2022年5月14日土曜日

『免疫学者のパリ心景』第1章のご紹介
































この春のサイファイ研のカフェとフォーラムをすべてお休みにすることにした

COVID-19の先行きが未だよく見えないことがその理由になる

対面の会を目指しているので致し方ないのではないかと思っている

ご理解いただければ幸いである

秋には何とか再開できないかと願っているが、こればかりは我々の力を超えている

場合によっては、ZOOMの導入も考えなければならなくなるかもしれない

いずれにせよ、状況が好転することを願うばかりである



さて、先日送られてきた『免疫学者のパリ心景』の書影だが、フランスの詩的な香りが感じられ、なかなかよい

今日も眺めて見ることにした

これから折に触れて、章の中の節立てを紹介したい

まず、第1章「なぜフランスで哲学だったのか」
1.フランス語との遭遇

2.抱えていた実存的問い

3.フランスでの「全的生活」を模索する

4.刻印を残した二人の哲学者: ピエール・アドーとマルセル・コンシュ

5.フランスの大学院教育を受けて

5-1.マスターコース

5-2.ドクターコース


この章では、フランスに渡るまでの心の軌跡を振り返り、 大学院教育を受ける過程で感じたことを綴っている

これからフランスでの学びを考えている方にも参考になることがあるのではないかと想像している

また、基本には生きるということについての省察がある

その意味では、この世界に在るすべての方の力になることを願って書かれている


エッカーマンに「書物はもう出来つつある時から運命を持っている」という言葉がある

この伝で行けば、この本もすでに運命付けられていることになるが、それはどのような運命なのだろうか

エッカーマンが願ったように、「幸運に恵まれて多くの人の心に適い、よきことの数々を生み、また広めるに至らんことを」わたしも願いたい







2022年5月13日金曜日

シェリング『学問論』第6講を読む(つづき)




















「心理学と哲学」について

本性的に無味乾燥な論理学を人間学的・心理学的知識によって変えられると考えるのは間違ってはいない

ただそれは、哲学を論理学に置換しようとする者が心理学に向かう性向を持っていることと同じである

心理学は魂と身体が対立するという想定に基づいている

しかし、身体に対置された魂など存在しない

真の学問は、魂と身体との本質的で絶対的な統一の中にだけ求められるものである

従って、心理学が齎すものについても容易に想像がつく


真の哲学と同様、真の自然科学もすべての事物における魂と身体との同一性(すなわち理念)からしか生まれない

なぜなら、魂に生きているのが理念であれば、自然のあらゆる事物の中に生きているのも理念だけだからである

この点で対立させられた心理学が、哲学に取って代わり得るなどということはないだろう


心理学は理念の中にある魂を知らない

心理学は魂が現象したあり方(身体)との対立においてのみ、魂を知っているのである

従って、人間の中のすべてのものを因果関係に従属させ、絶対的で本質的なものから現れてくるものを認めない

そのため、人間の内では何も神的仕方では生じないという考えになり、絶対的なものについての学問である哲学に反対し、それが宗教、芸術、道徳にまで適用される

哲学の理念は、お粗末な心理学的錯覚のいくつかから説明されることになる

その帰結は、全てのものは似たり寄ったりであるとする一般的体系になる


事実に立脚しようとする経験的な哲学、単に分析的で形式的な哲学は知へと至ることはできない

絶対知には至ることができないのである


「近代世界と二元論」について

近代世界は、一般的に対立の世界である

古代世界では一緒にされていた有限なものと無限なものが、絶対的対立として現れたのである

二元論は近代世界の必然的現象である


「主観性の哲学の流れ」について

主観的なものと客観的なものとの対立は頂点に達した

二分化を明確にしたデカルト以来、スピノザを除いて二分化に反対する現象は存在しない

このように理念が引き裂かれてしまったことで、無限なものもその意味を失い、無限なものの意味も単に主観的なものになった

デカルトは「我思う、故に我あり」によって、絶対者の理念に主観性に向かう方向を初めて与えた

彼は神・世界・魂についての考えを、哲学よりは自然学の中で語っている

何らかの対立を残しているような哲学、絶対的な調和を打ち立てていない哲学は、絶対知にまで突き進むことはできないし、絶対知にまで自己を作り上げることもできない


「哲学の使命」について

自らの哲学に課さなければならない課題は、本性上絶対者の認識でもある真に絶対的な認識を追求すること、総体性にいたるまで、一切を一者のうちに完全に把握するまで追求することである

近代世界の最後の使命は、真にすべてを包括する高次の統一を表現することである

そのような統一が存在するためには、あらゆる対立を分裂しなければならない













2022年5月12日木曜日

シェリング『学問論』第6講を読む


























今日は、第6講「とくに哲学の研究について」を読むことにしたい

興味深い議論が展開されるのではないかという期待を抱かせるテーマである

項目は以下のようになっている

   「哲学は学べるか――弁証法と哲学」
   「哲学の真の目的」
   「論理学と哲学」
   「心理学と哲学」
   「近代世界と二元論」
   「主観性の哲学の流れ」
   「哲学の使命」

では始めたい


「哲学は学べるか――弁証法と哲学」について

哲学は訓練や勤勉さによって学ぶことができるのか、あるいは、天性のもので神意によって与えられるものなのか

哲学はそのものとして学ぶことができない

哲学の形式に関する知識(哲学史の知識)は訓練や勤勉さによって獲得できるが、それは絶対者を捉える能力とは別ものである

ただ、哲学は学べないというのは、自然に哲学できるということを意味しない

哲学は学べないが、訓練できる部分がある

それが弁証法という技術的な側面である

弁証法の技術なしには学問としての哲学はあり得ない!

