2018年4月18日水曜日

第2回パリカフェ中止のお知らせ



以下の要領で開催を予定していました第2回パリカフェですが、
会場のビルが当日閉鎖されるとの連絡が入り、
やむなく中止することにいたしました。
ご理解のほど、よろしくお願いいたします。

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第2回パリカフェのご案内
ポスター

日 時: 2018年4月21日(土)16h~18h

「最小の認識を考える」
 « Penser le problème de la cognition minimale »

今回はミニマル・コグニション(minimal cognition)という問題について考えます。これは認識を構成する最小要素は何なのかという問いに関わるもので、最初の認識能が進化のどのレベルで現れるのかという問題でもあります。この問いに対して、研究者や哲学者はいろいろな基準を出しています。しかし、それぞれの基準の枠内では認識能を有する生物とそうでないものとの境界は比較的明瞭ですが、どの基準を採用すべきなのかというコンセンサスがないように見えます。この問題をどのように考えるべきなのかについて講師が概説した後、議論を展開していただきます。今回、パスツール研究所のマルク・ダエロン博士(元免疫部長)にも議論に加わっていただくことになりました。この問題に興味をお持ちの方の参加をお待ちしております。

Nous allons discuter du problème de la cognition minimale (minimal cognition), qui concerne les exigences minimales pour la cognition ou quel organisme dans l’arbre de vie a cette capacité. Il y a beaucoup de propositions pour la condition minimale, qui vont du centrisme cérébral aux réactions biochimiques, mais un consensus n'a pas été atteint. Cette fois, le Dr Marc Daëron de l’Institut Pasteur (ancien directeur du Département de l’immunologie) va participer à la discussion. En espérant vous y voir. Merci !

会 場: Le Bloc, Espace de Coworking, Salle de Réunion (Bleue), 
10 bis, rue du Sommerard, 75005 Paris


参加希望の方は、she.yakura@gmail までご連絡いただければ幸いです

本活動へのご理解、ご協力をよろしくお願いいたします





2018年4月17日火曜日

ジョン・サルストン博士、亡くなる



本日、用事があり午前中から外に出た
快晴でどうかとも思ったが、やはり体は間違いなく反応しているようだ

出がけにジョン・サルストン博士が(1942–2018)が亡くなったことをサイエンス誌で知る
享年75
線虫に関する研究で2002年にノーベル賞を貰っている
科学の情報の公開を推し進め、遺伝子の特許化に反対した
2009年にケンブリッジであった「ダーウィン2009」で彼の話を聴いたことを思い出す 
拓かれ、落ち着いた精神を見る思いであった

ダーウィン生誕200年祭 “Darwin 2009” で21世紀の科学を想う(2009.7.14) 





2018年4月14日土曜日

春の小休止



向かいのグラウンドでは春のラグビーが展開中
目の前の木には白い花が咲いている
ただ、窓を開ける気にはならない

昨日で二校ゲラの見直しを終えた
それから、依頼のあった「あとがき」を纏め、少しだけゆったりした気分である
これから来るはずの編集者と校正者のコメントを検討すれば、二校については終わる
そして最後の三校は来月になるのだろう
それにしても、本当にぎりぎりまでチェックすることになりそうだ


ル・ポワンで高畑勲氏が亡くなっていたことを知る
享年82
夜、『火垂るの墓』を観る
観終わると急に空が暗くなり、雨となった










2018年4月13日金曜日

やはり楽園はない?



