上で、次のようなことを言っていた
人間の生活で重要になる問題の中には無神論の世界では扱われないものが含まれている
死の問題であり、赦しの問題であり、自己の問題であり、価値に関わる問題である
宗教はその問題を考えてきた
そのことはいつの時代にも無視できないのではないか
その上で、これまでは宗教が人々の生活を制約してきたが、それは止めなければならない


参加者の判定は、21世紀も宗教には場所があるというものであった
いずれにせよ、このような機会が日本では殆ど見られないのは残念である






2019年8月10日土曜日

ジェームズ・ボールドウィンとウィリアム・F・バックリーの対論を観る





1965年、ケンブリッジ大学で行われた歴史的ディベートを観る

アメリカの黒人作家ジェームズ・ボールドウィン VS. 保守派の論客ウィリアム・F・バックリー

テーマは「アメリカン・ドリームはアメリカの黒人の犠牲の上に成り立っているのか」

肯定するボールドウィンのサイドが圧勝したようである


こういうのを見せられると、言葉の持つ力を信じたくなる

彼らの文化が我々のものとは全く別物であることを痛いほど感じざるを得ない

真剣なるディベートの伝統は、日本には根付かないのだろうか







涼しさが秋の気配



昨日一昨日とやや暑い日が続いたが、これまで通り外に出ていた
今日は涼しくお昼辺りから雨が混じる展開だったが、午後には収まったので外に出た
少しだけ集中力が増してきたように感じるが、おそらく錯覚だろう

今日はもう秋の気配である




2019年8月7日水曜日

こんな日は迷わず外へ



日本では真夏日が続いていると聞く
さぞ大変であろうと同情する
幸いこちらはこのところ20℃台
今日は曇りで特に涼しかったので旧市街に出る
完全に観光地の様相を呈していた

そんな中、これまで籠っていてはできなかったことにすんなり入っていくことができた
気分が爽快になり、さらにできそうな気がしてくるから不思議である
こういう状態が続くと理想的なのだが、、
兎に角、こんな日は迷わず外に出ることにしたい







2019年8月2日金曜日

いい感じの植物園のカフェ



今日は完璧な快晴である
思い描いていた予定を朝の気分で変更し、植物園のカフェから一日を始めることにした
何度か行っているので、ご主人は全くの他人とは見ていないことを感じる
お昼が満席になるとのことで、それまでの2時間ほどをいい感じで使うことができた
午後からどんなことになるのか、楽しみである