2017年9月3日日曜日

第1回パリカフェ、無事に開催される

         会終了後、参加者と共に


昨日は、パリのカルチエ・ラタンで第1回のパリカフェが開催された
建物内は土曜ということもあり、貸し切り状態であった
実は、開催までに想定外のことが起こった
まず、前日と当日にかけて参加予定者が急用や体調不良で次々に参加できなくなったこと
それから、コンセントの変換プラグを忘れ、バッテリーを心配しながらの会となったこと 
しかし、最後には開催条件をクリアでき、バッテリーも終わるまで切れることはなかった
まさに奇跡の船出となった
これは何かの徴ではなかったのかという声も聞こえた

テーマは「科学と哲学の関係を考える」とした
これまでにいろいろなところで話した内容を現在の視点で纏めた最新版ということになる
最初にサイファイ研究所ISHEのミッションや活動を紹介
その後で、このようなカフェの特徴を "collaborative effort to pursue truth" と考えてはどうかと提示
ここで言う「真理」は絶対的なものではなく、各自の「わたしの真理」でよいのではないだろうか
そういうものが見つかれば、あるいはその切っ掛けが得られれば良いだろう

それから、最近興味が湧いている思考や意識や瞑想の問題についても最初に触れた
これは何をする上でも重要になると考えたからだ
この内容はまさに「わたしの発見」になり、頭を整理する上で非常に役立っている
このような話をしたためか、宗教的な香りがするという声もあったが、宗教とは直接の関係はない

科学と哲学を定義することは、殆ど不可能に近い
ただ、根本的な違いだと指摘されている中に興味を持ったものがある
一つは、哲学は解決済みの問題についての科学だ、という見方である
科学では解決された問題について扱うことはまずない
しかし、哲学ではそこに常にある問題について考えて良いことになる
哲学には科学で言われているような進歩はなく、絶対的な解もないということになるのだろう
もう一つは、科学には証明が求められるが、哲学には実証は要求されない
哲学に要求されるのは、論理性に基づいて得られた信念だという見方がある

この二つの例に現れる違いは、人間に可能な思考の様式には異なるものがあることを示している
科学を経由してきた者として、科学の思考だけでは見えないものがあるのではないかと感じている
あるいは、自然を捉える時の豊かさが失われているのではないかとも言える
これからあるべき両者の関係は、科学の方が哲学を見直し、取り入れることではないだろうか
それをどのような形で行うのかは、これからの試行錯誤が必要になりそうである

これに関連する議論は懇親の会でも活発に行われていた
これは当然のことだが、人数が少ないとこちらが話す時間が増えるということにも気付いた
ということで、充実した会になった
個人的には、フランスでカフェをやるということで、頭の中の風通しがよくなったように感じている
世界が広がったという感覚だろうか
次回はフランス語でという声も聞こえていたが、そうなれば内的空間はさらに広がるように思う
ただ、参加される方のご迷惑になるかもしれないのだが、、
最後に、週末のお忙しい中参加された皆様に改めて感謝したい


会のまとめ




samedi 9 septembre 2017

上の記事にある「わたしの真理」という表現について、コメントが届いた
「わたしの」とした場合、相対主義に結びつく危険性があるのではないかというものだ
誤解を避ける意味で、言葉の中身をもう少しエラボレートしておきたい

真理という言葉は科学でも使われるが、それはあくまでも仮のものとして考えられている
その仮のもの繋いでいくと最後には本当の真理に辿り着くという仮定がある
他方、真正の真理に近くはなるが、永遠にそこには辿り着かないという考えもある
これは科学の限界ではあるが、いまのところ最も優れた方法であると考えられている所以である

その上で、絶対的真理を考えると、一時的である科学的真理を超えるものになるはずである
すなわち、それは科学を超える領域にしか存在しないことになる
絶対的真理は哲学、形而上学の領域にしか存在しないのではないだろうか
もしそうだとすれば、哲学者や形而上学者の使命は絶対的真理を求めることになるはずである
それが可能なのかどうかは別にして、そこに向かい、その景色を見てみたいという気持ちはある
勿論、絶対などという問題には関わらないという立場もあり得るだろう

それでは、絶対的真理に辿り着くにはどのような方法があるのだろうか?
一つのやり方として、まず科学的な真理、ある状況における真理を集めることが挙げられる
その仮の真理を集めた後に絶対に向けて飛翔することができる時期が来ると想像している
その時の飛翔の方法となるのが、形而上学の方法論の一つでもある瞑想である
そこで得られたものを論理性を基準にして再検討するという作業が繰り返されるだろう
そして、絶対的真理の判断の基準になるのは、形而上学の蓄積の総体の抽出物になるのだろうか
まだ、歩み始めたばかりなので、今のところ、このようなスキームを描いている

さて、上の記事に言う「わたしの真理」が相対主義に結び付くのかどうかという問題である
真理を各個人が自分の独断で決めるとすれば、その危険性もあるだろう
しかし、わたしの意図は上のスキームの中にある
すなわち、ここで言う「わたしの真理」は最初に集めるべき「ある状況における真理」を意味していた
それは科学的真理に近いもので、個人の真理観に基づいて作られたものではない
したがって、相対主義の危険性は極めて小さいと考えている
寧ろ、絶対的真理に至る一ステップを構成するものと言えるだろう
勿論、上のスキームで絶対的真理に到達できるとした場合の話ではあるのだが、、
ただ、そうでない場合でも、「わたしの真理」の集積は無駄ではないだろう
いろいろな局面で重要な役割を果たすはずである

このステップをパリカフェでも行うことができれば素晴らしいというのが、上の表現の意図であった
勿論、他のカフェやフォーラムについても同様であることは言うまでもない








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