2021年11月2日火曜日

コンシュ「形而上学の概要」(7)
























「自然」という言葉の中には、エピクロスの Peri phuseôs(『自然について』)がわたしに与えてくれたもの以上のものがある。

おそらくエピクロスは、「自然」がすべての「もの・こと」の絶対的源泉であり、すべての「もの・こと」を発明することによりそれ自体で創造することを見ていた。

しかし、彼は「クリナメン」(clinamen:原子の予想できない揺れ)を除けば、「自然」を物質に還元することにより極端に活力のないものにし、それが彼を「唯物論者」としている。

全てが帰着するものである原子が、少なくともそれがデモクリトスにおけるような数学的(幾何学的)存在ではなく物質的存在ならば考えさせることはないので、この物質への還元には何の価値があるのか。

実際のところ、もし原子が何からできているのかを問えば、空ではなく満ちていると言われる。

しかし一体、何で満ちているのか。

自然は無数の微小で考えも及ばないものに分割され、偶然によって数多くの世界に組織化される。

「宇宙」あるいは「全体」(to pan)の量的概念は、命ある統一性が認められていない「自然」の質的概念に優っている。

生命は原因ではなく、偶然が齎す不確実な果実に過ぎないように見える。



しかし、ルクレティウスとその師のお陰で、わたしは無限の宏大さの中の一つの点として自分自身を考えることに慣れた。

そして、哲学するとは、自分自身を考え、無限の核心にあるすべての「もの・こと」を考えることであると信じるようになった。

空間の無限は明らかである。

時間の無限については、それほど明確ではなくなるが、わたしはモンテーニュの言葉に思いを致す。
「なぜ我々は、永遠の夜の無限の流れの中で閃光にしか過ぎないこの瞬間の存在であると名乗るのか」
そこから、モンテーニュは時間を無限で永遠なものとして捉えていたことが分かった。

そしてそれは、わたしにとっても同様であった。










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