2022年4月11日月曜日

ヒラリー・パットナムの「科学と哲学」7

























「科学的イメージと見えたままのイメージ」


我々が世界を理論化する際に「見かけを守る」必要性、すなわち、見えたままのイメージ(Manifest Image)を正当に評価することは、哲学が始まった時からの重要な願望であった

アリストテレスが形而上学は見かけを守らなければならないと主張したことは、プラトン的推論に対して普通の言語への敬意を示したものと見ることができるだろう

もし「普通の言語」が軽蔑されるものに過ぎないとすれば、我々が人間の言葉を記述するために用いるすべての語彙は軽蔑されるか、あるいは社会科学の「ニュースピーク」に置換されるのだろうか


トルストイジョージ・エリオットの小説にある人間の生活の描写は単なるエンターテインメントではなく、社会生活や個人生活で起こっていることを理解できるようにしてくれる

そして、そのような描写には普通の言語が我々に提供してくれる多くの微妙な違いが必要になる

「我々がどのように語るのか」の妥当性や非妥当性の問題は哲学者の問題だけではない

普通の言語が一度笑い飛ばされてしまうと、哲学的理論は我々の話し方、生き様に全く責任を持てなくなるという点で、これは哲学者の問題になる

しかし、これは哲学者を超える問題である

なぜなら、普通の言語に対する軽蔑は、根本のところですべての人類に対する軽蔑になるからである









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