哲学の意図は、あらゆるものを一つのものとして記述し、根源知を表現しようとすることである


「哲学の真の目的」について

絶対的なものとは、普遍と特殊とを一つに形成する永遠の試みであり、この絶対者の内的本質から現象する世界に理性と想像力が流れ出てくる

この理性(理念的なものの内にある)と想像力(実在的なものの内にある)は同じものである

想像力によって生み出された真の芸術作品であれば、理念の内に統一されている矛盾と同じ矛盾の解決である

しかし、単なる反省的悟性は、対立するものの総合を矛盾として捉えるのである

哲学の創造的・産出的能力は、自らを形成し、高め、無限なものにまでポテンツを高めていく

理念に対する感覚がない場合、人はそれを創り出すことはできない


ものの本質を探究したいという衝動や欲求は、例外なく人間の中に深く植え付けられている

そのため、その目的に合いそうなものがあれば、中途半端なものでも喰いついてしまう

そうでもなければ、哲学の皮相極まりない企てが興味を引き起こすことを理解できない

非哲学(啓蒙哲学か)は常識的であるだけで健全な悟性とするが、それは真理という現金を欲し、そのための手段の不十分さに目もくれない

そのため、粗野な独断論哲学の怪物を作り出す

それは、有限なものを無限なものへと拡張しようとする


意識の事実を超えて、それ自身において絶対的であるようなものへと出ていくこと、これこそがすべての哲学の根源的な意図なのである

事物に関する通俗的で有限な見方について疑うだけでは、哲学にならない

そうした見方の空虚さを明確に認めるところまで行かなければならない


「論理学と哲学」について

論理学と呼ばれているものは、哲学における経験的な試みに属している

第一に、論理学が形式の学、哲学の純粋な技術論だとすれば、弁証法と同じ性格のものでなければならないが、それは存在していない

第二に、論理学が有限性の形式を絶対者との関係において叙述すべきものだとすれば、学問的懐疑主義でなければならないが、それには該当しない

第三に、論理学が純粋に形式的で、知の内容や実質と反対の学問であるとすれば、哲学に対立する科学になる

この論理学は、通俗的な悟性の法則を絶対的なものとして立てる経験的学理である

これは有限性の領域では正しいが、思弁においてはそうではない

第四に、法則が反省された認識にとって必然的な法則であることを、思弁的根拠から証明することに携わるのが論理学だとすると、それは絶対的学問ではなく、普遍的な体系における一つの特殊なポテンツ(展相)になる

悟性に従属する理性は推論する能力と見做され、どこまでも制約されたものである

しかし、本来の理性は絶対的な認識方法である

悟性形式を持った理性以外に理性がないとすれば、無制約的なものや超感覚的なものの直接的で確固とした認識には至らない



◉ 「心理学と哲学」、「近代世界と二元論」、「主観性の哲学の流れ」、「哲学の使命」については、明日以降に取り上げる予定である











2022年5月11日水曜日

『免疫学者のパリ心景』の書影届く

































拙著『免疫学者のパリ心景―新しい「知のエティック」を求めて―』(医歯薬出版)の書影が編集者の岩永氏から送られてきた

印刷が終わり、これから製本作業に入るところで、ダミー?の本が出来上がったとのこと

かなり立派な文芸書という風情で、内心赤面している

章立ては、以下のようになっている
第1章 なぜフランスで哲学だったのか
第2章 この旅で出会った哲学者とその哲学
第3章 科学という営み、あるいは科学者を突き動かすもの
第4章 科学と哲学の創造的関係を求めて
第5章 「現代の超克」のためのメモランダム


本の中には、わたしも「エッ」と驚いた遊び心の仕掛け?がある

それも含めて、是非お手に取ってお楽しみいただければ幸いである

刊行予定は6月22日になっている

よろしくお願いいたします






2022年5月10日火曜日

シェリング『学問論』第5講を読む(つづき)




























「さまざまな学問からの非難」について

哲学が国家や教会にとって危険であるという声が出始めて以来、学者の方も哲学に反対の声を挙げるようになった

しかし、ある学問が哲学と対立するとすれば、それは学問ではないだろう

あらゆる学問は哲学によって一つになっているのである

学問に対する尊敬を注ぎ込むのに、哲学を徹底的に研究する以上に相応しいものはないのである

哲学で真理の理念に到達した人が、他の分野で根拠なくバラバラになっているものから、もっと深く、もっと根拠づけられた、もっと密接に連関し合ったものを求めるようになれば、その学問にとっても有益なことになる

