2022年11月9日水曜日

コリングウッドによる自然(39): 18世紀(2)































精神と物質の問題にバークリー(1685-1753)が一つの解決法を提示した

彼は、17世紀の自然観、すなわち物質――それはすべての運動が外力(vis impressa)によってもたらされる外的作用因によるものだが――の複合体であり、質的な要素を完全に欠いた純粋に量的な言葉ですべてが記載可能な複合体であることを受け入れたところで、この考えが抽象的である――部分的な説明にしかなっていないので不完全なものである――ことを指摘した

デカルト(1596-1650)、ガリレオ(1564-1642)、そしてロック(1632-1704)から受け継いだ言葉を用いれば、物理学者による物質世界は第一性質だけを持つが、我々が知っている自然は第二性質も持っている

より正確な言葉を使うとすれば、自然のどこにも質を欠いた純粋に量だけのものは存在しない

質のない量は抽象であり、その世界は思惟による観念的な存在(ens rationis)である

実在の一部の選ばれた側面についての図式的な見方なのである

これがバークリーの議論の第一歩である

第二のステップは、やはりデカルト、ガリレオ、ロックから受け継がれた教義が、自然の質的な相違をすべて心の営みの結果にしていることである

もしそうであるならば、実際に存在している自然における不可欠な要素は心の働きということになる

心がなければ自然が存在しないのだとすれば、自然の全体は心の作り出したものということになる


ここで我々は全く新しい形而上学的立場を手に入れる

伝統的な17世紀の宇宙論を取り入れ、それを並び替えることにより、バークリーは次のことを示した

もし実体がそれ自体で存在し、それ以外には依存しないものだとすれば、存在を主張できるのは心だけということになる

我々が日常的に感受している自然は心が創ったものであり、ガリレオの言う物理学者の量的自然はそこからの抽象ということになる

ここまでを纏めると

第一に、我々は心の力により、日常的に感受している生身の自然界を創り出している

第二に、抽象的思考により、生身の部分を除き骨格だけにするが、それが物理学者の言う「物質世界」である

(この項つづく)







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