2020年8月28日金曜日

説明することと考えること

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昨日のジェイムズの影響だとは思うが、朝の瞑想で次のようなことが浮かんできた

 

これまでに書いたエッセイの中で、「説明する」とか「考える」ということについて簡単に触れたことがある

第11回 ダーウィンのパンゲン説、あるいは科学が求める説明

第36回 記憶の探索、あるいは「考える」という精神運動

 

第11回のエッセイでは、「説明する」ことを、ここにある結果(現象)を原因で置き換えることとした

つまり、このようになっているのは何が原因なのかを明らかにすることである

原因から結果に至る論理の流れに無理がなく、整合性があることが求められる

科学は原因についての仮説を立て、そこから導き出されるものを実験で確かめるという方法を採る

実験をしない普通の人、あるいは哲学者は、それを論理を用いた議論で証明することになる

 

第36回のエッセイでは、「考える」とは関連付けすることではないかとした

「考えること」を説明との関連で見直すと、それは説明するための手段とも言えるだろう

「考えること」を説明の条件と考え合わせると、そこでどのような関連付けがされているのかが問題になる

結果を原因で置き換えるためにどのような材料を選び、それをどのように繋ぎ合わせて説得力を持たせるのか

この過程を緻密に進めることが「考える」という運動の中身になるのだろうか

 

 

 

 

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