如何なる学問を究める場合でも、哲学から真理の理念を受け取っていなければならない

実際、わたし自身、哲学の影響によって自然科学のあらゆる分野に対する熱意が、より広範に蘇ってきたのである

哲学は、包括的なもの、普遍的なものへと向かおうとする

しかし、哲学によって掻き立てられた包括的、普遍的なものへの衝動に釣り合うだけの豊かな古典の教養がなければ、学問は均衡を失い倒壊してしまうだろう


「哲学は流行に属するものだとする非難」について

哲学が青年に及ぼす害悪について語る人たちは、哲学を手にしていたか、いなかったかのいずれかである

後者の場合、一体どうしてそのようなことが言えるのか

前者の場合、哲学が効用を持たないことを洞察するという効用――それはソクラテス以来のものであるのだが――は知っているはずだが、なぜそのことを言わないのか

彼らが自分たちの忠告に何の効果もないことが分かると、こう言い始める

哲学は流行に属するもので長続きせず、新しいものが現れては過ぎ去っていくものである

哲学の見かけ上の変化は、無知なる人々にのみ存在し、哲学には何の関係もない

哲学と自称しているものに哲学の欠片もないことがある

それをはっきりさせるために、哲学は研究されなければならないのである


あるいは、見かけ上の変化が哲学に関係することもある

この場合、哲学の本質は古代ギリシアから変わっていないが、哲学の形に変様があることになる

このようなことが起こるとすれば、哲学が未だ究極的、絶対的な形態をまだ獲得していないことを意味している

新しい哲学とは新しい形式を持ったものでなければならない

哲学者に固有な優れた点は、それぞれが等しく独創的であり得るということである

絶対的形式を獲得するためには、精神はあらゆる事柄において自分自身を試さなければならない

哲学が流行に属すると中傷する人は、それほど真剣に考えているわけではないことがあり、安易に哲学と和解する

流行には追随したがらないが、流行遅れにもなりなくないので、最新の哲学から何かを掴み取り、自分の身を飾ることも厭わないのである








2022年5月9日月曜日

シェリング『学問論』第5講を読む


























今日は第5講「哲学の研究に対して通常なされる非難について」を読みたい

前講を引き受ける形で、次の5つの非難を迎え撃っている
「哲学は国家にとって危険であるという非難」
「通俗的な悟性の立場からの非難」
「功利主義の立場からの非難」
「さまざまな学問からの非難」
「哲学は流行に属するものだとする非難」
では早速、始めたい


「哲学は国家にとって危険であるという非難」について

この非難は広く行き渡っているが、それを取り上げることにしたのは、これまでの反論が適切ではなかったからである

哲学は自分自身の内的根拠にのみ従うもので、国家や宗教のような人間が造ったものには煩わされないのである

そのような哲学の何が国家にとって危険なのか、何が哲学から出てきたのかを問えば答えは明瞭である


「通俗的な悟性の立場からの非難」について

学問のうちの一つの方向性は国家に対して有害であり、もう一つの方向性は破滅的である

第一の方向性は、通俗的な知が絶対的な知に背伸びしようとしたり、絶対的な知を判定する地位になる場合である

もしこの傾向を国家が助長する場合、通俗的悟性は自らが理解できない国家の上に立つことになるだろう

ここで言う通俗的悟性とは次のようなものである

粗雑でまったく無教養な悟性であり、偽りの皮相な文化によって空っぽな理屈をこねる教養に至った悟性である

通俗的悟性は俗っぽい根拠で国家の根本形式に攻撃を仕掛けることがある

教養主義を自称しているこのあり方は、哲学と正反対のところにある

理屈をこねる悟性を理性の上に引き上げて悲惨なことになったのは、フランスで見たところである

だからと言って、哲学は法の維持にとって危険であるというようなことは馬鹿げている

フランスではあらゆる学問において理屈をこねる人たちが哲学者の名を奪い取ってきた

一方、我が国では真の哲学者であれば、そのような人に哲学者の名を許すことはないだろう

通俗的悟性を祭り上げてしまうと、学問に衆愚政治を引き入れ、やがて学問以外のところにも粗野な人間の台頭を引き起こすことになる


「功利主義の立場からの非難」について

第2の破滅的な方向性は有用なものだけを目指すことで、それはやがて国家体制にも当て嵌まることとなる

しかし、これほど移ろいやすいものはない

なぜなら、今有用なものが明日にはそうでなくなる可能性があるからだ

この傾向が拡大していけば、国民の中にあるすべての偉大なものや活力は窒息させられることになる

国家も個人も私利私欲に走ることになり、個人と国家を結びつきは危ういものになる

真の絆は、無制約的なもののみを意志するがゆえに自由であるような、神的なものでなくではならない

哲学がある国民を偉大にすることがあり得るとしたら、それは全く理念のうちにあるものだろう

ドイツでは古い国民的性格はすでに解体しているが、それを呼び覚ますことができるのは内的絆だけであり、宗教や哲学だけである

偉大なる使命に召されておらず、小さくて平穏なだけの小民族には、偉大な動機も必要とされない

こうした民族にとっては、ただ飲食に事欠かぬこと、産業に専念することができればそれで十分である

政府が功利的精神に親しむようになると、芸術や学問に対しても功利的精神だけを追求するよう指示することとなる

このような国では哲学は何の役にも立たず、諸侯たちも一般民衆と同じようになろうとし、国王もその地位を恥じ、単に市民の筆頭であろうとする

哲学も崇高な領域から卑俗なところへと落ちることは間違いない

粗野な人間さえ著述を始め、どんな平民でも裁判官の地位に上るようになって以来、高貴と低劣との区別がつかなくなっている

この潮流に歯止めをかけられるのは、哲学である

哲学の本性を表す格言はこの一句である
私は下劣なる愚民を憎み遠ざける(ホラティウス)



◉「さまざまな学問からの非難」と「哲学は流行に属するものだとする非難」については、明日以降に取り上げたい











2022年5月8日日曜日

シェリング『学問論』第4講を読む(つづき)

























