2022年12月30日金曜日

12月を振り返って

























あと1日で今月も終わりになるので、このあたりで振り返っておきたい

今月は以下のようなことをやっていた



1)免疫に関する本のゲラ校正に当たっていた

今月上旬には初校ゲラの校正は終えていた

これから編集者の校正ゲラと突き合わせを行わなければならない

年を越すことに間違いはない

1月上旬には終えたいものである

二校、三校とあるので、来年1月は第4コーナーを回ってラストスパートとなるのだろうか

いつも思うことだが、本を出すということは、なかなか大変な作業である



2)来年1回目のカフェ/フォーラムの構想を練っていた

2月末から3月上旬に開催予定の会だが、その大枠が見えてきた

新年早々には案内を公表できるようにしたい

よろしくお願いいたします



3)今月もコリングウッドの自然に関する考えを読んでいた

自然についての一つの見方を学んでいるという印象である

同時に、哲学の歴史を眺めるようなところもあり、これから読み進む上で参考になるだろう

この本が終わった後も、このような営みは継続したいものである



4)これからのテーマのようなものを考えていた

今月の下旬に入り、これからやりたいことが少しずつ見えてきたように感じている

ただ、所謂プロジェとして具体的なステップを思い描けるようなものではなく、長いスパンで共にいることができるような少し大きなテーマが浮かんでいる

これからどのような展開を見せるのか、今は全く想像できない

経過を注意深く観察していく予定である









2022年12月29日木曜日

コリングウッドによる自然(73): 現代の自然観(15)新しい物質論(4)


















Albert Michelson (1852-1931)



この後、大きな物質とエーテルの二元論を再考する必要が殆どなくなった

なぜなら、各瞬間において同一な物体から構成され、内在的な延長と質量を持つ物質が消えたからである

エーテルも、マイケルソン=モーリーの実験により消えることになった

この実験は、光が静止した媒体の中を伝達する乱れではないことを最終的に証明したのである

しかし、古い二元論の奇妙な遺物は、現代物理学の中に未だに生きている

光線だけではなくすべての電子は不思議にも、曖昧に行動することを現代の物理学者が証明した

時には粒子のように、時には波動のように動くのである

次に問われるのは、本当はどちらなのかということである

両方であるということは殆どあり得ない

なぜなら、もし電子が粒子ならば波動のようには振舞えないし、波動であれば時に粒子として振舞えないからである

そこで、ある物理学者は自らの心の状態をこう表現した

月水金には粒子説を信じ、火木土には波動説を信じている、と

粒子説は古典的な物理学の大きな物質という考えの幻影であり、波動説はエーテルという考えの幻影であることが明確になる

考えが死んだ時、幻影は歩き出すが、永遠にではない

現代の物質論では、電子は粒子ではあり得ない

なぜなら、粒子とはそれが成すこととは関係なく在る物質のことだからである

また、電子は波動でもない

波動というのは弾力性ある媒体における乱れのことで、その媒体は乱されていることとは関係なく、延長と弾力性を持つものだからである






2022年12月28日水曜日

コリングウッドによる自然(72): 現代の自然観(14)新しい物質論(3)



























ここでもまた、物質の根本的な概念が大きく変化していることが明らかになる

古い考えでは、1個の物質はそれがそれであるものである

そのため、永遠に変わらない性質を持っているので、様々な機会に様々に振る舞う

1つの物体が衝撃あるいは引きつける際に力を及ぼすのは、それ自身の中にある質量を持っているためである

しかし今では、物体に属するエネルギーがその振舞を説明するだけではなく、各物体の質量や延長をも説明する

1立方インチの鉄がその大きさであるのは、鉄を構成する原子の引力と斥力の平衡によるが、鉄の原子はそれを構成する電子の引力と斥力のリズミカルなパターンによっている

従って、化学的特性だけではなく、物理的、量的性質さえも活動の関数として考えられているのである

ここで再び、化学だけではなく、物理学の基礎的な領域においても、物質と精神・生命との新しい類似性が現れた

物質は、存在が運動と独立し、運動に先立つ領域にあるものとして精神や生命と対比されるものではないのである

このような意味を科学的にトレーニングされた哲学者によって明確に認識されていたことを示すために、初期の数学者、物理学者としてのキャリアが哲学者として仕事で見事に継続されているホワイトヘッド(1861-1947)の『自然と生命』の一節を引用してみよう

古い見方は変化を取り出して、ある瞬間の自然の全実在を考えることを可能にする。ニュートン(1642-1727)の見方によれば、そこで省かれたものは近接する瞬間における空間内での物質の分布の変化であった。しかしそのような変化は、ある瞬間における宇宙の本質的実在とは無関係なものとされたのである。移動は偶然であり、本質的ではなかった。同様に本質的なのは、持久であった。・・・現代的な見方では、過程や活動や変化は事実の本質なのである。ある瞬間には何も存在しない。各瞬間は事実を集める方法に過ぎない。従って、単純な根本的範疇とされる瞬間はないので、ある瞬間には自然は存在しないことになる。










2022年12月27日火曜日

2022年を振り返って






















もうすぐ新年になるので、このあたりで今年を振り返っておきたい

今年は次のようなことがあった


1)10年間続いた「医学のあゆみ」のエッセイを3月で終えた

105篇のエッセイを終えたのは昔のことのように感じていたので、今年の出来事であったことを確認して驚いている

これらのエッセイを書く中で、視野が広がり、新しい見方が身に着いたように感じている

「医学のあゆみ」編集部の皆様には改めて感謝したい


2)「医学のあゆみ」のエッセイを纏めた『免疫学者のパリ心景-新しい「知のエティック」を求めて』を6月に医歯薬出版から刊行することができた

編集者の岩永勇二氏には最後までお世話になった

ここに深甚の謝意を表したい

あとは、できるだけ多くの方にお読みいただき、新しい考えを紡ぎ出していただければと願うばかりである


3)この秋に、3年振りにカフェ/フォーラムを再開することができた

3年と言えばかなりの長さだが、そのブランクを感じさせない熱量を感じ取ることができた

参加された多く皆様には感謝しかない

これらの会が次第に自律した有機体に成長しているようにも感じる

主宰者としては、それがこれからどのように変容していくのかを見守るといった心境だろうか

来年はサイファイ研ISHEの創立10周年を迎えることになる

これからもご理解とご支援のほど、よろしくお願いしたい


4)免疫に関する考えを纏めることができた

今春には原稿を書き終えていたが、校正が始まったのは10月下旬であった

初校ゲラが12月初旬に送られてきて、その校正を終えた

これから二校、三校を終えれば、刊行に向かうことになる

この本には、これまでにない視点が盛り込まれていると考えている

多くの方にお読みいただき、ご批判をいただければ幸いである



このような読みは、ピアノの指使いの練習のように、わたしの脳味噌を揉み解してくれたように感じている

これからも続けていきたいものである



◉ 今年纏めることができた2冊の本は、わたしのこれまでの歩みを総括するものになっている

その意味において、この出来事は一つの脱皮を意味しているように感じられる

来年からは純白の原野を行くが如く、新しい枠組みを求めて歩みを進めることになるだろう

何が現れるのか、興味津々である











2022年12月26日月曜日

コリングウッドによる自然(71): 現代の自然観(13)新しい物質論(2)


