どうも天国はなさそうだ
外に出ると目が痒くなり、クシャミが出て、鼻水止まらず
アパルトマンに留まっていると軽減される
何が原因なのかはわからない
まだ、様子を見たいという気持ちはある
しかし、ほぼ10年の準備期間を経て、その時が来たということか
昨日の言葉ではないが、諦めが大切なのだろう






2018年4月11日水曜日

遺伝子を見直す



パリの最後の方では、そこいら一面に紙が散らばっていた
こちらでは一室を小さな書庫としており、気分は落ち着いている
ただ、その落ち着きは紙との距離を広げているようでもある

パリで出会ったものについて考えることが、一つのプロジェになっている
つまり、新たに広げるのではなく、手持ちのものについて何をするのかという問題である
今朝、この状態が遺伝子と環境との関係と重なった

手持ちのものとは、親から譲り受けた遺伝子でどうしようもないもの
諦めが大切だ
しかし、生物はそれだけではなく、生きる中で何かを加えることができるようになっている

ここで遺伝子に当たるのが、パリで受け取ったもの
それについて何かをやるのが、これからということになる
受け取ったものを見直すためにも、もう少し書庫に足を踏み入れてもよいのではないか

そんな思いが浮かんできた雨上がりの朝である





ガボール・ボルドツキを発見

  2009.4.19 @Cracovie


クラシック・チャンネルを流している時、トランペットの端正な音が聞こえてきた
ハンガリー出身のガボール・ボルドツキ(Gábor Boldoczki)という奏者であった
初めて聞く名前だったが、親しみを覚える
もう20年以上前になるが、学会でブダペストを訪れたことがあるからだろうか
1976年生まれなので、もう40代に入っている
紹介ビデオとその演奏をいくつか

こちらの演奏会の様子を観ていていつも感じるのは、ヨーロッパということである
以前はその味が分からなかったのだが、次第にその深みが感じられるようになってきた
文化の圧倒的な積み重ねが滲み出るのだろうか
その理由は分からないが、わたしの嗜好に合うようになっている

















2018年4月9日月曜日

サイファイ研究所ISHEのロゴを作る



鼻をムズムズさせ暇を持て余している時、変なアイディアが浮かんできた
当方が主宰しているサイファイ研究所ISHEのロゴがあると面白いのではないか
そう言えば、フランス語に意識が向かったのも激しい花粉症の時だった

すぐに浮かんできたイメージは、灯台(phare)とフクロウ(hibou)
研究所の精神に合致するのではないかと思ったのだろう
考えすぎるとロクなことがないので簡単にまとめ、15分ほどで止めにした
早速、サイトなどに掲載
少しは親しみをもって研究所のメッセージが広がることを願いたい

今後とも当研究所の活動にご理解とご協力をお願いたします





2018年4月8日日曜日

日本語メニューを作る



昨日の目の痒みは、ひょっとするとあれかもしれない
今朝、鼻水とともに目が覚めたからだ
その後、クシャミも止まらなくなってきた
本当にいやはやである
ただ、もう少し観察したい

ところで、今日写真をアップしようとしてカメラを探すも見つからず
最近、こういうことが稀ではない
昨日のことを思い出すと、一つのカフェに行き着いた
早速確認のため出かけると、取っておいてくれた
ひとまずホッとする

暫くすると、責任者が来てお願いがあるという
メニューを日本語に訳してくれないかというのだ
そう言えば、先日も40-50人の団体が来ていた
これから観光シーズンを迎えるので説明が大変なのだろう
それと、日本人へのサービスということもあるのだろうか
早速、ワードで作って渡した

こういう偶然は面白い
仕事は中断されたが、何か良いことをしたような気分である
これで今の症状が消えてくれるとありがたいのだが、そうは問屋が卸さない
今日はそのカフェからのアップとなった





2018年4月7日土曜日

春満開



今日は気持ちの良い春の日
午前中のセッションが終わった後、アパルトマンに戻らず街中を散策
皆さん、弾んでいる
駅前の桜?も満開と言ってよいのだろう
木々に緑が付き始めている

午後のセッションもそれなりにできた
これまでにない流れと言えるだろう
ただ、目に痒みを感じる
これまでも同じようなことがあったが、長続きはしなかった
取りあえず、要経過観察