「理念の認識と数学」について

数学を構成する解析学と幾何学の各々において、形式は絶対的な認識の仕方が支配していなければならない

数学的認識は単なる抽象的概念の認識でも具体的事物の認識でもなく、特殊な直観のうちに表現された普遍的理念の認識である

普遍的なものと特殊なものをその統一において表現することは一般に「構成」と呼ばれる

それは「論証」と同じである


科学におけると同様、日常の知識においても支配的な「因果結合の法則」を純粋な理性同一性の領域へ高める認識様式は、外的目的を必要としない

数学が、例えば天文学や物理学一般に大きな影響を与えたとしても、その結果からだけでは数学が持つ絶対的性格を認識したことにはならない

そのためには、まず数学自身がその根源へと立ち還り、そこに表現された理性の範型をより普遍的に把握する必要がある


数学の諸形式とは、象徴(記号)である

現代の数学者からは、ユークリッドが所有していた象徴を解くための鍵が失われている

それを見出すには、象徴を徹底して純粋理性の形式――客観的形態をとって他のものへ姿を変えて現れる理念の表現――として把握するだけである

しかし現代の数学の授業は、これらの形式が持っていた意味へと遡ることはしない

そこで重要になるのが哲学である

学生には根源的学問としての数学の可能性、そして幾何学と解析学との対立に注意してもらいたい

これは実在論と観念論との対立に対応しているのである


「哲学とその直観」について

根源知の他に依拠すべき如何なる原像も持たない学問とは、あらゆる知の学問、哲学である

哲学が根源知の学問であるという万人が認める証明はできない

しかし、そのような根源知の学問が必要だということは証明できる

しかも、そこに出される概念は哲学のものではないだけではなく、そもそも学問たり得るものの概念ではないことも証明可能である


哲学と数学は、ともに普遍的なものと特殊なものとの絶対的同一性に基づいている点で等しい

しかし、哲学の行う直観は数学のものとは異なり、反省的な直観ではあり得ない

哲学の直観は直接的な理性直観(知的直観)で、その対象(根源知)と同一である

知的直観において何かを表現することは、哲学的に「構成」することである

あらゆる統一の根底にある普遍的統一性と同様に、特殊な諸々の統一も、根源知が有する絶対性と同じ絶対性をそれぞれのうちに受容しているので、理性直観のうちにのみ含まれることができる

つまり、哲学は理念の学問、事物の永遠の原像についての学問である


知的直観なしに哲学はあり得ない!

哲学の場合、直観もことごとく理性のうちへと帰っていくので、哲学的直観を持たない者は、その直観について語られていることを理解することができない

つまり、哲学の直観は目に見える形では与えられないのである

哲学的直観を持つための条件は、一切の有限な認識が空虚であることを明晰に心の底から洞察していることである

我々はこの直観を自分の中で培うことができる

哲学者においては、直観が一切を理念において現れるがままに見る熟練した能力にならなければならない


哲学の効用について語ることは、この学問の品位に関わると思う

そもそも哲学の効用を問題にし得るような人間は、きっとまだ一度たりとも哲学の理念を持つことができなかったのである

哲学はそれ自身によって有用性との関係を全く離れて語られる

哲学はそれ自身のためだけに存在するのである

もし他のもののために存在するとすれば、哲学はその本質そのものを直ちに廃棄してしまうだろう


一方、哲学に対する非難について語ることが全く無駄だとは思わない

哲学はその有用性のゆえに推奨されるべきではない

しかし、哲学が有害な結果をもたらすという虚構によって、外の社会との関わりを持つことが制限されるべきではない


















2022年5月7日土曜日

シェリング『学問論』第4講を読む

























総論が終わり、これから各論に入る

今日は第4講「純粋な理性学である数学と哲学一般の研究について」を読みたい

本講は次の5つに分かれている
「根源知と学問」
「特殊知と普遍知の対立」
「空間と時間」
「理念の認識と数学」
「哲学とその直観」
いつものように、粛々と進めたい


「根源知と学問」について

根源知とは、全ての学問が生じる源であると同時に、帰着する終極である一なるものである

そこから末端の諸分肢に生命(認識を学問として体系化する原理)を導かなければならない

根源知は、学問(哲学と数学)の中で自己を反省する

反省する側の知と反省される側の根源知は一つに合一している


「特殊知と普遍知の対立」について

根源知を会得するには、そうでない知との対比による他ない

特殊なものの認識に至る方法を説明することはできないが、それは絶対的認識でも無制約に真なる認識でもあり得ないことは言える

ただ、これを経験主義的懐疑論や粗雑な経験主義一般の意味で理解しないでほしい


経験主義的懐疑論は、特殊なものに向けられた表象の真理性を感覚器の錯覚を基に疑うものである

その場合、錯覚がなければ自らの感性的認識を確実なものと見做してしまう

また、粗雑な経験主義一般は、感性的表象そのものの真理性を疑う

表象は触発を介して心にのぼってくるが、触発が持つ根源性が疑わしいとするからである

しかし、知と存在の因果関係(知を触発によって説明すること)自体が感性的錯誤なのである


知はそもそも限定された知であるので、依存的で制約付けられ、常に変化し、多様で異なったものになる

知において限定されたものは「形式」である

知の本質は一であり、すべてのものにおいて同一なので限定されることはない

つまり、知と知を区別するものは「形式」である

「形式」は特殊な知の中では本質と関係なく現れるので、実在ではなく仮象であり、それゆえ真の知ではない


特殊な知に対する純粋に普遍的な知は、特殊知から抽象されたもので、抽象的な知と呼ばれる

これが如何に生じるのかについても説明できないが、特殊知は形式が本質に合致していないのに対して、普遍知は形式を欠いた本質として悟性の前に現れてこざるを得ない

形式が本質を通じて認識されなければ、実体の持つ特殊で感性的なものが普遍的概念からは永久に洞察できない


真に絶対的な認識の究極の根拠と可能性は、普遍的なものが同時に特殊なものであるという点になければならない

これが諸理念を理念たらしめる理念であり、絶対者の理念である

すなわち、絶対者はこの同一性でのみあるのだから、対立項のどちらでもない


「空間と時間」について

一切の活動の否定を伴う純粋な存在が空間である

空間も抽象的概念でもなければ、具体的事物でもない

空間はそれ自身である通りのもので、存在はそれ自身のうちに概念を汲みつくしている

空間は、絶対的に実在的であるがゆえに、絶対的に観念的でもある


空間が一切の活動の否定を伴う純粋な存在として現象するならば、空間に対立する形式は、一切の存在の否定を伴う純粋な活動として現れなければならない

純粋な活動という理由から、それは自己とその対立物との同一性で、それは純粋な時間である

如何なる存在もそれ自体としては時間のうちになく、存在の様々な変化のみが時間のうちにある

この変化は活動の表出、存在の否定として現象するのである

空間に当て嵌まることは時間にも当て嵌まり、時間は普遍的なものと特殊なものとの同一性として、抽象的概念でも具体的事物でもない

時間と空間のうちに表現された統一が学問の基礎となるとすれば、学問自体は、理念の単なる反映である世界に属するものの、それにもかかわらず形式の点では絶対的なものでなくてはならない




