2022年11月16日水曜日

コリングウッドによる自然(45): 18世紀(8)































カント(1724-1804)が物自体をどのように考えていたのかを知ろうとしても、明確な答えは得られない

その理由として2つのことが考えられる

1つはその問題について明確な定義が出来上がっていない可能性で、もう1つは明確過ぎて言う必要がないと考えている可能性である

カントの場合、ヴォルテール(1694-1778)やヒューム(1711-1776)の形而上学的懐疑主義の影響を受けていたので、物自体の哲学的理論は存在しないのではないかと考えていた可能性がある

ただ、カント自身の立場を論理的に見ると、そのような理論は存在することを含意していた

あるいはまた、初期にライプニッツ(1646-1716)学派でトレーニングを受けていたので、物自体とは精神であることを当然のこととしていた可能性もある

おそらく、両方が部分的に正しいのだろう

懐疑主義からの最初の目覚めは、独断主義自体からあまり離れていないところに連れて行く

カントは、物自体という考えが彼の哲学の本質的要素であると言い張るが、それを明らかにし、「物自体を考えることはできるので、それが何であり、どのように考えるのかを決断しなければならない」と自らに言うことには取り掛からなかったのである


これを無視することにより、カントは後継者にこの仕事を課したのである

フィヒテ(1762-1814)は、物自体を取り除き、精神を無から自然を構成するものとした

これにより、カント主義が初めて一貫性と論理性を持つ哲学になったが、それはカントの問題を解決したというよりは破壊したのである

なぜなら、問題が知識の全般的考察からではなく、精神に与えられた何か、すなわち精神が向き合っているものとしての自然という特殊性から生まれるからである

それは物自体が存在することを示唆している

カントを発展させる別の正しい方法がヘーゲル(1770-1831)によって導入されたのである











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