原子価の電子論において、ベルクソン(1859-1941)がまだ本当だと想定している古い物質論が、物質とは本質的に過程であり、生命のようなものだとする新しい理論に道を譲っているのが見える

しかしこの新しい理論は、生気論物活論、あるいは有機体における生命に関わる過程と原子における物理的過程を混同することには譲歩しない

非常に重要な2つの過程の類似性が発見された時、両者の違いが忘れられることはなかった

新しい物質論の刺激を受け、ホワイトヘッド(1861-1947)のような哲学者が現実の全体は有機体であると宣言し、サミュエル・アレクサンダー(1859-1938)のような哲学者が時間を精神として記述し、その空間は身体であるとする時、自然を生きたものとして捉える古代ギリシアの古い見方に先祖返りするとして彼らを非難するのは誤解になるだろう

彼らは、ベルクソンがやりたかったであろう生物学に物理学を混ぜ合わせたのではなく、近代史で初めて物質界と生命界の際限のない違いではなく、根源的な類似性を明らかにした物理学の新しい見方を歓迎しているのである


ここで、衝撃と引力の間の二元論について考え、最近の物理学がどのようにこの問題を扱っているのかを問うてみよう

ニュートン(1642-1727)にとっての唯一の希望は、真の引力の否定と引力を衝撃に還元することであった

しかし、最近の物理学の新規性は、その反対の方向に向かい、衝撃を真の原因とすることを否定し、引力と反発力の特別なケースに還元するという事実によって印象的に示された

新しい物質論によれば、物質のいかなる粒子も他の粒子と接触しない

あらゆる粒子は、磁場とのアナロジーで考えられた力の場に囲まれている

1つの物体が他の物体を跳ね返す時、それは物体同士の衝撃によるのではなく、磁石の針が反発し合うように、両者の反発によるのである










2022年12月25日日曜日

コリングウッドによる自然(70): 現代の自然観(12)新しい物質論(1)



















現代物理学は、困難なことはあるにせよ、これらの問題を除くために少なくとも何かはやってきた

最後の問題を最初に持ってくるとすれば、化学と物理学との論争は電子理論によって落ち着いた

この理論によれば、原子は究極の粒子ではなく電子の集合なので、一揃えの化学的特徴を持つ原子は、一つの電子をそこから蹴り出すことにより、別の特徴を持つ原子になる

従って我々は、一つの物理的単位である電子に戻る

また、原子の単なる量的側面(原子の重さ)に依存するのではなく、原子を構成する電子のパターンに依存する化学的性質という新しい概念を手に入れるのである

このパターンは静的ではなく動的で、常に一定の律動で変化している

これは丁度、音響学においてピタゴラス学派が発見したリズミカルなパターンのようである

量と質を結ぶものとしてのリズミカルなパターンというこの考えは、現代の自然理論において重要である

それは単にそれまで別々にあった概念を結び付けるだけではなく、さらに重要なのは、時間の概念の新しい意義を明らかにしたからである

もし水素原子が水素の特徴を持つのは、一定数の電子を持ち一定の配列をしているからではなくなく、一定のリズミで運動しているからだとすれば、ある瞬間において原子はその特徴を全く持っていないことになる

リズミカルな運動ができるようになる時間の広がりの中でだけ、原子はその特徴を持つのである

もちろん、ある瞬間には存在せず、時間の広がりの中でだけ存在するものがあることは知られていた

運動が最も明白な例である

一瞬を取れば、動いている身体と静止している身体に違いはない

生命も同様である

生きている物体と死んでいる物体を分けるものは、生きている動物ではリズミカルな過程と変化が進行していることである

従って、生命は運動と同様、瞬間には存在せず、時間が掛かるものだということになる

アリストテレス(384 BC-322 BC)は、同じことが道徳的性質についても言えることを示した

例えば幸福だが、一生の間その人に属している場合にかぎりその人のものなので、心的状態を一瞬だけ見ても彼が幸福かどうかは分からない

それは丁度、写真を見てもその動物が生きているのか死んでいるのか分からないのと同じである

現代物理学の出現以前には、運動とは物体に起こる事故のようなもので、それによって物体の性質は変わらないと理解されていた

原子を運動する電子パターンとして捉えるこの新しい理論は、この理解を完全に変えてしまった

それだけではなく、時間が関与するという意味で、物質の化学的性質を精神の道徳的質あるいは有機体の生命に関する性質と類似のものとしたのである

それ以降、倫理学において人間が在ることと人間がすることを分けられず、生物学において有機体が存在することと有機体がすることを分けられないのと同様、物理学においても物質があることと物質がすることを分離できなくなったのである

これを分離することは、古典物理学の礎石であった

それは、運動を外から物体に加えられたものと捉え、物質界の写真がその全性質を明かにすると信じる世界であった







2022年12月24日土曜日

深みに向かうステージに入っているのか















今日は身も心も軽くして、これからに向けての大きな枠組みについて考えを巡らせていた

これまでの思考の傾向は、改めてどこか新しいところを探るというところがあった

このところ現れている特徴は、最終的には新しいところに導くのだろうが、その入り口はつい最近通り過ぎたものの中にあるのではないかという考えになるだろうか

大きな原因はカフェ/フォーラムでの経験があるように感じている

これまでのカフェでは毎回、前回とは直接には関係のないテーマを選んでいた

ところが、秋に再開したサイファイ・フォーラムFPSSでシリーズ「科学と哲学」を始めることになった

このようなシリーズにおいては、前回との関連の中で次を考えることになる

前回のものはどこかに置いて新しいところに入るという思考(志向)とは違うものにならざるを得なくなる

前回との繋がりで考えるというやり方は自ずから、あるテーマについての深まりを見せることになると予想される

カフェ/フォーラムについては10年という節目を迎えている

それから、これまでの歩みを『免疫学者のパリ心景』と来春には世に出ると思われる免疫に関する思索の書として纏めることができたことも1つの節目になるだろう

最近の思考の傾向は、これからが深みに向かうべき段階に入っていることを意味しているのかもしれない








2022年12月23日金曜日

コリングウッドによる自然(69): 現代の自然観(11)現代物理学(4)

