2018年4月5日木曜日

第3回サイファイ・フォーラムFPSSのご案内



第3回サイファイ・フォーラムFPSSを以下の要領で開催いたします

2018年6月30日(土)13:40~16:30
日仏会館 509会議室

今回は賛同者3名の方の話題をもとに議論を進める予定です


プログラム

(1) 13:40-13:45 矢倉英隆 イントロダクション
(2) 13:45-14:05 林 洋輔 「ロゴスの戯れ」としての哲学: 遊戯論からの視点    
   14:05-14:35 ディスカッション
(3) 14:35-14:55 尾内達也 Time being-labor being theoryの提案
     14:55-15:25 ディスカッション
(4) 15:25-15:45 白石裕隆 「マインドフルネス」等による科学と哲学の融合に向けて
   15:45―16:15 ディスカッション
(5) 16:15-16:30 総合討論

詳細はサイト、ポスターをご覧いただければ幸いです
興味をお持ちの方の参加をお待ちしております






2018年4月4日水曜日

二校のゲラ届く



このところ午前、午後は外で、そして気分に任せた夜というリズムができてきた
お昼にはアパルトマンに戻る
春を迎え、冬眠から覚めつつあるようだ

昨日の午前の帰りのバスでのこと
妙齢の女性に、お座りになられますか?と声を掛けられる
どうしてそうなるのか、未だに理解できずにいるのだが、、
ひょっとすると、それが一般的な見方になるのだろうか
いやはやという感じである
気のせいか、トラムやバスの中の皆さんの声も弾んでいたようだ

昨夜は雷鳴が轟き、今朝は雨模様であったが、午前中には快晴になってくれた
そして午後には再びの曇り、のち雨
相変わらずの変化である


ところで、翻訳の仕事が大詰めを迎えている
本日、二校ゲラが届いた
二校は訳者と編集者に加えて、社外の校正者が目を通すという
それを今月末にまとめて最終の三校を作り、校正するという手順のようである
過密なスケジュールと丁寧な仕事に驚く
編集者のご苦労には頭が下がる
当初の予定だった6月に刊行されることになれば、初心者にとっては奇跡的に見える





2018年4月3日火曜日

いつものように坦々と



本日はどんよりと曇った一日
午前中から旧市街に向かおうと思ったが、バスがなかなか来ない
30分ほど待ってやっと来た
訊いてみたところ、復活祭の振替祝日(Lundi de Pâques)だったようだ
まだフランスに住んでいないように見える
日本は新しい年度が始まったところだろうが、その感覚も得られない
それとは別に、今月からやるべきことが増えてきそうである
いつものように坦々と前に進むしかないのだろう





2018年4月2日月曜日

日仏科学セミナーと講演会の計画が進行中




現在、拙訳の『免疫の科学論ーー偶然性と複雑性のゲーム』の発刊に向けて準備中である
みすず書房から6月出版の予定で進められている

この機会に著者のクリルスキー教授を招聘して、講演会と日仏科学セミナーが計画されている
教授は元パスツール研究所所長でコレージュ・ド・フランス名誉教授
日本パスツール財団が会のオーガナイザーとして尽力されている
現在までに決まっているのは、日程と会場である

日程:6月23日(土)午後
会場:京都アカデミアフォーラム in 丸の内(新丸の内ビル10階)

具体的なプログラムは、現在財団によって練られている
詳細が明らかになり次第、この場でも発表したい

サイファイ研究所ISHEも共催として加わる予定である
今年は当研究所設立5周年に当たるので、その記念にもなると考えている

当研究所の活動へのご理解をよろしくお願いいたします





2018年3月31日土曜日

元気の素



人間の活力を決めているもの
元気の素とでも言えるものは、人によって様々だろう
男であれば女性であったり、友人だったり、家族だったりするのだろうか

私の場合、そのような外的な要因に左右されないものを求めようとしてきた
それを最初に感じたのは、ニューヨークにいた30代前半のことである
その時、「内なるモーター」を作り上げるというアイディアが浮かんできた
それ以来、特に意識したことはないが、そのように生きてきたようである
外的な影響を受けない内なるモーターによって生かされてきたと自分では思っている

独立した、自立したと言われるような状態だが、本当にそうだろうか
そこで行われていることは、自律した自己との対話ではある
しかしそれは、過去人によって栄養を与えられた自己との対話である
生身の人間にではないが、やはり依存しているのである

