2021年11月27日土曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(7)

























昨夜は寒いと思っていたが、今朝はこの景色

今年初めて積もった雪を見た

暫くすると太陽が顔を出し、雪が解け始めた

溶けた雪が陽の光にキラキラ輝き、美しい

風もないので、この雰囲気を感じながらの紫煙と決め込んだ

それが悪くない

Pas mal ! というやつである

お昼にはすっかり溶けてしまった

満足したところで、早速コンシュさんを読み進みたい

最近は修行をするような感じになってきた


---------------------------------------------------


ベルクソンが語った「自己による自己の創造」は、我々が形のない要素すなわち精神の中にいることを前提としている。

偉大なエミール・リトレオーギュスト・コントの最も卓越した弟子であった。

しかし、実証主義の形而上学に対する用心深さだけに満足することは難しい。

そのため、彼は唯物論に陥ったことを非難される。

確かに、唯物論者が「物理学者が物質には重みがあると認識するように、生理学者は神経の物質が考えると認める」と書くことはよい。

今日の唯物論者は「脳は考える」と言う。

しかし、「脳は考える」と言わなければならないのは、脳がなければ考えることができないからではない。

必要条件は十分条件ではない。

パスカルの言葉を思い起こそう。

「すべての物体を合わせたものからでも、小さな思考を生み出すことはできない。それは不可能であり、他の秩序に属しているのである」(fr. 793 Br.)

しかし、脳は肉体に他ならない。

肉体に過ぎないものから、どのようにして精神を生み出すのか。

思考のないものから、どのようにして考え、考えられるものを引き出すのか。

つまり、決定論に従属する宇宙から出発する唯物論者は自由の出現を説明できない。

自由がなければ彼自身、少なくとも真理の意味を持つ何の言説も口にできなくなる。

同様に、脳組織にある複雑で分化した物質から出発する唯物論者は、心の内奥としての何か、それによって一人の人間になる自己と自己の関係を可能にする自由をそれ以上には説明できないのである。







0 件のコメント:

コメントを投稿