第3の問題が化学の側から現れた

ジョン・ドルトン(1766-1844)は、質的に異なる行動をする多くの種類の物質を同定した

それらは元素(element)と呼ばれ、それぞれが独自の物理的特徴を持つ原子(atom)の種類から構成される

しかし原子とは、量的な性質以外持ち合わせていないものであった

実験の結果、一つの元素の原子は他の元素の原子と質量が異なることが明らかになった

従って、物質の究極の粒子は質量が均一なのではなく、原子量が多様なものとして見なければならなくなったのである

さて、物理的量と化学的質の間の溝を埋める難しさ――すなわち、なぜ1つの原子量を持つ物体が特定の化学的反応をするのに、少し原子量の異なる物体は別の反応をするのかを示すことの困難――は別にして、物質の粒子論は、物理学者から見れば、全ての原子は同じ質量を持つという前提を必要とした

なぜなら、物質の根本的粒子である原子を物質の単位として見做していたからである

わたしが二世代前の科学文献に大きな位置を占めていたこれらの論争を参照するのは、物理学における現代の発見や理論が齎す状況が非常に奇妙なため、単純で理解可能な理論を人びとが信じていた古典物理学と呼ばれる古き良き時代を羨む溜息を洩らしたくなるからである

このような単純な理論は一般向けの手引書にしか存在しないことは覚えておく価値があるだろう










2022年12月22日木曜日

コリングウッドによる自然(68): 現代の自然観(10)現代物理学(3)

























ニュートン(1642-1727)は、重力とはある特殊な種類の衝撃の特殊な効果か――彼自身はこれが運動の唯一の物理的原因であると常に見ていたのだが――あるいは非物質的原因の効果のどちらかに違いないと信じていた

19世紀中頃に入り、著名な物理学者がニュートンの反論を幾度となく繰り返したが、誰一人としてそれに答えなかった

運動の相容れない二つの原因、衝撃と重力はどのような関係にあるのか、という問いに対して満足のいく解決には至らなかったのである

複雑な状況はここで終わらなかった

ニュートンは彼の粒子が動く空間を空虚なものとして考えたが、後に物理学者はそこに光の波動を説明するために必要となるエーテルが満たされていると考えざるを得なくなった

エーテルは、粒子に分割されない均一で均質な物質で、粒子の運動による波動のような乱れを伝達するのがその機能であった

従って、全ての運動はエーテルの中で行われるものだが、エーテルはいかなる抵抗ともならない

物質とエーテルという2つの概念に折り合いをつけるのが難しいことは物理学者には自明であったが、その困難を乗り越えるためのあらゆる試みが行われた

一方では、粒子の構造をエーテルに帰すること、すなわち、エーテルを非常に希薄な気体としたり、光を動く粒子の流れとしたりすることだが、いずれも実験事実の前で破綻した

他方、物質をエーテルの中の局所の乱れや核形成から構成されるとする試みもあったが、そもそもエーテルは均質で一定なものとされていたのである









2022年12月21日水曜日

静穏の中の年の瀬

























月初めに届いた免疫本のゲラの校正を終えたが、今週から再度ゆっくり読み直すことにした

精神が深いところで静かに落ち着いているので、これまで気付かなかったことが見えてくるかもしれないからである


また、来年1回目のカフェ/フォーラムのテーマが決まりつつある

最終的に固まるにはもう少し時間が掛かるだろうか

いつも準備を進める中で変容を遂げるものなので、もう少し様子を見ることにしたい


12月も下旬に入り、今年を振り返るモードに入りつつある

それと同時に、月初めには全く視界に入っていなかった来年に向けての図が、霞の中から少しずつ見えてくるように感じられる


これまでにない落ち着きの中にある年の瀬である











2022年12月20日火曜日

コリングウッドによる自然(67): 現代の自然観(9)現代物理学(2)

























(2)古い物質理論の複雑な事情と矛盾

しかしながらニュートン(1642-1727)の時代から、この単純な図式は新しい要素が加わることにより分かり難いものになった

ニュートンは次のように主張した

物質のあらゆる粒子は、恰も他のすべての粒子に対して、その質量に比例し、距離の二乗に反比例する強さで作用する引力を持っているかのように作用する

ここで引力が運動の第二の原因として現れ、衝撃と一緒に存在するものとして捉えられたのである

このような粗雑な二元論の形は、哲学においても科学でも受け入れ難いものである

真摯な物理学者であれば、ある運動は衝撃により、別の運動は引力という別の力によるなどと示唆することは、両者がどのような関係にあるのかを問うことなしには決してないだろう

ニュートン自身はこの困難を強く感じていたので、物質に内在的に属する引力という原理を一度ならず明確に否定したのである

彼はリチャード・ベントリー(1662-1742)にこう書いている(1692 2.25)
引力が物質にとって生得であり、内在的で本質的であるべきなので、一つの物体がもう一つの離れたところにある物体に何の仲介もなしに作用するということは、わたしには全くの不可解なことなので、哲学的問題において思考力のある人であればそんな考えに陥るとは到底信じられないのである







2022年12月19日月曜日

コリングウッドによる自然(66): 現代の自然観(8)現代物理学(1)

























そこで我々は、1世紀前に生物学がそうであったように、物理学に導かれる

物理学の主要な概念は過去50年で大きく変わったが、それを記述することは進化生物学の場合よりもずっと難しい

従って、わたしが重大な間違いを犯すかもしれない

しかし、わたしが何かを言うという責任を回避することはできない

なぜなら、物理学の新しい概念が自然の哲学的見方と精神との関係にとって最も重要な含意があるように見えるからである


(1)古い物質理論

まず、このような変化が起こる前に自然界はどのように捉えられていたのかを述べなければならない

それは、空間を動いている粒子に分割されるものと捉えられていた

物理学が考える粒子は、原子的すなわち分割不能で破壊不能なものだが、それは幾何学的に分割不能なのではなく、ある大きさと形を持っていた

しかし、幾何学の残渣がなければ定義できなかった

なぜなら、それが物理学的性質、特に重要なのが不可侵性だったからである

この不可侵性のため、それぞれの粒子は同じ空間を占めることができなかったのである

粒子はどの方向にも動くことができるので、2つの粒子が衝突して方向を変えることもあり得る

それぞれの粒子は慣性を持っているので、一定の速度で直線状を動くか、止まっているかである

これが、古代ギリシアの原子論者から17世紀に受け継がれ、その後2世紀に亘り物理的世界の基本的な真理として科学者に受容されていた物質の原子論である

ここまでは十分に理解可能なように見えるが、少し詳しく検討すると重大な困難に出会う

例えば、物体とそれが占める空間との関係は? あるいは、一つの物体からもう一つの物体への衝撃によって、どのように運動が伝えられるのか? あるいはまた、なぜ物体は止まっているのではなく動かなければならないのか? などなど

