2022年4月8日金曜日

ヒラリー・パットナムの「科学と哲学」4
























「哲学の重要性と価値」


もし、哲学を科学に取り込むという実証主義や科学は作り話であると主張するポストモダニストが筋道が通っていないということになれば、一体何が残るのだろうか

わたしが「哲学をやってきた」60年を振り返れば、2つの哲学の定義がわたしに最も訴えかけてくる

そして、それぞれの定義はお互いに補完されなければならないことが見えてくる

一つは、スタンリー・カヴェルの名著『理性の主張』(The Claim of Reason: Wittgenstein, Skepticism, Morality, and Tragedy)からのものである

少し長くなるが、以下に引用したい
もし子供が次のように訊いてくるとする

「なぜ我々は動物を食べるのか」「なぜ豊かな人と貧しい人がいるのか」「神とは何か」「なぜ学校に行かなければならないのか」「白人と同じように黒人を愛することができるのか」「誰が土地を所有しているのか」「なぜ何かが在るのか」「神はどのようにしてここにやってきたのか」

わたしの回答は内容の薄いものに感じ、これがわたしのやっていることで光栄に思うと言う以外になくなるように感じる 

そして、わたしのこれまでの結論は「わたし」が辿り着いた結論ではなく、単に出回っているものを飲み込んだものに過ぎなかったと感じるのである

わたしはその理解を欺瞞や冷笑や居丈高さによって鈍らせるかもしれない

しかしこの機会を利用して、わたし自身の文化に還り、なぜ我々がやるようなことをやり、我々が判断するように判断するのか、そしてどのようにそこに辿り着いたのかを問いたい

・・・

哲学することにおいて、わたしの言語と生活を想像力の中に持ち込まなければならない

わたしが必要としているのは、わたしの文化の基準を集めて会合を開くことである 

それによって、わたしが求め想像したわたしの言葉と人生を、文化の基準と対峙させるのである

これが哲学の名に値する仕事であるようにわたしには見える・・・その意味で、哲学は成人の教育・教養になるのである 

第二の定義は、ウィルフリド・セラーズのエッセイ『哲学と人間の科学的イメージ』によるものである

彼は書いている

哲学の目的は、可能な限り広い意味での「もの・こと」が、可能な限り広い意味でどのように結び付いているのかを理解することである


カヴェルの定義である「成人の教育・教養」 と彼が子供の疑問として挙げた例は、成人が教育・教養を必要としていることを示すものだが、それはわたしが哲学の「道徳的」側面と呼ぶものを指し示している

その側面とは、現在までの我々の人生と文化を問いただし、そのいずれをも改善するように迫るものである

セラーズの定義は、わたしが哲学の「理論的」側面と呼ぶもので、それは我々が知っていると思っていることを明確にし、それらすべてがどのように「結び付いているのか」を解き明かすことを我々に要求するものである

確かに、カヴェルの定義はセラーズの定義を含んでいる

なぜなら、「もの・こと」がどのように結び付いているのかなどどうでもよいと思っている大人は「教養人」とは数えられないからである


論理実証主義は哲学の理論的側面を保持しようとしたが(ただ、多くの理論的側面を「形而上学的」として無視した)、道徳的側面を完全に排除した

他方、ポストモダニズムは理論的側面を犠牲にして、道徳的側面を保持しようとした

ただその道徳的側面は、かつてリチャード・ローティが「マルクス主義と、ポール・ド・マンフーコーというポスト・マルクス主義者の幻覚効果」と言ったものに還元するものではあったのだが、、

わたし自身の見方は、最善の哲学はいつの時代も道徳的側面を代表する哲学者と理論的側面を代表する哲学者に加えて、この両面を統合する洞察力を示した天才を持っていたというものである

このいずれかの側面を切り捨てるということは、単に哲学というものを殺すだけではなく、知的、精神的自殺を意味している


 

 

 







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