2021年7月7日水曜日

エンツォ・パーチさんの日記から(8)















4 juin 1958

フッサールがデカルトのコギトを現象学の方法の中心に置いた事実を過小評価すべきではない。しかし、このことの意味を間違えてはいけない。哲学がコギトから出発しなければならないという事実は、哲学の領野を分析・数学的方法に還元することではない。コギトから始めるとすれば、その哲学者、そしてその人間は自分自身の中だけに、自身特有の個人の経験の中に、明白な現実の中でそれ自体として提示される生を発見することである。ここでもまた明白なことはとりわけ、我々の生のすべての内容(意味、感情、記憶、想像、見方)を議論の余地のない方法で、我々に直接的で全的に提示することであることにすぐに気付かなければならない。

すなわち、間接的に我々に提示されるものと、我々が直接的に生きているものとの間に最初から区別があるのである。


「我々の人生の意味」(le sens de notre vie) という表現から明らかなように、人生における「意味」とは「方向」(le sens)のことなのである。間接的な人生から直接的な人生へ、あまり実現されていない人生からより実現される人生へ、あまり我々のものでない人生からより我々のものである人生へ、あまり現前していない人生からより現前される人生へ、より限定された人生からより限定されていない人生へ、・・・

つまり、漸進的とでも言える人生の方向がある。より少ないからより多くへ、間接から直接へ、形だけの参加から「生きている現在」(lebendige Gegemwart)が精神的交感であり関係である実質的な参加へと進むように見える方向である。 


 

 


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