しかし、これらの問題を無視することにより、想像可能な物質界の図が我々に与えられる









2022年12月18日日曜日

雪見の紫煙


























今朝は雪を見ながらの紫煙の時間となった

今日の日美ではニース生まれのイヴ・クライン(1928-1962)が取り上げられていた

International Klein Blue(IKB)と呼ばれる深い青が出てきた

シガーを燻らす時の一つの悦びは、太陽に当たった時に見られる深い青(紫)の揺らめきである

番組の中には、物質性とか非物質性などという言葉も飛び出していた

それは、このところこの場で読んできた中にも重要な問題として顔を出していた

折に触れて考えていきたいものである


去年の今頃は『免疫学者のパリ心景』となる原稿を抱え、免疫に関する考えを纏めていた

今年は『パリ心景』が6月に刊行され、免疫の方もゲラの校正を終え、さらにもう一度読み返すところまで来ている

この1年で状況が大きく変わったのが分かる

精神的にも落ち着いてきたこの時期に、これからの枠組みについて考えを巡らすのも悪くないだろう








2022年12月17日土曜日

コリングウッドによる自然(65): 現代の自然観(7)ベルクソン(4)



















ベルクソン(1859-1941)の生気論に関わるこのような不均衡と矛盾の感覚があるので、我々は彼の基本的な概念を詳しく調べなければならない

自然の有機体と自然の法則の両方を創造する働きをし、直観的に知識を求めると同時に知的に行動する精神を有機体に付与する生命力は、その外にもそれ以前にも何もない力である

しかしそれは、いろいろなやり方でそれ自身を分化させ組織化する

異なる方向に分枝、発展し、この方向では成功し、別の方法では失敗する

ここでは停滞に陥り、あそこでは中断されない勢いで流れていくと言った具合である

つまり、この活動の詳細な記述を通して、彼はこの活動を恰も岩や山の間を流れる川として捉え、岩や山は川の運動自体を決定しないが、分枝や多様化は決定していると考えていた

これは、閉塞や分枝の原因は生命力そのものに内在するのか、この原因は生命ではない何かなのかのどちらかを意味している

最初の選択肢は、ベルクソンの純粋な活動としての生命という概念によって除外される

それゆえ、第二の選択肢のそれ自身で実在する何か、生命の流れの障害としての原因を考えなければならなくなる

ここで再び、生命が役割を演じる舞台としての物質という観念に戻ってくる

これはベルクソンの宇宙論の悪循環である

彼は表面上、生命の副産物として物質を見做していたが、物質を前提とすることなくどのようにして副産物が現れるのか説明できなかったのである


この結論は、ベルクソンの認識論にとって致命的である

宇宙論として見たベルクソン哲学の問題は、彼が生命を真剣に考えたことではなく、それ以外を真剣に考えなかったことである

生命という概念は、世界の一般的な性質にとって最も重要なカギになる一つであるが、全体としての世界の十分な定義にはならない

物理学者の無生物の世界は、ベルクソンの形而上学にとって重荷である

それに対して、彼の生命プロセスの中で消化する以外に彼にできることは何もないからである

そして、それは消化し得ないものであることが明らかになったのである

しかし、彼が生命に注意を集中することにより成し遂げた自然理論の進展は否定できない

我々はベルクソンの仕事を無視することはできない

我々がやるべきことは、彼が解決できなかった生命のない物質という概念について再考することである







2022年12月16日金曜日

コリングウッドによる自然(64): 現代の自然観(6)ベルクソン(3)
































ベルクソン(1859-1941)の自然理論の長所は、彼が生命の構想に真剣だということである

彼はその概念をしっかりと把握し、それを印象的で見事なやり方で定義しただけではなく、それ自身の範囲において最終的なものとしたことである

しかし、彼の哲学を全体として見、彼がどのようにして生命の概念を自然の概念と同一視し、自然の中のすべてを「生命」という一つの言葉に還元しようとしたのかを想像する時、17世紀、18世紀の唯物論者たちが物質についてやったことを彼は生命についてやったことが分かる

唯物論者は物理学を出発点として、物理学者が理解する言葉の意味において、自然はいずれにせよ物質的なものであると言い張った

そして、自然の全世界を物質の言葉に還元するところに進んだのである

ベルクソンは生物学を出発点として、自然の全世界を生命の言葉に還元することにより議論を終えるのである

我々はこの還元を唯物論が試みた還元よりも成功しているのかどうかを問わなければならない

ここで2つの問題が現れる

1つは、精神が物質の概念に吸収されることに抗したように、生命の概念に吸収されることに執拗に抵抗するものがあるか

そして2つ目は、生命という概念が足場を失ってもそれ自身で宇宙的原理として有効であるかという問いである

第一の問いは、ベルクソン流の生気論が古い唯物論よりも自信をもって対応できるものである

物質と精神の溝を橋渡しする生命という概念は、両者を説明すると尤もらしく主張できるだろう

従って、この問題に長居はしない

第二の問題はより深刻である

我々が知る生命は、物質により既に設定された舞台の上でその役を演じている

我々が見るところ、それは無数の無機物の中の一つの表面で一時的に開花したものである

天文学や物理学の無機的世界は、有機的世界とは比較にならないほどの時間と空間を伴うシステムである

生命がこの無機的世界に現れているという事実は、疑いなく無機的世界の重要性に光を投げかけている

ベルクソンの雄弁から我々の精神を救い出し、彼が言うように物質は生命の副産物なのか、あるいは唯物論者が信じるように生命は物質の副産物なのかを頭を冷やして自問する時、彼が擁護している立場はとんでもなく耐えがたい矛盾であることを認めないわけにはいかない

自然は我々の精神の思考の副産物であるとするカント(1724-1804)の理論を、その反対が真理に近いと確信しているため、真剣には受け入れられないとすれば、どうしてベルクソンの同様の理論、すなわち物理学の世界は生命の自己創造的世界の副産物であるということを受け入れることができるだろうか

これは新しい形の主観的観念論で、ヒューム(1711-1776)がバークリー(1685-1753)の理論について言ったこと、すなわち、その議論は回答の余地はないかもしれないが、確信を齎すものでもないと言わなければならない












2022年12月15日木曜日

コリングウッドによる自然(63): 現代の自然観(5)ベルクソン(2)





