2021年10月22日金曜日

コンシュ「哲学者になる」(7)
























哲学は現実の全体――それは無限である――についての真理を探究する。

なぜなら、それを制限するものは他に何もないからである。

もし、ある宗教の信者である哲学者が真理を得たとすれば、彼は真理を探求しないだろう。

哲学者は自分が持っていないもの、欠けているものを探求するからである。

そこから彼は、自分の限界、有限性(もし自分が死ぬことを知っていることを加えるとすれば、有限であるという事実)に気付いている。

これは「それ自体に無限の否定が含まれている」(デカルト)。

自分自身の思考は無限の否定を包み込み、そのため「わたしはある意味で最初に無限の概念を持ち、有限の概念を持つのである。」(デカルト)。

この無限をデカルトは「神」と名付けた。

スピノザも同じだが、彼は "sive natura"(すなわち自然)と付け加えたのである。

わたしも同じようにする。

世界は我々がいる住まいである。

しかし、この住いの限界はどこに設定されているのか。

どこで世界は終わるのか。

我々を囲っている住まいはそれ自体がより広い住まいによって囲まれている。

エピクロスは「我々の」世界を星で止めている。

しかし今日、我々が見ている星は銀河系では取るに足らないもののようであり、銀河系は・・・

デカルトは、世界は無限ではなく、不確定なものに過ぎないと言った。

従って、無限が有限とは別物であるように、神すなわち自然は世界と別物なのである。


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じっくり読まなければ分からないところだった

まず、現実の全体の真理を求めるのが哲学である規定し、その全体の捉え方の違いをデカルトとスピノザに見ている

デカルトは世界の全体を不確定なものとしたが、それはいずれその全体を確定できると考えていることが含意されている

これに対して、スピノザは「神即自然」を全体としたが、それはデカルトが言う「世界」を超えているとコンシュさんは考えているため、両者は別物であると結論したのではないだろうか

つまり、スピノザの方がより大きな全体――おそらく永遠に捉えることができない――を相手にしていると考えているようなのだが、、









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