2021年12月5日日曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(14)





















引き離された「神」、わたしにはそもそも少しずつ意味がなくなっているように見える概念だが、現実の全体はどうだろうか。

他には何もないので、それは必然的に無限である。

しかし、三要素の体系においては、神も存在するので世界は有限であり無限ではない。

わたしは今、世界に無限という性質を与えることができるだろうか。

ところで、世界はそれ自体で説明可能なのだろうか。

ここで我々が問い掛ける権利があることを知る必要がある。

何かが存在し、その何かは世界である。

まず、何かが存在するという事実について疑問を投げ掛けるべきなのか。

ある人たちは「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」という問いを尊重する。

しかし、これは間違った問いである。

なぜなら、我々がパルメニデスベルクソンなどから学んだように、「何もない」ということ、すなわち無は考えられないからである。

マルブランシュが「何もないものを見るということは、見るということではない」、「何もないものを考えるということは、そもそも考えることにならない」と言ったように。

従って、この問いは「形而上学の根本的な問い」からは程遠く、我々がよく言うように「そもそも問いになっていない」とジャン・ヴァールは言う。

反対に、「なぜ『もの・こと』が他のようにではなく、このようであるのか」という問いは真の問いである。

エピクロスは、なぜ世界は我々がそうであると見ているようにあるのか、と自問した。

彼は原子仮説を使えば、詳細に至るまで説明できると考えたのである。

彼は「世界」という言葉を、星座も含めた見えるものの全体と理解した。

「世界」は、ギリシア語では秩序と構造を意味するコスモス(cosmos)と言う。

これらの言葉自体は有限性を意味し、無限の源泉である起源――それは説明力のない概念である神ではあり得ない――を想定しなければならない。

なぜなら、説明すべきものが何であれ、世界がどんなに異なっていても、いつも同じ「神」が引き合いに出されたからである。

反対に原子で満ちた自然は、世界のすべての現象を説明できるに十分なものを持っている。














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