これら3つの二元論はそれぞれが万華鏡のようにベルクソン(1859-1941)の哲学になるが、我々の議論のために重要になるのは、物質と生命という宇宙論的二元論である

すでに見たように、生命とはまず何よりも人間の精神を生み出す力であり過程である

それに対する物質とは、それを操作するために精神が現実を考える1つのやり方であるが、この現実は生命そのものである

生命と物質はいかなる意味においても対峙するものなので、生命は物質ではあり得ない

つまり、物質は行動のために有用で必要な知性の産物であり、真なるものではない

従って、物質はベルクソンの宇宙論からは排除され、生命の過程とその産物だけから成る世界が残されたのである

この過程が「創造的進化」とされるものである

作用因なるものは、物質の架空の世界に属するとされて、この過程から追放される

作用因に従って動くものは、単に引っ張られたり押されたりしているだけだが、生命はそこに内在する「エラン・ヴィタル」に従い、それ自身で動くのである

同時に目的因も追放される

なぜなら、目的因の場合、終わりが前もって決められており、その過程の創造性や自発性が否定されるからである

ベルクソンは目的論を逆さまになったメカニズムだと言った

世界の過程は、壮大な即興演奏である

生命の力は、いかなる目的もゴールもその外の導きの光も内なる導きの原理もない

それは、内在する性質が流れることであり、どんな方向にもいつまでも推し進める単なる力である

物質的なものはこの宇宙的な運動の前提ではなく、その産物である

自然の法則はその過程を導く法則ではなく、一時的に採用する輪郭に過ぎない

延長から成る感覚器により感受可能な(perceptible)世界と、その振舞を支配している変わることのない理解可能(intelligible)な法則という古い区別

つまり、古代ギリシアの感受可能な世界と精神による理解が可能な世界との区別が、両者とも進化という過程に組み込まれることにより否定されたのである

進化の過程は、変化するものと、その変化のやはり変化する法則を一度に生み出すのである






2022年12月14日水曜日

コリングウッドによる自然(62): 現代の自然観(4)ベルクソン(1)

































進化の観念が本質的に生物学的なものとして考え出された思考のフェーズは、ベルクソン(1859-1941)の仕事の到達点と見てもよいかもしれない

わたしはここで仕事全体を検討しようとしているのではなく、彼の哲学の生物学的要素の主要な輪郭と他の要素との関連を指摘するだけである

ベルクソンの生命についての思想は、物理学者が理解する物質との相違をしっかり把握することから始まる

物理学者の世界では、起こるすべてのことは既に存在している原因の結果にしか過ぎない

物質とエネルギーは不変なもので、すべての運動はすでに決定され、理論的に計算可能である

すなわち、真に新しいものは存在し得ない

全ての未来の出来事は過去の出来事の中にある

ベルクソンの言葉で言えば « Tout est donné »(すべては与えられている)で、未来の扉は閉じられているのである


反対に生命においては、未来の扉は開け放たれ、変化の過程は創造的で、真に新しいものが現れる

ここに一見すると、「物質」と「生命」という自然における二元論がある

二元論にどう対処するのか

ベルクソンは、それに対して認識論でアプローチする

そこでも彼は「知性」と「直観」という二元論を見出す

知性とは、理性を働かせ、立証し、厳密な概念と共に働き、物質を思い描くための適切な道具である

また直観とは、対象の生命の中に入り込み、運動の中に生命を追跡し、流動的で自己創造的な生命の世界を認識するための適切な道具である

物質と生命に次ぐ、知性と直観という第二の二元論だが、ベルクソンは次のように主張して解決しようとする

人間の精神は自然の進化の産物なので、真理を知るために我々に精神的な能力を自然が与えたと想定する必要がない

実際、知性とは真理を知るための能力などではなく、実践的な能力、自然の流れの中で我々を効果的に行動させる能力、丁度肉屋が動物の肉をさばいたり、建具屋が木材を処理したりするようなものである

ここでベルクソンは、「知識」と「行動」という第三の二元論に頼るのである

すなわち、本質的に直観的なものとされ、生きた対象に自らを浸している意識の働きである「知識」と、操作的なものとされ、対象から離れ、見下ろしている意識の働きである「行動」という二元論である








2022年12月13日火曜日

コリングウッドによる自然(61): 現代の自然観(3)生命という概念(3)

































物質とも精神とも違うものとしての生命という概念が確立されるまでに抵抗がなかったわけではない

それは当然のことだが、デカルト(1596-1650)の実体二元論の遺産から来ている

生命は伝統的に物質の領域に組み込まれているので、生物学的事実を物理学の概念で説明しようという衝動に駆られる

この敵の牙城は、以下のような理論であった

特異的な形の変異は、受精卵において父親と母親の細胞が混ぜ合わせられるという全くの偶然により、あるものはその環境で生きることができるが、他のものはそうはいかないという具合に、いろいろな種類の子孫を生み出す

この理論に基づき、唯物論的遺伝学の立派な構造が生まれたのである

わたしが唯物論的というのは、それが生理的機能をすべて物理化学的構造として説明しようとしているからである

未だ活発なその論争に、今は入ることはできない

なぜなら、この論争は生物学の領域に属するもので、わたしが論じている哲学的問題に影響を及ぼすのは、その論争から離れた含意だけだからである

哲学に基づけば、機械的あるいは化学的とは異なるものとしての生命の過程という概念は定着するところまで来ており、我々の自然の概念に大変革を齎したと言うのは、正当であるとわたしは考えている

多くの著名な生物学者が未だそれを受容していないということは、驚くに当たらない

同様に、16世紀宇宙論の新しい豊穣の要素としてわたしが記載した反アリストテレス物理学は、同時代の著名な科学者により拒絶された

役に立たない衒学者だけではなく、知の向上に重要な寄与をしたような人たちにも受け入れられなかったのである









2022年12月12日月曜日

コリングウッドによる自然(60): 現代の自然観(2)生命という概念(2)
































これらの思索は、全く新しい生成過程の概念に導いた

それまで自然は固定された生命の形を再現するとされていたのに対し、これからは常に新しく改良された形を産生しようとするものと見做されたのである

それは人間の養牛業者のようなものだが、彼らにとっての改良された形とは彼らの目的に沿うもので、牛の利益にかなうとは限らない

つまり、養牛業者の目的が牛に押し付けられるのである

自然が生命の形を改良する場合、自然はその内側から作用する

従って、自然が改良された生命の形を再現するという意味は、生きること、生存に適している形のことである

生命の歴史とは、自然が生命をより効果的に生きるようにする実験の終わりなき繰り返しと考えられる

このような生命の概念は、すでに浸透していた物質と精神の概念と区別することが非常に難しかった

新しい生物学は生命を物質と似ているもの、意識的な目的を完全に欠いたという意味で精神とは似ていないものとして考えた

ダーウィン1809-1882)は選択という言葉や有機的な自然における目的論を含意する言葉を使うことに躊躇しなかったが、自然を意図的に実験したり目的を意識するものとしては一度も考えなかった