ハイデッガーではないが、我々はこの世界に投げ出されている
しかし、それはあくまでも他者との関係の中でのことである
実際には、生身の人間の有形無形の影響もそこに働いているはずである
それを意識できるかどうかの違いだけだろう
死に向かう世界内存在とは、そういうものなのだろう
であれば、この世にある内にできるだけ多くの影響を受けたいものである

少しだけ認識が広がったように感じる土曜の午後である




2018年3月30日金曜日

クリッチリー教授の考察を読んで



この一週間の考察を自分に引き付けて考えてみる
どこが似ていて、どこが異なっているのか

人間は死に向かう存在である
この事実はほとんどすべての人が知っているだろう
しかし、それを真に理解しているのかと問われると、かなり怪しいものがある
そう言えるのは、自分がその違いをはっきり認識できた時があるからである

これまで何度か触れているが、それは退職の数年前のことである
死で終わる自分の有限性が見えた時、生き方に対する真剣な問いかけが起こった
つまり、すべてが終わる前にやることがあるとすれば、それは何なのかという問いである
生れて初めてのことであった
これは、ハイデッガーの言う真正な(オーセンティック)自分になることと関係してくる

その問いかけが起こる時は、凡庸さの中にある日常との決別がある
そこには強い決心が伴っている
そしてその時、自由に考えることができるようになるという

このような経験を持つことが、哲学に入る道を開くのではないだろうか
それは如何に生きるべきかという問いを前にしたものである
そして、それは取りも直さず、真の自分になることへの道でもある
哲学者には前と後があると言われるが、それはこのことを指しているのだろう

それから人間は死を前にすると、感受性が増すと言われている
私の場合、視覚を介するものの感度が著しく増したように思う
それは景色や映像のこともあるが、特に言葉に対する感受性であった
それまで右から左に流れていたものが、しっかりと捉えられるようになったのである
これはある意味で聴覚、さらに言えば思考に対する感度の上昇でもあった

人間は時間であり、それは有限であるという
過去の遺産を背負い、未来に向けて歩み出す時に、過去が解き放たれる
過去・現在・未来が一体になった、創造的にさえなり得る統合された時間がそこに生まれる
有限の時間をこのように創造的なものにするのが人間の生ということになるのだろうか

このような認識は、こちらに来る前から私の中にあったものである
過去の自分を現在に引き戻す(2007.1.30)
これを基にした生き方に違和感はなく、この10年ほどそれを実践してきたようにも見える
当時ご宣託を送ってくれたフランスの哲学教師には、その兆しが見えていたのだろうか

その一方、ハイデッガーの中には人種差別的思想があった
特に、根無し草のユダヤ人には人間としての価値を見ていなかった
普遍主義やアングロ・サクソン文化への嫌悪のようなものがその底にあったとされている

この点は私のこれまでの考え方や生き方と大きく異なるところだろう
普遍主義ついても批判的に見るべきだが、それを全面否定する立場ではない
二つの極端があった時、両者の中にある優れた点を見ようとする立場である
振り子が一方に振り切れる時、いろいろな場面で破滅が見られたからである

いずれにせよ、判断する前には現物に当たってみなければならないだろう
いつものように、それがいつになるのか分からない





ハイデッガーの『存在と時間』7



今朝は久しぶりの快晴で気持ちがよかったが、午後から雨
そして、夕方には雨は上がり、比較的明るい夜となった
いつももの凄い音を発するお隣さんだが、トロンボーンの音源も同じところであることが判明
今朝は西城秀樹のYoung Man(YMCA)が流れてきて、一瞬オヤッと思う
すぐに、元々はアメリカの歌だったことを思い出す


