vendredi 12 mai 2017

現象学事始め、あるいは二種類の反省



今日は夕方、急に雨が降り出し、雷が鳴り続いていた
昨日から空の様子がおかしいようである


フランスに渡る前、フランスの哲学教師をやっていた方から仏版ブログにコメントが届いた
そこには、ブログに溢れる活力は現象学的なものの反映であるとの診断が書かれてあった
さらに、私はフッサールやハイデッガーを愛するために生まれてきたとのお告げが添えられていた
このことは以前に触れたようにも思う
しかし、その意味は分からないままである

最近、移動の時にフッサールの『デカルト的省察』を読み始めている
やはり、日本語がピンと来ず、難しい
このような領域は、自分が同じような経験をしていなければ分からないことが多い
それ故、若い時から哲学をやる難しさを想像している
ただ、今日読んだところは言いたいところが分かったような気がした
一次意識と二次意識、あるいは意識の三層構造とも関係しそうに見えたからではないかと思う

それは反省というものにも二種類あるというところであった
一つは日常の出来事について反省するという意味での反省で、われわれが時々行うものである
「直進的」という言葉で表現されている

もう一つはそれとは別で、そこで起こったことや反省していることについて反省するものである
そういうものが存在するのかどうかということについての反省も含む
この場合、根源的な問いかけになるため、フッサールがエポケーと呼んだ過程が必要になる
「判断停止」と訳されていた

我流の解釈では、一度立ち止まって、存在するもの、経験したことを考え直すということだろうか
存在しているものは確かに存在しているのだが、それを現実ではなく現実の現象と捉えるのである
そこに一つのクッションができ、現実を少し離れたところから見る客観性が生まれるように見える
「もの・こと」により深く迫ることができそうである

日常における反省とエポケーを伴う現象学的な反省では記述のされ方も異なってくるだろう
そして、後者により最初の体験の意味が異なってくる可能性さえある
つまり、「関心を持つ」自我の上に現象学的自我が存在するという「自我の分裂構造」を採っている
前者が世界に関わりを持つ自我であるのに対して、後者は「無関心な傍観者」としての自我である

このテーゼがよく理解できるのは、その構造が自分の中にもあることが見えるからである
最初の仏版ブログにその傾向が現れていたということなのだろうか?
そのことには気付かなかったが、あったのかもしれない
自分が書くものの特徴については、なかなか分からないものである
これからも折に触れて、フッサールさんの考えを「反省」してみたい




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