彼の生物学の底にある哲学を考え出そうとしたならば、ショーペンハウアー(1788-1860)の意識や道徳的属性を全く欠いた、創造的で指導的な力である盲目の意志の自己表現としての進化というような概念に至っただろう

そのような考えは、ダーウィンの同時代人――例えば、テニスン(1809-1892)――の空気の中に漂っていた

他方、生命は歴史的過程の中で発展し、ランダムではなく一つの決められた方向に向かうという意味で、物質ではなく精神のようなものであるとも考えられた

もし環境が変化したとする

例えば、魚がいる海が徐々に蒸発していく場合、魚はまず泥の中で、そして乾燥した陸地で生息できるように代々適応する術を見つけるだろう

それが安定して来れば、より適応できないものを圧倒していくだろう

この理論は、内在的であり超越的でもある生命力という哲学的概念を含意している

内在的という意味は、これらの有機体の中に具現化されたものとしてだけ存在するからである

そして超越的という意味は、その個体とそれが属する型の生存や永続を実現しようとしているだけではなく、新しい型の中により適した実現を常に試み、それが可能であるからである







2022年12月11日日曜日

穐吉敏子さんとの何度目かの遭遇

























昨日の朝、ピアニストの穐吉敏子さんがテレビのニュースで取り上げられていた

これまでと同様、偶然の出来事であった

1929年12月12日のお生まれなので、明日で93歳ということになる

右目だったと思うが、白内障を患われ失明したとのことだが、今でも演奏活動を続けられている

また、手を手術されていたことも今回初めて知った

同じことを毎日繰り返すという単調なことを続けているうちに、気が付くとこの年になっていたという感じだという

この感覚はわたしの中にあるものと近い

そして、毎日やることがあるのは幸せなのかもしれないとも話していた


幸福については、前回のベルクソンカフェ/カフェフィロPAWLでも取り上げたが、考え出すとなかなか手ごわい問題である

それが何を指しているのか分からないことが殆どだからだ

ということで、次回のカフェ(2023年3月1日)でもその続きをやることにした

興味をお持ちの方の参加をお待ちしております


穐吉さんのことは以前にも取り上げているので、以下に貼り付けておきたい

  Be kind to yourself(2016年4月3日)これはよく読まれた記事にリストアップされている 




穐吉さんのお考えを改めて読み直したところだが、参考になるところが少なくない












2022年12月10日土曜日

コリングウッドによる自然(59): 現代の自然観(1)生命という概念(1)
































今回から、いよいよ現代の自然観に入る

最初のテーマは生命という概念で、まず進化生物学が論じられる

気分も新たに早速始めたい



ヘーゲル1770-1831)の時代から進化という概念は二つのフェーズを通り過ぎた

一つは生物学的フェーズで、二つ目が宇宙論的フェーズである

生物学的フェーズは、自然の一般理論との関連で極めて重要である

なぜなら、デカルト1596-1650)の物質と精神の二元論をその間に生命という第三項を入れることにより最終的に解体したのがこの思想の運動だったからである

19世紀の科学研究は、物質の科学である物理学と精神の科学から独立した生物学研究の自律性を確立することに向けられた

古代や中世の宇宙論では、物質、生命、精神は融合しており、識別するのが難しかった

延長としての世界は物質的なものと見做され、動くものは生きているものとして、秩序だったものは知的なものとして見られた

16世紀と17世紀の思想は魂を世界から追い出し、死んでいる物質の秩序だった運動を考えることにより近代物理学を作り出した

そこには生きたものの運動との対比が暗黙の了解としてはあったのだが、近代の生物学はまだ生まれておらず、デカルトも動物を自動機械として考えようとしていた

ヘーゲルでさえ、自身の宇宙論を自然の理論と精神の理論に分け、生物学はまだ独自の領域にはなっていなかったのである


19世紀の生物学が勃興する前、生物における生成の過程は、親の特徴的な形が子供に再現されることであると考えられていた

それが正確に行われなかった時には逸脱や失敗と見做されたのである

当時、生物は安定しており、異常が出現しても生き延びられないか、子供を作ることができないと思われていた

しかし、18世紀の古生物学者の研究によれば、この見方は最早有効ではないことが示されていた

実際に地質学の研究が、昔の動物相、植物相と今のものが大きく異なっていることを明らかにすることになる

つまり、歴史が流れると、生物の形は変化すると考えざるを得なくなる

人類の歴史を顧みても、政治的、社会的組織は同様の進化を経ていることが分かる

この仮説は、主にダーウィン(1809-1882)による家畜の交配研究により実証された











2022年12月9日金曜日

コリングウッドによる自然(58): ヘーゲル(13)

































ここで再び、ヘーゲル1770-1831)の自然哲学(Naturphilosophie)の不完全さ、すなわち論理的基盤における解消されていない矛盾を見る

彼は何をやっていたのか

自然科学者が実際にやり、信じていたことを哲学的に説明しようとしていたのか

つまり、彼の自然哲学は自然科学者が知っていることをどのように知ることになったのかという問いに答える試みなのか

あるいは、自然科学者がすでに成し遂げた結果の後ろに回り、伝統的な自然科学の方法ではなく、彼自身の哲学的方法で異なる結果を得ようとしていたのか

彼はこの両方をやったことで非難された

その都度、他のことをやるべきだったという理由で

確かに、彼は両方をやっていた

まず、同時代の自然科学を暫定的に受け入れることにより始めたのだが、その状態に満足できず、彼が考えるあるべき科学の姿に改良しようとした

そのことで彼は正当とは言えない厳しい批判に晒されたのである

それは科学が出したものを「科学的」すなわち侵すべからざるものとして放っておけばよいところを、それらを受け入れず批判したためであった



ヘーゲルは、同時代の科学と彼自身の方法で得た結果との統合、機械としての自然と過程が浸透している自然という概念の統合を何とか齎そうとしていた

統合が必要だと彼が考えたことは間違っていなかった

ただ、彼が辿り着いた統合が正しかったと言っているのではない

わたしが言っているのは、彼は急いでおり、自然科学は都合の良い時に自分のやり方で解決しなければならないということを見ず、自然科学の問題を哲学で解決しようとしたということである