さて、ハイデッガーに関するクリッチリー教授の考察も最後になった
最後は時間性が問題になるようだ

ハイデッガーが時間の議論で避けようとしたことについて、最初に述べたい
第一は、均一で線状で「今の点」が無限に続くようなものとしての時間を批判している
過去は最早今ではなく、未来はまだ今ではない、現在は未来から過去に流れているもの
アリストテレスに由来するこのようなモデルは、低俗でありふれた時間の概念である

第二は、時間と永遠の違いから始める時間の概念化を避けようとしている
その理解はアウグスティヌスが言ったように、高いところの永遠から時間性が生まれるとする
その永遠は神に通じるものである
ハイデッガーの時間性は、終わりに向けて常に走っているDaseinの実存に繋がるものである
時間の最初の現象は、死に向かう存在である私に現れる未来である
未来とそこに向かうということが結びつくのである
人間は現在に閉じ込められているのではなく、常に未来に投げ出されている

Daseinが未来に引き継ぐのは、存在論的な罪である
未来から現れるのは、わたしの個人的、文化的過去である
ハイデッガーが言うところのGewesenheit(having-been-ness)である
しかし、それは自分の過去に運命付けられていることではない
寧ろ、自由の中にいるという事実を引き継ぐ決意ができるのである
それを、固い決意をした状態、決然とした状態と言ったのである

ハイデッガーの現在は、今の点がどこまでも続くものではない
私がしっかりと掴むことができ、自分自身のものとすることができる何かである
未来を期待する中で開かれるものは、Gewesenheitを現在の活動の中に解き放つことである
それが彼の言うAugenblick(the moment of vision)である

この言葉はキェルケゴールやルターからの借用で、ギリシャ語のkairosの訳になる
kairosとは「適切な瞬間」を意味し、キリスト教ではキリストの出現と共に来る時間である
ハイデッガーの場合には、神との関わりなしに考えようとしている
その瞬間に現れるのが、真のDaseinである
彼の時間は、未来、過去、現在が統合されたものとして捉えられる
それは法悦であり、原初的なもので、死で終わる有限なものである

我々は時間である
時間性とは、統一体を作る三つの次元と共にある過程である
この書で彼がやろうとしたことは、有限な人間の動きを記載することであった
『存在と時間』は未完の書である
人間存在(Dasein)については解析できたように見える
しかし、より広く「存在そのもの」については手が付いていない 、ということなのだろうか

(了)






2018年3月29日木曜日

ハイデッガーの『存在と時間』6



本日も午前中は雨で、夕方にかけて明るい光が見えるようになった
夏時間の影響も出始めていて、よい感じなってきた
それでは、クリッチリー教授の考察に戻りたい

これまでの「死に向かう存在」という概念には、良心の問題が出てくるという
この概念自体は形式上は問題ない
しかし、onticなレベル(現実の具体的な経験のレベル)ではさらに何かが求められる
有限性が自己を捕らえるのは、良心を通してだからである

良心とは呼ぶ声である
馴染み深い日常に浸り切っている偽物の生活から離れよ、と呼ぶ何かである
この世界の喧噪や無駄なお喋りから抜け出て、忙しさを止める声のような何か
その外からの声を頭の中で聞くという神秘的経験である
これはアウグスティヌスやルターのようなキリスト教信者の経験に近い

しかしハイデッガーの場合、それは神が自分に語ることではなく、私が自分に語ることである
日常の偽物の生活から呼び戻される神秘的な経験である
良心とは、人間が自分自身を死すべき者として呼び戻す経験である

良心の声で何が語られるのかと言えば、何の指示も助言もない
無言である
それを理解するには、偽物の生活はお喋りに満ちていることを掴むことが重要である
良心の無言の呼び声が私を私自身に戻してくれるのである

しかし、それは何を理解させるのだろうか
良心の声は「有罪!」という一つの言葉に還元される
Daseinの罪とは何を意味しているのか
人間存在は投企されたものと規定されるので、あるべき存在を持っている
人間存在は欠乏であり、埋め合わせるために駆り立てられる負債である
それが罪の存在論的意味である

