2017年9月1日金曜日

中村雄二郎氏亡くなる



哲学者の中村雄二郎氏が8月26日に亡くなったというニュースを目にした
以前に触れたことがあると思い調べてみると、こちらに来た当初のブログにいくつか記事があった
殆ど忘れていたものである
残念ながら、今読んでも殆ど感じない
現在の感受性や問題意識が当時とは変わってしまったということなのだろう
いまの感受性や意識は、このような経験を経て出来上がったものだと思いたい
それにしても、当時は長々と書いていたことに驚く
それだけ熱があったということか
以下に転載したい




2007年 10月 22日 
日本では哲学は不可能か

昨日、残りの荷をすべて解いた。予想外に早く済ませることができ、すっきりしている。一気にやるのではなく、出てきたメモや本を読みながらだったからできたのだろう。その中で興味を惹いた一冊があった。

 中村雄二郎著 『哲学の五十年』 (青土社、1999年11月15日出版)

今日のお題になった言葉がその帯にあったからだろう。購入日を見てみると1999年10月23日となっているのでもう8年も前である。日付から見ると、出てすぐに本屋に積まれているものを買ってきたものと思われる。読んだ記憶はない。ページを開いてみると四分の一くらいには目を通していた形跡が見つかった。線を引いてあったり、書き込みが見つかったからだ。改めて読んで見ると、哲学に対する捉え方に通じるものがある。著者は哲学の三つの要素として、第一に好奇心、第二にドラマ (これは生き様ということになるのか)、そして第三はリズムだとしている。 最後のリズムについては、空海も 「五大にみな響きあり」 と言っているようだ。五大とは、地・水・火・風・空の五大要素のこと。この宇宙のすべてにリズムがあり、それらが響きあっている。そこに身を晒して感じ取りなさいとでも言いたいのだろうか。空海はさらに識 (知ること) を加えて六大にしたという。この壮大な頭の中をいずれ歩いてみなければならないだろう。

中村氏は大学を出た後、5年ほど文化放送に勤務。この経験がその後の歩みによい効果を及ぼしたと考えている。5年では短すぎるのではないかとも思えるが、まさに primum vivere deinde philosophari (生きた後に哲学を) なのだろう。どうもこれは真実のようだ。ところでこのラテン語、以前とはほんの少し違って親しみを持って読むことができる。ラテン語コースの効果だろうか。

以下に下線を引いてあった部分から。

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 1901年に中江兆民が書いた『一年有半』 (喉頭がんで余命1年余りという宣告を受けた病床で書かれた二十世紀への遺書ともいうべき書:p-p注) のなかの 「日本に哲学なし」 ですが、彼は、こういうことを言っています。「我日本古より今に至る迄哲学無し」。本居宣長平田篤胤のような国学者はいた。しかし、これらの人びとは単なる 「考古家」 ― 古いことを調べている人たち― であって、哲学者ではない。また、たしかに、伊藤仁斎荻生徂徠などは儒書に即して新説を生み出したが、彼らは儒学者つまり一種の道徳家にすぎない。哲学というのは単に道徳論や倫理学にとどまるものではない。

 さて次に、これは東京大学に大いに関係するのですが、明治以後になると、西洋の哲学を導入した加藤弘之井上哲次郎がいます。しかし、兆民によれば、彼らはみずから 「哲学家」 を標榜しているが、実はただ西洋の学説をあれこれと 「輸入」 して折衷しただけのことで、「哲学者と称するに足ら」 ない。

 兆民に言わせると、哲学というものは決して抽象的なものではない。一見、「貿易の順逆」 (入超と出超)、「金融の緩慢」、「工商業の振不振等」 とは何ら関係ないように見える。だが、哲学は 「無用の用」 をなすものと言うべく、「哲学無き人民は、何事を為すも深遠の意なくして、浅薄を免れ」 ない。

 このように言ってから、兆民は 「総ての病根此に在り」 として、次のように述べています。われわれ日本人は世界各国の国民と比較してみてもものわかりがよく、時の流れによく順応して、「頑固」 なところがない。西洋諸国のような 「悲惨にして愚冥」 な宗教上の争いがなかったのもそのためだし、明治維新がほとんど血を流さずに行われたのもそのためである。また、旧来の風習を洋風に一変して顧みないのもそのためである。しかし 「其浮躁軽薄の大病根」 も、まさにそこにある。「其独造の哲学無く、政治に於いて主義無く、党争に於て継続無」 い原因も、そこにある。だから 「一種小怜悧、小巧智」 であって 「偉業」 を立てるには不適当である。― こういうことばを聞いていると、つくづく、今もあまり変わっていないという気がします。

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この問題は、古代ギリシャに立ち返らなければ見えてこないかもしれない。なぜギリシャで哲学が、そして科学が人類の精神に舞い降り、日本ではそれが起こらなかったのか。これが問になるべきなのだろう。




2010年 09月 12日 
中村雄二郎による吉田健一の言葉

哲学者の中村雄二郎さんが吉田健一氏の「言ふことがあることに就いて」というエッセイについて書いている。その中にあった「自分を動かす言葉を探す」という言葉に共振。以下にそのあたりを。

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 さて、そのためになにか自己主張が必要になり、明治以後の日本では小説まで含めて自己主張の強い文章が大勢になった。と同時に、本来その必要のない日本語の文章で一人称単数の代名詞が頻繁に使われるようになり、<自我>や<自己意識>が西洋にも見られないほど特別視された。あのルソーの『告白』にしても、実は≪誰についてだろうと公表する価値のないことを自分に就いて公表するといふ≫ことをしたにすぎなかったというのに。

