2022年11月5日土曜日

コリングウッドによる自然(37): ギリシアとルネサンス宇宙論の対比

























これから前に進む前に、これまでのところを吟味しておきたい

古代ギリシア人にとって、自然は空間に広がった物質的な物体から成り、時間における運動に浸透される生きた有機体であった

全ては生きていたのである

従って、そこでの運動は生命の運動であり、それは叡智によって導かれる目的を持った運動であった

近代になって問題になる問題、例えば、死せる物質と生ける物質の関係、物質と精神の関係などは存在しなかった

精神なき物質世界は存在せず、物質なき精神世界も存在しなかったのである

物質はそこからすべてのものが作られるが、それ自身は無定形、無限定のものであり、精神はすべてのものが自らの変化の目的因を悟るところの活動であった


しかし、17世紀にすべての状況が一変する

科学が、全く特別な意味における物質的世界を発見したからである

それは、質的差異を持たず一様で純粋に量的な力によって動かされる死せる物質の世界である

物質という言葉は、形相から作られるような無定形の原材ではなく、運動する事物についての量的なものの総計であった

それは、ガリレオ(1564-1642)やニュートン(1642-1727)というような人たちによって作られた物理科学が産み出したものである

この物理科学は、ギリシア人が数学を創出して以来、人間の学識によって成された最大かつ最も信頼し得る進歩とされた

17世紀以来の近代哲学は物理学を重視し、そこで得られた知を真正の知と自認したのである

その上で、この量的物質的世界がなぜ知られ得るのかに答えなければならなかった

17世紀を振り返り、この問いに答えるのに失敗した2つ道を指摘した

一つは唯物論であった

あるいは、特殊な物質的なものとして精神の活動を説明しようとする試みと言うこともできるだろう

近代の物質概念は、すべての物質の活動は時空において数学的に決定される運動で、量で表現できるものであった

そのため、この試みは失敗に終わったのである

もう一つは、スピノザ(1632-1677)とライプニッツ(1646-1716)によって修正された二実体論である

しかし、この試みは精神と物質という2つの実体を連結することができず、崩壊した








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