2022年3月8日火曜日

ハイデッガーの形而上学(27)































b)気分がそこに在ることとないことは、意識と無意識を区別することによっては把握できない


奇妙ではあるが、眠っているものは何でもそこにないと同時に在る

我々が気分を呼び覚ます時、それはすでにそこに在ることを意味している

同時に、それはある特定のやり方でそこにはないという事実を表している

気分はそこに在ると同時にない何かである

これは奇妙である

もし慣例に則って哲学することを継続したいと願うならば、我々は直ちにこう言うことができるだろう

そこに在ると同時にない何かは、内在的に矛盾する存在である

そこに在ること(Da-sein)とそこにないこと(Nicht-Da-sein)は、完全な矛盾である

しかし、矛盾するものはあり得ない

伝統的な形而上学の古い命題であるが、丸で四角があり得ないように、それはあり得ないのである

我々はこの由緒ある形而上学の原理を問題にしなければならないだけではなく、その基盤を粉砕しなければならない


結局のところ、我々が一般にものについて知っていることは、曖昧な「あれか、これか」に関して知っている

確かに、誰かはそこにいるかいないかである

しかし、ここで問題にしているのは、石の場合とかなり違うことである

人間としての経験から、何かが手元にあるがまだないこと、我々の意識に入り込んでいない過程があることを知っている

つまり、手元にあるが、意識にはないのである

「手元にあると同時に手元にない」という奇妙な状態は、無意識な何かを意識している可能性から生まれる

無意識という意味でそこにないことと意識している意味においてそこにあることとの違いは、眠っているものを呼び覚ますことに相当するように見える

しかし、眠りと無意識を単純に同一視できるだろうか

眠りは単なる意識の欠如ではない

実際には多くの場合、眠りでは夢のように非常に活発な意識が動いている

従って、意識と無意識の差異で目覚めていることと眠っていることの問題は解決できない


ある気分を呼び覚ますことは、単に以前は無意識だった気分を意識させることを意味しない

ある気分を呼び覚ますことは、目覚めるようにさせること、任せることである

気分を知識の対象にしたりすれば、気分は破壊されるか、弱まったり変質したりするのである







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