 それに西欧では、≪書くのが主張することでもある≫場合にも、その<主張>の意味が違っている。たとえばF・ベーコンの『ノ―ヴム・オルガーヌム』での<帰納法>の主張がそうである。それは、≪その論に接するものの共感を得るやうに言葉で或る一つのものを築いて行くこと≫であった。あることを適切に述べさえすれば、当然説得力を持つのである。≪これは我々が人よりも自己自身を動かす言葉を探すことによってしか言葉を有効に用ゐることが出来ない≫ことからもわかる。つまり、自分を動かす言葉を発見することが他人の共感をうる所以なのだ、と吉田さんは言っている。

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 ≪我々に言ふことがあるのがどういふことなのか言ふまで正確にわからない。・・・・言葉を得て我々に言ふことがあったといふのがどういふことだつたのか解る。≫

 ≪我々に言ふことがあるのであるよりも寧ろ自分が探して得た言葉でも言葉に動かされることを我々が求めるのである。その動かされるといふのは要するに働きかけられることであつて我々が或ることをその通りと認めるのもその言葉があつてのことである。≫

 ≪言葉そのものが動くのである。それは次の言葉を求めてであつて論理がその次に来てはならない言葉を我々に教へてもそこに来なければならない言葉を得るには我々は再び闇に目を向ける他ない。・・・・それは生命の意識でもある。≫

 ≪我々は言ふことがあるのではなくて言葉に教へられることを求めて言葉を探す。≫

 ≪我々に言ふことがあるのではない。我々が望むのは言葉に触れて生きる思ひをすることなのである。≫

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中村雄二郎 『哲学の五十年』 (青土社、1999年)より




2010年 10月 17日 
『知の旅への誘い』 を読む、そしてカルロ・ギンズブルグさんが飛び出す  

静かな週末。
久しぶりに日本語の本が読みたくなり、昨年日本で手に入れた30年前の岩波新書を読む。

 中村雄二郎、山口 昌男著 『知の旅への誘い』 (1981年:定価380円、古本屋で100円)

途中ページを折っているところがあるのでおかしいなとは思って最後を見ると、昨年読了のメモが。
確実に何かが進行中である。
印象に残ることのない本だったようで途中で止めようかとも思ったが、読み続けた。
記憶に残るような作業をしておかないとすぐに消え去るようなので、今回書き留めることにした。

専門化の著しい時代、その中に閉じ籠って安住したり、失敗を恐れ冒険や挑戦を行なわなかったり、権威に寄り添い自らの目で現実を見ようとしなかったり、客観性の名の下に自らの責任を回避しようとしたりすることが横行しているようである。学問が本来持っている自らを超えて行く力や自由でのびやかなものが失われているように見える。このような背景の下、知の営みの元にあるはずの日常の惰性を超えた生き生きとした生は冒険を含んだ旅に似ていると考えたお二人が、知と旅を重ね合わせて振り返ろうとしたのがこの本になったようだ。

中村、山口の両氏がそれぞれ前半と後半を担当している。
以下、ページが折られていたところから。

前半部(中村雄二郎氏執筆)
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 すなわち、ひとは情念(情熱)の悪い面ばかりを見て、むやみに情念を排斥する。しかし情念は、一方であらゆる苦悩の源であるだけでなく、同時に他方では、あらゆる喜びの源泉でもある。偉大な情念によってはじめて、人間の魂は偉大なものごとに到達しうるのだ。これに反して控え目な感情は凡庸な人間をつくり、弱々しい感情は最もすぐれた人間をも台なしにしてしまう。「控え目にばかりしていると、自然の偉大さとエネルギーが失われる。樹木を見るがいい。豊かに葉を繁らせているそのおかげで、諸君たちは爽やかに拡がった木陰をうることができ、冬がやってきてその繁った葉がなくなるまで木陰を愉しむことができる。およそ誰でも、小心翼々として生き、気持ちが老いこんでしまうと、もはや詩作にも絵画にも音楽にも、すぐれた仕事ができなくなるのだ。」もっともディドロは、このような主張の前提として、「感情のうちに正しい調和が確立されている限りのことだが」と述べることを忘れてはいない。

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 仏僧として説法・修行のために日本全国各地をめぐり歩いた智真房一遍は、<遊行上人>の名でよく知られているけれども、また他方では<捨聖>とも呼ばれている。説法・修行の旅が、同時にまた、捨てる旅、つまりこの世の人情を捨て、縁を捨て、家を捨て、郷里を捨て、名誉財産を捨て、己れを捨てという具合に、一切の執着を捨てるための旅だったからである。捨てることに徹底した旅だったからである。まさしく捨てることと旅とがもっともよく結びついたのが一遍上人の場合であった。果ては、捨てることへのこだわりそのものも捨てられなければらなないことになった。

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 まことに記憶と共通感覚との後退・軽視は、近代世界に、また<近代の知>に顕著にみられた特徴である。だがそうだとすれば、それにかわってはなにがあらわれたのだろうか。そこにあらわれたのは、ほかならぬ方法と分析的理性であった。・・・このうち、いまここでふれておきたいのは、<記憶>といわば入れかわった<方法>についてである。・・・

 もともと<方法>の意識には、すべてのもの、とくに過去や記憶にまつわるものを疑って、ゼロから再出発する姿勢があった。すなわち近代のはじめに、人々は歴史や伝統の束縛や重圧からのがれるために、また共同体から個人が独立するために、記憶や習慣による過去とのつながりを断ち切る必要があった。そこで要請されたのが、デカルト的な意味での<方法>であった。<方法>とは、記憶や習慣によらずひたすら理性によって人々を真理へと導くものでなければならなかった。そして<方法>はこのようなものとして、数学的な演繹やテクノロジーと結びついて、近代科学を飛躍的に発達させた。

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(以下省略)







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