罪は倫理的な自己の深部構造を明らかにするとハイデッガーは言う
それは道徳に先立つものなので、道徳では説明できない
罪とは、如何なる道徳にとってもそれ以前の源で、善悪を超えている
単に我々が在るところのものであるということであり、我々は有罪であるということである
「常に、すでに」そうである

真のDaseinは声の意味を理解し、自身が罪ある者であると理解するようになる
そこで、Daseinはそれ自身を選ぶのだが、それは良心を持つことではない
良心を持ちたいと思うことである(欠乏に向けての傾きか)
私であるという欲求を欲することを選択するのである
そのことによってのみ、人間は責任を負えるとハイデッガーは言う
倫理において鍵となる責任の概念は、声を理解し、良心を持ちたいと思うことから成っている
この選択をするということは、固い決意を持つようになることである

(つづく)




2018年3月28日水曜日

ハイデッガーの『存在と時間』5




『存在と時間』の基本的な考えは、「存在は時間で、時間は有限である」ということだ
人間存在にとって、時間は死に向かい、死とともに終わる
従って、真の人間存在とは、本質的に我々は死の地平に投企されているということである
すなわち、「死に向かう存在」であり、我々の存在は有限だということである
ならば、真の人間生活は有限性と向き合い、そこから意味を汲み取ろうとすることである
彼は、古くからある「哲学とは如何に死ぬのかを学ぶこと」という言葉に同意する
死すべき運命は、我々が我々の自我の在り様を形作ることと関係しているのである

「死に向かう存在」には、次の4つの基準がある

一つはその非関係性である
死を前にした時、他者との関係が切断される
死は自分で経験するしかない
二つ目は、それが確実だということである
我々は死に行く存在であるという事実から逃げても、死は確実にやってくる
三つ目は不確定性で、確実に死ぬがそれがいつかは分からない
そして最後が、それは超えることができない極めて重要な問題だということである
死がやってくると、すべての可能性が消える
ハイデッガーが言った「不可能性の可能性」である

「死に向かう存在」に含まれている最も重要な意味は、可能性への賛歌である
 ここで、Erwarten(待ち受ける)とVorlaufen(先を走る)を区別する
前者は運命を前に受け身であるのに対し、後者はそれを予期して自由な行動の条件とする

ここで逆説が現れる
自由とは死という必然性の欠如ではなく、その必然性を肯定することから生れるのである
真に在るところの存在になるのは、「死に行く存在」の認識の中だけなのである
我々の有限性を受け入れることこそが、我々の生の基礎にある
これが偽物の日常生活に浸りきったところからDaseinを引き上げるものなのである

この主張は、自分の死こそが最も重要で、他者の死は二次的であるということに繋がる
それは間違いで、道徳的にも問題があるという批判がある
さらに、伝統的な人間中心主義が働いているという批判もある
つまり、人間の死だけが重要で、他の生物の死は下に置かれる
他にも死を経験できる生物がいるのではないかという批判である

(つづく)






2018年3月26日月曜日

ハイデッガーの『存在と時間』4



本日は朝から雨模様
今日もクリッチリー教授による『存在と時間』の考察を振り返ってみたい

ハイデッガーにとっての気分は、人間存在を明らかにする本質的な方法となる
中でも基本となる気分(Grundstimmung)は、不安である
Daseinは世界内存在であり、我々の日常は世界の在り方に完全に浸ることである
世界内存在は全体として不安の中で明らかにされ、配慮・関心(Sorge)として定義される

まず捉えるべきは、不安は何かについて絶えず心配することではない
そうではなく、不安は稀で微妙な気分であり、平静・平和の感情と比較される
自由で真の自己が最初に存在に現れるのは、不安の中でのことである

ハイデッガーの不安を理解するためには、恐怖の気分と識別しなければならない
恐怖は何か特定のものに対するものである
対象があり、それが除かれると恐れもなくなる
しかし、不安には特定の対象はない
敢えて言えば、世界内に存在しているそのことに対する不安になるだろう
はっきりと定まらないものを前にした時に経験するのが、不安である