◉「理念の認識と数学」と「哲学とその直観」については明日以降に回したい















2022年5月5日木曜日

シェリング『学問論』第3講を読む


























今日は、第3講「大学における研究の最初の前提について」を読みたい

本講の構成は、以下のようになっている
「本講の意図」
「学問・研究の歴史的側面」
「学問・研究の芸術的側面」
「手段となった学問・研究の弊害」
「大学以前の勉学」
「語学の学習と文献学」
「以下の講義の展望」
では、早速始めたい



「本講の意図」について

学問を目指すものの目的、学問の理念については、これまでに触れた

ここでは、学問を職業とする者に求められる一般的要件について述べる


「学問・研究の歴史的側面」について

研究の概念には、二つの側面がある

一つは歴史的側面で、それ故、只管学習することが求められる

これはすべての基礎になるもので、好みによって恣意的にやるのではなく、やらなければならないことをやり通さなければならない

この訓練により、気紛れなやり方や断片的思考から離れることができ、求められるものをすべて汲みつくした総体へとまとめ上げることができるようになる


しかし、最上位の学問が通俗的な色調を帯び、万人の理解力に適うべきものと見做され、概念を大雑把にしか受け取らない緩み、表面的な当たりの良さ、浅薄な満悦が欠かせぬものになっている

