dimanche 1 mai 2016

カート・ヴォネガットさんから岩崎航さんに、そしてキェルケゴールへ



昨日、ヴォネガットさんの以下の言葉をツイートした。
「作家が相手にしているのは、全世界の人びとでもなく、十人でも、二人でもない。作家が頭においているのは、ただ一人の読者なの」(カート・ヴォネガット)

昨夜、テレビを観た後、以下のようにツイートした。
夜、岩崎航という筋ジストロフィーを患っている詩人のドキュメンタリーを観る。その中に、結局のところ自分に向かって書いているというニュアンスの言葉があった。ヴォネガットさんが「一人の読者に向かって書く」という時の読者とは、自分自身ではないのか。そんな考えが浮かんだ。

岩崎さんの話を聞きながら、朝読んだ言葉の意味が分かったような気がしたからである。ヴォネガットさんの真意は分からないのだが、、、。このような繋がりで分かったように感じることが多くなっている。それは自分の発見になるので、いつも嬉しいものである。

そして今日、岩崎さんご本人から、このツイートに「いいね」が入っていて驚いた。


昨日の番組を観ながら、岩崎さんの生活は謂わば精神だけの生活といっても良いのではないかと感じていた。これは比較にはならないが、わたしの8年余りのパリ生活は日本にいた時と比較すれば日常生活と職業生活のない世界で、日本から見ると精神の世界にいたように感じるようになっている。その世界に入らなければ見えてこないものがあることも分かってきた。

今読んでいるキェルケゴールは「直接性」と「間接性」という概念で、この辺りの事情を語っている。直接性というのは、日常生活と職業生活の一部で経験するところのもので、現世の価値を絶対的なものとして生きることを指し、間接性とは普遍的、絶対的な価値を規範に「もの・こと」を観、考える生活で、現世における価値を享受するにしてもそれを相対化できる視点で生きることを意味している。直接性の中には振り返るという運動はなく、謂わば刺激と反応の中に生きることである。それに対して間接性においては、常に反省という運動が組み込まれている。これは一概には言えないかもしれないが、多くの人は直接性の中に生きているのではないかと想像される。

岩崎さんの生活をキェルケゴール流に言うとすれば、ほとんどが間接性の中にあると言えるのではないだろうか。 この間接性こそ、キェルケゴールによれば、信仰に繋がるもののようである。





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