彼は、科学の将来の発展でしかないようなことも哲学で先取りしようとした

そして、彼の予想は多くの点で驚く程正確であったことが分かる

しかし、科学的思考には先取りの場所はない

科学的思考は科学が成し遂げた結果を尊重するだけなのである


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これでヘーゲルのセクションを終えたことになる

なぜか分からないが、非常に長く感じた

と同時に、科学と哲学との関係に悩み、奮闘していた姿も垣間見ることができた

その意味では、これまで殆ど関係ないと思っていた一人の哲学者が、近くに寄ってきたように感じられる

それはカント1724-1804)についても言えるだろう

これから先は、よりは身近な現代的テーマが現れることを期待したい








2022年12月8日木曜日

コリングウッドによる自然(57): ヘーゲル(12)





ある点では、蕾から葉への過程と自然から精神への過程の対応関係は不完全である

蕾から葉への過程は自然の中で起こるので、時間の中でのことである

それに対して自然から精神への移行は自然の中でのことではないので、時間の外にあり、イデアの世界のもの、あるいは論理的なものである

ヘーゲル1770-1831)によれば、全ての自然が精神に変わってしまえば、時間はなくなる

逆に、自然が精神に変わることがなかった時はなかったのである

精神は常に自然から成長するし、これまでもしてきた


ヘーゲルの宇宙論が今日出回っている多くのものと明確に異なっているところに我々は導かれる

それは時間の意味に関係することである

現代の宇宙論は一般的に進化の概念に基づいている

一つの種の発展は時間の中での発展として見るだけではなく、自然からの精神の発展も時間の中での発展として見るのである

この種の見方はヘーゲルの時代にも徹底的に議論されていたが、彼はそれについて考えた末にそれを捨てたのである

全ての実在は層構造をしていると、ヘーゲルは言う

それは、低い感覚の層と高い知性の層がある精神についても、無機的で生命のない層と有機的で生きている層がある自然についても当て嵌まる

自然においては、生きているものと死んでいるものが相互に浸透することなく、それぞれの外に別物として存在しなければならない

自然においては、時間的な移行はなく、論理的な移行だけが存在する

それでは、なぜヘーゲルはこの立場を採ったのだろうか

それは、彼の時代の物理学によって考えられている純粋に死んでいる機械的な物質の世界は、物質を空間の中で再配置することしかできないのだが、それをやっても生命を生み出すことはできないと考えたからである

死せるものとは質的に異なる生きるものの中で作動している新しい組織化の原理がある筈である

物理学者が死せるものの概念に満足している限り、進化の理論を受け入れることができないのである















2022年12月7日水曜日

コリングウッドによる自然(56): ヘーゲル(11)


































自然=精神だからといって、我々が自然を考える時に精神を思い描く必要はない

あるいは、自然は精神が存在しなければ存在できないようなものでもない

ただ、自然は真の過程の一つの相であり、それが精神の存在に導くということである

ヘーゲル1770-1831)にとっての自然は、バークリー1685-1753)やカント1724-1804)にとってと同様、一つの抽象であるが、それは真の抽象であり、精神による抽象ではない

真の抽象とわたしが言うのは、実在する過程の実在する一つの相のことで、それが導く次なる相のことではない

従って、葉芽の成長は実際に起こっている過程で、葉が完全に形成される前に起こることである

蕾と葉が別々にあることは精神が作り上げたフィクションではない

蕾は葉とは異なる特徴を持っているが、葉になるようにしており、それが蕾の本質である

つまり、蕾と葉は一つの過程の異なる相を形成している

自然による抽象は、連続する相を通して行われているのである

ヘーゲルにとって全体としての自然が精神を含意しているということは、丁度蕾が葉を含意していると言うのと同じである

自然はまずそれ自身でなければならない

従って、自然の概念は真であり、錯覚ではない

しかし、暫定的にそれ自身であるのであって、自然はそれ自身であることを止め、精神になる

丁度、蕾がそれ自身であることを止め、葉になるように

蕾の全過程における暫定的な性質は、論理的には自己矛盾になる

そう在ることと成ることとの間の矛盾である

この矛盾は植物学者の誤りではなく、実在に内在する特徴なのである










2022年12月6日火曜日

コリングウッドによる自然(55): ヘーゲル(10)






























ヘーゲル1770-1831)は、空虚な空間と時間を自然における基本的なものとするという点で、カント1724-1804)とニュートン1642-1727)、デカルト1596-1650)とガリレオ1564-1642)に続いた

ヘーゲルは、自然に浸透する運動を、プラトン427 BC-347 BC)やアリストテレス384 BC-322 BC)のやり方で、さらに基本的な何か――それは論理的な過程なのだが――を時間と空間に翻訳することであると理解した

しかし彼は、このように時空に広がる自然というものを真剣に捉えるとすれば、いかなる自然の事物や過程も時間と空間の中には居場所がないという結論に至ることも見ていた

従って、空間に存在し、時間の中で起こるという考え自体が自己矛盾する考えになるのである

この状況においてヘーゲルがすべきことは何なのか

ある哲学者は、自己矛盾するものを見つけた時には、それは見かけであり実体ではないと言い張る

しかし、ヘーゲルには逃避の方法がない

なぜなら、彼は知の理論において超実在論者であり、現れたものは何でも実体であると考えるのである

自然が確かに我々に現れる

我々の感覚に現れるように見えるが、カントが示したように、それは我々の感覚ではなく我々の想像の中に現れ、科学者の思考に理解可能な形で現れる

従って、それは実在するのである

しかしヘーゲルによれば、その中にある矛盾が、それは完璧ではないことを証明している

それは何か他のものに変化することに関わっている何かなのである

自然が向かう他のものとは、精神である

従って、ヘーゲルにとっての自然とは精神であると言えるだろう








2022年12月5日月曜日

コリングウッドによる自然(54): ヘーゲル(9)




























予想よりも早くゲラが届いた

今週はその校正に使われることになる

当初のように、横書きが縦書きになっていることに新鮮な驚きを感じることもなくなっている

先日、参考文献について触れたが、本文中の数字はわたしの目には見えない大きさなので、気にすることなく読み進むことができるのではないだろうか

さて、本日もコリングウッド(1889-1943)によるヘーゲル(1770-1831)である



ヘーゲルは古代ギリシアを崇拝し、その芸術、文学、思想を熱心に研究したドイツ人世代に属している

ヘーゲルの自然哲学の有機体論や反機械論は、古代ギリシアの思想から拝借することにより18世紀の未解決問題が解決された哲学であると安易に記述されるかもしれない

わたしが安易にと言うのは、このような記述方法が影響とか借用について語られる表面的な歴史の特徴的なものだからである

このような安易なフォルミュールに満足しない思想史家は、ヘーゲルが18世紀の思想の隙間をプラトン(427 BC-347 BC)やアリストテレス(384 BC-322 BC)のパテで埋めたとは見ないだろう