これは近代の教育学が不徹底さの潮流に掉さしたためである

大学の退屈、冗長、精気のない徹底性に対する怨嗟が、不徹底性の潮流を引き入れたのである


「学問・研究の芸術的側面」について

第二の側面は形式の側面で、これは芸術と共通する

形式は訓練を通してのみ我がものとすることができる

従って、授業は訓練を主眼とすべきなのである

学問には特殊な形式があるが、そこには普遍的で絶対的な形式が宿っている

ただ、既成の特殊な形式を学習しても何かを体得したことにはならない

真の消化吸収は、自己自身への内的変容なしにはあり得ない

要約すれば、「自分自身で創造するためにのみ学べ」である

産出というものは、普遍と特殊の出会い、相互浸透に基づいている


「手段となった学問・研究の弊害」について

認識には理性的認識と歴史的認識がある

前者は根拠の認識を担い、後者は単なる事実の学問とされる

より直接的に生活の用に資する学問は、「口過ぎの学問」(パンの学問)と呼ばれる

学問を自分にとってどのような有用性があるのかという観点からしか考えないからである

結果を知るという一点が目的になり、根拠は完全に無視されるのである


こうなるのは、学問を単なる経験的使用のために習得しようとするからである

それは自分自身をも手段と見做すことになる

この道を選んだ場合、第一に、真に体得することにはならない

知識が記憶によって維持され、特殊を普遍の中に包摂するための判断を欠いているからである

第二の結果は、進歩する能力が全くないということである

真の進歩は絶対的原理から評価しなければならないため、特殊なものしか学習できない場合にはそれができなくなる

真の発見は普遍において成されるのである


「大学以前の勉学」について

大学以前に習得されるような知は、「知識」と呼ぶ以外にはないようなものである

上級の学問(神学部、法学部、医学部)を知識という形で獲得することはできない

また、真の意味で絶対性に到達することがあり得ない年代に対して、絶対性に立脚する知を先取りして与えるのは賢明ではない

全体の連関の中でのみ真価を発揮し得る知識についても同様である

一つひとつの学習段階に留まることが肝要なのである

大学に入る前に習得すべきは、将来の補助手段となる機械的な要素である


「語学の学習と文献学」について

語学学習は後年のあらゆる段階の学問形成にとって必要不可欠なステップで、避けて通ることはできない

ここでは、若年期の語学学習に絞って話す

若年期に古代言語を学習することに対する異論が、近代教育学の側から唱えられている

その根拠は薄弱で、反駁には及ばない

その主たるものは、暗記中心の教育に反対する的外れな熱意によって吹き込まれたものである

偉大な指揮官も、偉大な数学者、哲学者、詩人も、記憶の容量と活力なしには存在し得ない

近代教育学は、このような人間ではなく、勤勉で有用な市民的人間の養成を目的にしていたのである

若年期に機知や洞察力や着想力を訓練するには、古代言語に取り込む以外に適切なやり方を知らない


文献学という高い目的にとって、言語知識は手段に留まる

文献学者は単なる語学者とは異なり、芸術家と哲学者とともに最高位を占める者である

生き生きとした直観の中で芸術や学問の歴史を捉え、描出するのがその任務である

大学では、文献学のみを教授すべきなのである

我々にとって生命を失ってしまった言葉の中に、生き生きとした精神を認識することは、感受性の直接的陶冶となる


「以下の講義の展望」について

これから大学での研究の個別分野を論じるが、研究の土台を築き上げるには学問の有機的全体を構成することが不可欠となる

そのためにはすべての学問の相互連関を明らかにし、内的有機的統一が大学を通して持つに至った客観性について説明しなければならない

このシリーズでは対象を論じ尽くすことはせず、語るべきでないことを語らぬよう用心したい













2022年5月4日水曜日

シェリング『学問論』第2講を読む




























今日は、シェリング『学問論』の第2講「大学の学問的および道徳的使命について」を読みたい

この講義は、「大学における研究の制約」「現在の大学の実状」「大学の本来のあり方」「大学の道徳的・社会的使命」の4つのセクションに分けられている

以下、淡々と進めたい


「大学における研究の制約」について

大学における学問研究を理解するためには、第1講で触れた「根源知」に還らなければならない

それは、他に依存しない自立した最高の理念であり、現存する諸制度の形式に囚われないものである

しかしそのような形式や外面的制約は、近代世界においては必然であり、さらに洗練されるまでは残存する


真なるものは本性上永遠であり、時間の中にあっても時間とはかかわりを持たない

しかし学問は、個人によって語られるかぎりにおいてのみ、時間と関わる

ただ、知自体は個人のものではなく、理性が知るのである

学問が永遠であるということは、伝承されなければならない

個人が本能から意識へ、獣性から理性へと高めてきたわけではなく、人類の蓄積があったためだと考えられる


道徳も個人に固有のものではなく、全体の精神から流れ出たものである

学問と同様に、人類の公共生活と共有されて生命を得た

現代の精神には、既存のものそれ自体の究明が求められる

注意すべきは、過去そのものを学問の対象とすることと、過去についての知識を知の代わりにすることの違いである

後者の場合、「原像」(Urbild)には辿り着けない

アリストテレスも自然そのものを問題としたのである


「現在の大学の実状」について

大学は歴史的な知を学ぶことに充てられ、知があらゆる孤立した特殊学問になり、普遍的な精神や知そのものが失われて行った

このような状況において、大学に対してどのような要求を出すことができるのか

それは、普遍的なもの、絶対的知の精神においてすべての学問を扱えということである

そのために、教師に精神的自由のみを与え、学問以外の考慮で彼らを束縛するのを止めることである

そうすれば、教師はその要求に沿うように自らを形成しようとするだろう


国家が大学を学問的な機構と見做そうとしているならば、理念を生かし、最高に自由な学問活動を求めなければならない

もし、大学が国家の意図の完全なる道具となる僕を形成するものに成り下がってしまえば、学問は死滅する

役に立たない、有用性がない、使えないといった理由で理念が斥けられるような場合がそれである

総合大学が目指すべきものは有機的な生命で、絶対的な学問から導かれた共同の精神(という生命原理)が必要である


「大学の本来のあり方」について

普遍的なものだけが理念の源泉で、理念は学問の生命である

個別の専門の中に埋もれ、それが全体との連関について目が行かない者は、学問の教師の資格がない

この要求は、専門分野を全体の手段と見做すことではなく、むしろその逆である

学問を役に立つものとしてのみ捉える人たちは、大学を単なる知識伝承のための施設と見做しがちである

たとえそうであっても、伝承は精神を込めて成されなければならない

その必要を認めない場合には、易しい教科書や資料の寄せ集めを読むだけに終わるだろう

自らの学問全体を自分自身の力で構成し、内面的な生きた直観で叙述することができない時、単なる歴史的講述をせざるを得なくなるのである

これほど精神を駄目にしてしまうものはない

優れた教師は、単に結果を示すのではなく、結果に到達する方法そのものを叙述し、学問全体を学生の目の前で生起させる


「大学の道徳的・社会的使命」について

市民社会は理念と現実との決定的な不調和を顕わにしている

それは、理念から生まれる目的とは違う目的を追求しなければならなかったり、目的が生み出した手段が強力になり目的が見えなくなったりするからである

市民社会は絶対的なものを損なってでも、経験的な目的を追求しなければならない

大学では、学問以外のものが重視されるべきではなく、才能と教養による差異以外は存在すべきではない

そうならないとすれば、それは大抵教師の責任である


学問の世界は、民主政治ではなく、いわんや衆愚政治でもない

最も高貴な意味での貴族政治なのである

最も優れたものが支配しなければならない

無能な者が引き立てられることさえなければ、才能あるものを保護する必要もない

この政策が行われれば、その機関は充実し、内には品位が、外には名声が高まるであろう


理性的思惟への教養――人間の本質そのものの中に浸透する唯一真なる学問的な教養――は、理性的行為への唯一の教養でもある

教養を完成し、自身の特殊な学問から絶対的な知へと到達した者は、明晰と思慮の王国へと高まっている

人間が絶対的意識にまで透徹し、完全な光明のうちに生きるならば、一切は得られたのである

学問は絶え間ない自己形成であり、直接自己との同一性へと、またそれによって真に浄福な生へと導く直観へと向かわせる









2022年5月2日月曜日

シェリング『学問論』第1講を読む














シェリングの『学問論』を読み進むことにしたい

この講義は1802年夏にイェーナ大学で行われたものである

第1講は「学問の絶対的概念について」となっている

仮に「講義の意図」、「根源知」、「知と行為」の3つのセクションに分けられている


まず「この講義の意図」について

大学に入っても学問研究の羅針盤がない場合、次の2つのケースが想定される

一つは、核心に迫ることなく、無秩序にあらゆる方向を彷徨い歩くケース

二つは、それほど素質がない場合に起こることで、低俗なことに没頭したり、あるいは将来の外面的生活に必要だと考えるものを機械的に、記憶力に頼って詰め込もうとするケース

