2018年1月22日月曜日

西部邁氏と意識の第三層



本日も朝から雨
この週末も曇り時々雨で外に出る気にはならず、籠ってゲラ読みを続ける
第4章までの70ページほどを終えることができた
そこで気づいたのは、そこにあるのがかなり昔に訳したもののように感じられることである
今月初めに見直しが終わったにもかかわらずである
さらに言えば、それは自分が訳したもののようには見えなくなっている
これは想像していなかったことである


この週末には西部邁氏が亡くなったというニュースも目にした
科学者をしている間は名前だけは存じていたが、どういう考えの持ち主かは知らなかった
興味が湧かなかったということだったのだろう
そしてこちらに来て暇を持て余している時、その主張が耳に入ってきた
言いたいところはよく分かるというのが最初の感想であった

最近、啓蒙主義と反啓蒙主義についてエッセイで取り上げた
その分類で行けば後者に属する考え方を主張していたことになる
科学や進歩に不信感を持つ考え方である
その背景にある「もの・こと」に対する態度で気付いたことがある
それは、わたしが言う「意識の三層構造」と第三層の重要性との関連でのことである

第一層は日常生活で使われる意識で、第二層は専門領域の思考が行われるところである
それに対する第三層は、第一・二層以外の思考が行われる領域である
そこで対象になるのは、人間そのものと言ってもよいだろう
そこで行われるのは歴史、文学、哲学などへの参照である
この第三層における思考が「もの・こと」の深い理解にとって重要になるはずである
しかし、科学技術が優勢な近現代においては、それが無視されるようになっている
殆どの思考が第二層止まりなのだが、そのことに気付けない
第三層が萎縮しているからである
真の意味での思考が行われない世界になっているのである

言い方は異っているが、西部氏の主張はわたしのものと重なることが見えてくる
つまり、第三層を使って「もの・こと」に当たりなさいということである
過去を参照した上で、「いま・ここ」を見なさいということである





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