寧ろ、自身の自発的な発展により、18世紀の思想が十分に成熟したため、プラトンやアリストテレスを理解できるようになり、その結果、自身の問題を彼らが議論していた問題と結び付ける地点にヘーゲルを見るだろう

しかし、ギリシアの観念との接触があったため、ヘーゲルは自分の世代の実践生活との接触を失ったのである

ヘーゲルは革命的であった

彼の自然観は、意識的に科学研究の正しいやり方についての革命的結論に至った

彼はガリレオ(1564-1642)から直接アインシュタイン(1879-1955)に行きたがったのである

しかし彼は、ニュートンにとって良いことは将来のすべての世代に良いと主張する反革命の世代に生きていた

ヘーゲルと彼の同時代人との論争は、彼の思想における不一致から生じたものであった












2022年12月4日日曜日

コリングウッドによる自然(53): ヘーゲル(8)



































ヘーゲル(1770-1831)によれば、自然の観念はこのように分散し、時空間に分布する二重にばらばらにされた実体の観念である

この特徴は全体としての自然の観念だけではなく、自然の中のいかなるものの観念にも影響を与える

物質的な物体の観念は、空間に分布する多くの粒子の観念であり、生命の観念は時間の中に分布する多くの特徴の観念である

そのため、物体の観念が局所的にでも実現されたり、生命のすべての特徴が現実となる時はない

物体がここにあるとか、今この瞬間わたしは生きていると言うことができないのである

たとえ「ここ」を一立方フィートとし、「今」を80年だとしても、物体の存在がその領域に含まれ、80年の中にその有機体が存在しているとは言えない

このように考えると、ホワイトヘッド(1861-1947)が再発見し、我々の時代に広めた概念に辿り着く

それは、世界に存在するそれぞれの物質は、ここやあそこに局在しているのではなく、どこにでも存在するということである

この概念は現代物理学にとって驚くべきことではなく、現代の宇宙論についての注目すべき事実なのである

それは現代の物理科学が物質とエネルギーについての見方に辿り着いたもので、自然に関するヘーゲルの理論が意味するところと合致している

ホワイトヘッドのような哲学者であり科学者が、ヘーゲルの理論をそうとは知らずに(なぜなら彼がヘーゲルを読んだようには見えないないからである)復唱したのである

しかし、ホワイトヘッドに可能であったことはヘーゲルには不可能であった

なぜなら、ヘーゲルの時代の物理学はニュートン(1642-1727)とガリレオ(1564-1642)のもので、空間にものが「ただ置かれている」(ホワイトヘッドによれば)と見做す物理学だったからである

従って、ヘーゲルの自然に関する理論は二元論によって引き裂かれ、結局はばらばらにされる

一方に、17世紀から受け継いだ自然は機械だとする前提がある

そして他方には、自然は単なる機械ではあり得ず、全ての実体には過程と活動が浸透していなければならないという彼自身の思想の宇宙論的な含意がある

なぜなら、自然にはそれ自身から論理的な必然性により、生命と精神を進化させる力が具わっているからである











2022年12月3日土曜日

Youtube Music からのまとめ
































師走である

今まで受け取ったことはなかったが、Youtube Music から1年のハイライトが届いた

それによれば、よく聴いたアーティストのベストスリーは以下のようになっていた





バッハは分かるが、それ以外は意外であった

因みに、最も再生されたトラックは、ラファウ・ブレハッチの「パルティータ 第3番イ短調 BWV 827: Gigue」であった

おそらく、携帯で流しっぱなしにしていたものの中に多かったということなのだろう

改めて聴いてみることにしたい














2022年12月2日金曜日

ゲオルク・ジンメルの言葉



















今日は、ゲオルク・ジンメル(1858-1918)の言葉から


高い精神的な関心に生きることは、老人になった時の耐えがたい退屈と生活の倦怠とに対して私たちを守り得る唯一のものである。何によらず、低いもの、日常的なもの、感覚的なものは、何十年も繰り返していると、甚だ索漠たるものになってしまうからである。真に精神から生れ、精神に生きることは、その直接の質的な価値を全く離れても、変転及び無尽という価値を持っている。精神的な事柄に素質のある高い人間でも、永い年月を低い領域に過ごすことがある――しかし、やがて、その単調に気づき、外面的なものや感覚的なものの根本にある驚くべき変化の乏しさに気づく。それを知ると、彼は絶望に陥らずにいられないが、永らえて、なお絶望を防いでくれるのは、真に精神的な人間の内部の測るべからざる内容と自ら生じ来る不断の変遷とだけである。

(清水幾太郎訳)






2022年12月1日木曜日

コリングウッドによる自然(52): ヘーゲル(7)



























ヘーゲル(1770-1831)が自然の過程を指示する概念や形相をどう考えるのかは、プラトン(427 BC-347 BC)があらゆる形相を考えたやり方と平行している

例えば、プラトンは理想的な国家の概念は、いかなる現実の国家でも実現されないとしている

なぜなら、人間の精神はその概念を完璧に実現することができないからである

形相が人間精神にはできないことを課しているのである

しかし、ヘーゲルはなぜ、自然の形相がこのような奇妙な特徴を持つと考えなければならなかったのだろうか

答えるためには、我々は形相と観念、形相と精神を分けている特異性を問わなければならない

ヘーゲルの回答は、自然は本質的に外部の実在、外的世界だというものである

ここで言う外部とは、我々にとっての外部ではない

自然は我々にとって外部にあるものではない

我々の体の外にあるものではない

逆に、我々の体は自然の部分なのである

また自然は、我々の精神の外にあるものでもない

なぜなら、両者が空間に位置するのでなければ、一方が他方の外に位置することはあり得ないからである

体ではない我々の精神は空間には存在しない

自然を外的世界と呼ぶことが意味することは、それが外部性に特徴付けられた世界、すべてが他のすべての外に在る世界だということである

つまり、自然はものがそれぞれの外に在る世界である

これには2つの形がある

1つは、すべてのものが他のすべてのものの外に在る、すなわち空間

もう1つは、一つのものがそれ自身の外に在る、すなわち時間

一つのものが時間の中でそれ自身の外に在るというのは、その概念を実現するのが時間の中に広がっているということである

例えば、拡張し収縮するのが心臓の性質である

この2つの過程は論理ではなく自然の過程なので、一方からもう一つの相に移行するのは時間の中である

それぞれを虫食い状に行うのである