このようなことが起こるので、研究の目的と方法に関する授業が必要である

もう一つの問題は、専門の中に埋没して普遍的なもの、絶対的なものについて考えが及ばないことである

専門に入る前に、全体の認識、全体における専門の位置の確認が欠かせないのである

「普遍、絶対」に我々の本性を解き放つためには哲学が相応しく、その仕事は哲学にのみ期待できる


「根源知」について

探求の基礎にあるものとして、それ自身において無制約な知、知の中の知である「根源知」がある

それは、観念的なものであると同時に実在的なものであるという統一性で、絶対者の理念である

つまり、あらゆる知が神的存在と結び付こうとする努力であることを示している

個別の知は「根源知」の部分として含まれているので、「根源知」に関わりのない知は実在性も意味もない

この統一性と全体性との精神において考えられていない思想はすべて空虚であり、廃棄されなければならない


「知と行為」について

よく「行動せよ!」という声が聞こえる

そう叫ぶ人は知に不得意な人である

知、特に哲学的な知は、誰でもできることではない

行為の目的となる知とは、どのような知なのか


絶対者の本性は、絶対に観念的なものが同時に実在的なものであることであった

絶対知はどの活動においても、この不可分の二重性がなければならない

時間の中にある知と時間の中にある行為では、知と行為は必然的に分離する

しかし、理念の中では知と行為はその絶対性のゆえに、一である


有限性の中で把握される限り、両者は対立する

知を行為への手段として把握する場合には、必然的に対立が生じるのである

それは知を日常の実践から得た概念でしか捉えられないからである

その場合、学問は何かの役に立つことに貢献すべきだと考える

彼らは絶対的な知と行為の関係を理解していない

そのため、一方を他方の手段と見なすことになるのである


根源知でないような真の知は存在せず、それ自身のうちに神の本質を表現しないような真の行為も存在しない

それは、絶対的な必然性による以外に真の自由は存在しないという関係と同じである







2022年5月1日日曜日

シェリングの『学問論』を読み始める



















本屋さんで帯に惹き付けられ、手に入れた

新訳として出たばかりのシェリング(1775-1854)著『学問論』

帯には「国家は哲学に対しては無制限の自由のみを与える義務がある」とあった


まず、後ろにあった本書の成立背景や解説に目を通す

わたしの中に出来上がっているものとほぼ完全に重なる内容のようである

シェリングの考えはその後のいろいろな本にも表れていると思われる

それをわたしも読み、納得したために自分の考えとして沈殿して行ったのかもしれない


「自分の考えを知るためには、過去人を読まなければならない」というフォルミュールを作ったことがある

そのメカニズムは、実はこういうことだった可能性がある

シェリングの主張は大体予想されるが、読み進むことにしたい






2022年4月30日土曜日

4月を振り返って














4月ももう終わりになった

今月やったことを以下にリストアップしてみたい


1)免疫に関するエッセイのファイナルバージョンを作成した

興味深いと思ってくれるところがあることを願うばかりである


2)「医学のあゆみ」のエッセイシリーズを纏めた本の形が明らかになった

タイトルは『免疫学者のパリ心景―新しい「知のエティック」を求めて』

医歯薬出版から6月22日刊行予定となった

外側は非常にいい感じに仕上がっている

中身についても期待を裏切ることはないとは思っているが、こればかりはお確かめいただく以外に道はない

幅広い方に届くことを願っている

是非、お手に取っていただければ幸いである


3)ヒラリー・パットナムのエッセイを読んだ

今月は本棚で偶然見つけたヒラリー・パットナム(1926-2016)のエッセイ集を読むことになった

論理展開が小気味よく感じた記憶を頼りにしたものだったが、途中から付いて行けなくなった

好みの哲学者になるかとも思ったが、残念ながらその中には入らなさそうである


4)函館まで短い旅に出た

縛りから解放されたように思った時、突然出かけることにした

そこでは忘れていた過去が蘇り、貴重な経験となった

ただ、インパクトから言うと外国での経験とは比較にならない

そうではあるが、機会を見てどこかに出かけるのも悪くはないだろう






2022年4月29日金曜日

久し振りの会食













今日は久しぶりの会食となった

写真右から、長谷川、片桐、西川の各氏

前回集まったのがいつだったのか調べたところ、2019年秋になっていた

コロナ禍とはいえ、久し振りである


今回は西川氏が旭川医大の学長になったばかりだったので、お祝いを兼ねての会食となった

長い間、前学長が「独裁的」な運営をしていたとのことでニュースにもなっていたようだ

長い間だったために独裁的になったのか

あるいは、独裁的な人物だったので長く留まろうとしたのか

いずれにせよ、現象をそのまま(科学的に)表現するとすれば、最初の表現となる

ということで、新学長には古い柵を解きほぐしながら、新しい大学を再建する仕事が課せられているようであった


前回も話題になっていたが、大学の目的が職業教育をすることに絞られていることに違和感があるというお話であった

その違和感にはわたしも共感するのだが、役人も含めた社会が要求しているのはそのレベルだという

遊びの部分がなくなり、広い意味での技術習得だけが教育の前面に出てきているようであった

我田引水ではあったが、拙エッセイ『免疫学者のパリ心景』には現在の流れに対するカウンターの視点がふんだんに含まれていると紹介させていただいた

学生さんや医療に携わる(若い)方にも読んでいただければ幸いである


日頃は頭の中で会話を繰り返しているが、偶には face-to-face の会もよいものである

また機会があればお会いしたいものである

ところで、今年はサイファイ研のカフェ、フォーラムを開くことができるだろうか

今の感触では秋にどうなるかというところだろうか

もう少し様子を見てみたい







2022年4月26日火曜日

トンネルを抜けると・・・


























このところ、先日の函館行の前の気分を確認する日々が続いている

身も心も軽くなり、これまでのどこかに籠っているような感じがなくなっている

長い目で振り返れば、これは十数年振りのことではないかという気もしてくる

暫くこの状態を味わうというのも悪くないのではないか

縛られることなく自由な気分で過ごすのも面白そうだ









2022年4月25日月曜日

ホワイトヘッドによる哲学



























ホワイトヘッドが考えた哲学の機能とは

哲学はすべての知的探求の中で最も効果的なものである

それは職人が石を動かす前に大聖堂を建てるものであり、精神の建造物の建築家である

精神的なものが物質的なものに先行するのである

哲学はゆっくりと動く

思想は長い間休眠する 

そして、言わば突然、人類はその思想が制度の中に具現化されていたことに気付くのである 

 