この世界には多くの意味が溢れ、その世界に魅了されていて、居心地がよい(heimlich)
しかし、突然世界が意味のないものに見え、不安に駆られる
自分の世界が居心地の悪い(unheimlich)異質なものに感じられるようになる
サルトルの『嘔吐』のようなものだろう
それまで人生のゲームでプレーしていたところから観客席に移動するような感じだろうか

不安の中で最初に垣間見るのが、真の自己である
偽物の生活では、ものや他人に完全に縛られ、日常の凡庸さの中で窒息している
不安とは、まず自己が自らを世界と峻別し、自己に注意が集中するようになることである
不安を感じるのに特別な舞台装置は必要ない
何ということもない状況の中で、突然、自己と世界との根源的な違いを感じるのである

ものや他人からの自由としての我々の自由、その経験が不安である
自分自身になり始める自由である
不安は優れて哲学的な気分である
他のものから自由になり、自分自身のために自由に考え始める経験である
アウグスティヌスからキェルケゴールに至るキリスト教の伝統の中における分析がある
しかしハイデッガーの場合、神との関係では分析しない
死との関係でそれは行われるのである

(つづく)






2018年3月25日日曜日

ハイデッガーの『存在と時間』3



本日から夏時間
朝からの明るい優しい日差しが嬉しい
素晴らしい季節の始まりであることを願いたい

先日目に入った記事の中に、ガダマーさんの追悼記事があった
長命だったことは知っていたが、それ以外は気にかけていなかった
彼が生まれたのは1900年で、2002年に102歳で亡くなっているので年齢が分かりやすい
その記事に「60歳で出した『真理と方法』で有力な哲学者になった」とあり、驚いたのだ
ドイツ語のウィキに行くと、彼の作品はすべてそれ以降のもの
76歳、83歳、89歳、93歳、96歳(2冊)、100歳(3冊)という具合だ
驚くべきスタミナである

その記事によれば、略歴は以下のようになる
29歳でハイデッガーの下へ
昨日の記事にもあったが、彼はナチスには加わっていない
学生時代にポリオに罹ったようで、兵役にも行っていない
34歳でナチスの拠点だったキール大学で教え、37歳でマールブルクの教授となる
その2年後にはライプツィヒに移り、戦後ソビエトが彼を学長にしたという
しかし、47歳でフランクフルトに戻り、49歳でハイデルベルクへ
亡くなるまでそこに留まり、最後まで独身を通したようだ


再び、『存在と時間』に戻りたい

本書の目的は、形而上学の根本問題である存在の問題についての困惑を呼び起こすこと
彼は、この世界における日常の存在としてのDasein(人間)を解析することにより行う
Daseinはこの世界に投げ出(投企)された存在である
その状態をGeworfenheit(thrownness)と彼は言った

ハイデッガーは心の状態、気分、投企された状態という三つの概念について解析する
心の状態(Befindlichkeit)は、英語では次のように訳されている
'already-having-found-oneself-there-ness' 「すでに自分自身をそこに見出している状態」
つまり、人間はこの世界の中のどこかにすでに存在しているものということになる

気分(Stimmung)は感情や情緒を意味するが、心理学的な含みはない
寧ろ、この世界と調和しながら向き合っている我々の根源的な在り方を意味している
我々は世界との関係抜きには存在し得ず、その関係は理性ではなく気分の問題である
我々の日常は、恐怖、退屈、興奮、不安などの諸々の気分の中にいることを意味している

Daseinは投企された受け身の状態ではなく、我々はその状態を理解することができる
理解するとは、どのように何かをするのか、操作するのかという活動の概念である
真の人間は、存在する可能性、能力(Seinkönnen)によって規定される

纏めると、人間は世界に投げ出されているだけではない
その状態を取り払い、具体的な状況における可能性を掴むという運動に入ることができる
これがハイデッガーの言う投企(Entwurf)であり、自由の経験である
自由とは抽象的な概念ではなく、世界内での行動を通して可能性を示す人間の経験である
真の人間とは、そのように行動する人のことである

(つづく)