 

2022年4月24日日曜日

戦争と政治と哲学

























今月の初めに観たウクライナ情勢についてのテレビ番組のことが思い出された

やはり基本は敬意を払った話し合いか(2022.4.3) 


戦争はなくならない

国がある以上、場合によっては自らの立場を護る必要があるからだ

自己保存はオーガニズムの本能とも言えるものである

そして、戦争は富と結び付いている

富を求めるのも本能に近いのではないだろうか

人間には本能と感情があり、それがしばしば冷静な思考と判断を狂わせる

哲学が教える思惟は、本能や感情から離れたところに身を置いて観察し思考することである

本能や感情を制御することが必要条件になる

その思考が戦争に向かう道を避けることに繋がるかもしれない


哲学や学問が戦争を止めることができなかったというような話が聞こえてきた

それを直接的に哲学者や学者に求めるのは無理だろう

そんな力は持っていない

具体的に戦争を止めることができるのは、政治に関わっている人間であるはずだ

その意味では、この戦争がどのようにして始まったのかの検証が必要になるだろう

戦争を始めるのも止めるのも政治家であるとすれば、彼らが本能や感情から離れた思惟と判断をする手段としての哲学を身に付けることには大きな意味があるのではないだろうか

それ以前に、政治家を選ぶ我々がそのような思考をできるようになっていることが欠かせないのだが、、

このように考えると、上で特徴付けた哲学は政治においても基本的なところで極めて重要になることが見えてくる

勿論、即効性はないが、我々はこのように知性を鍛えていく必要があるのではないだろうか











2022年4月23日土曜日

トマス・ネーゲルさんの言葉を聴く



























パットナム(1926-2016)さんを続けようと思ったのだが、議論がわたしの興味から外れてきたようだ

付いて行けなくなったと言った方が正確かもしれない

これが分析哲学の議論なのだろうか

好みの哲学者に入るかと思ったのだが、現段階では見込み違いであったと言わざるを得ない



その代わりというわけではないが、トマス・ネーゲル(1937- )さんの言葉に耳を傾けてみた

我々はこの世界に投げ出されており、その状態を外からと内から、客観と主観で理解しようとしている

どちらか一方だけでは駄目で、その兼ね合いが問題である

例えば、この世界はすべて客観的に理解できるとする科学主義のような観念論は、我々を含めた世界の理解を貧しくするだけだろう

なぜなら、それ以外のものを捨象してしまうからだ


真理の探究には、想像力以上のものが必要になる

そこで求められるのは、他の可能性を、理想的にはなくなるまで、徹底的に排除すること

それだけに打ち込む状態にならなければならないということなのだろうか


また、こうも言っている

哲学を実際にそうであるより浅く難しくない何かに変えようとする誘惑が常にある

哲学は極めて難しいテーマであり、創造的な成果は稀にしか成功しないという一般的な規則に例外はないのである







2022年4月22日金曜日

パットナム「自然主義の中身と魅力」(4)

























「『自然主義』の不安定性」(2)


「自然主義者」自身によって最も還元主義的説明に抵抗するので、彼らから見れば問題があると見做されてきた言説の領域は、直接の言及、意味、信念、欲求のような「志向性のある」言説である

ただ、数学も同様に、しばしば問題と見做されている

なぜなら、よく言われるように、「我々は数学的実体と因果関係をもって相互作用できないから」

すでに19世紀にはブレンターノが自然主義的で物理主義的な心の説明を論駁するために、志向性の還元不可能性を取り上げていた

クワインは志向性が還元不能であるという点でブレンターノに喜んで同意するが、それは真の現象ではないと結論した
「ブレンターノの考えは、志向に関わる表現が不可欠であることと志向の自律的な科学の重要性を示すものとして、あるいは思考に関わる表現の根拠のなさと志向の科学の空虚さを示すものとして受け入れることができるかもしれない」
わたしの立場は、ブレンターノとは異なり、後者になる













2022年4月21日木曜日

パットナム「自然主義の中身と魅力」(3)

























「『自然主義』の不安定性」(1)


第1級の概念システムに含まれるものに関して言えば、クワイン(今日で言えば、サイモン・ブラックバーン)とバーナード・ウィリアムズはミニマリズムと呼ばれるものを代表しているが、そんなに多くの我々の言説を「第2級の概念システム」の範囲に退けるという考えに多くの自然主義者が居心地よく感じないのは理解できる

そしてこの居心地の悪さは、一部の「自然主義者」を以下のプロジェクトに駆り立てた

彼らは、クワイン、ブラックバーン、ウィリアムズらが第1級のシステム(ウィリアムズによれば「世界の絶対的概念」)から追い出した大部分は、実は第1級のシステムに「還元される」ことを示そうとしたのである

つまり、「自然主義者」の一翼が(物理主義的)「存在論的還元主義」の方向に押されたのである

リチャード・ボイド、そしておそらくジョン・レイルトンのような最も野心的な存在論的還元主義者は、倫理的に善であることの性質までも復権しようとしたが、そこまで行く哲学者は稀であった

ジェリー・フォーダーが有名だが、他にも「意味」の物理主義的説明をしようとした人たちがいる

さらに、ハートリー・フィールドやペネロプ・マディのような人たちは、数学の内容についても物理主義的説明をしようとした

問題は、このような存在論的還元主義が身近なサークルや少数の友人や教え子以外に支持者を得られなかったことである

そして、哲学においては常である「後ずさり」が始まるのだが、一体「自然主義者」はどこに後ずさりするのだろうか