2022年2月21日月曜日

ハイデッガーの形而上学(14)














今朝はなぜか早く目が覚めた

テレビを付けてみると、ロワール川の古城の映像が流れているではないか

以前に観たような気もしたが、わたしが住んでいたトゥール周辺の景色を空から眺めることにした

丁度、ダ・ヴィンチ終焉の地アンボワーズが始まったところだった

それから、ブロアシュノンソーヴィランドリーアンジェソミュールナントのブルターニュ大公城など

いずれも訪れた時の記憶が蘇ってきた

これを懐かしさと言うのだろうか

その時の経験は確かに記憶に蓄えられている

勿論、そこに身を置いた時の気持ちとは異なるのではあるが、


続いて、ドイツのフォーレ4重奏団の演奏が始まった

如何にもドイツ人という話し振りと言ってよいのだろうか

落ち着きと冷静さと明晰さがあり、ヨーロッパの一つの極を見る思いであった

それは演奏にも表れているように感じた

満ちた朝の時間となった


さて、今日もハイデッガーの声に耳を傾けることにした


-----------------------------------------------------


論理学、自然学、倫理学のスコラ的学科の形成と哲学するそのことの衰退


アリストテレスが哲学そのものに関して成し遂げたことは、それぞれの講義や論文集の中で我々に伝えられてきた

その中に、我々は哲学することについての新しいアプローチや試みを発見する

しかし、プラトンの対話篇にプラトン哲学のシステムがないように、後に考え出されたようなアリストテレスのシステムもない


アリストテレスは紀元前322-321に亡くなった

古代哲学はアリストテレスで頂点に達し、それ以降は下り坂を辿った

プラトンやアリストテレスについては、学派の形成が避けられなくなった

そこで何が起こったかというと、生き生きとした問い掛けがなくなったのである

それまで哲学的に把握されたことが、すでに明らかにされていること、有益な何か、応用可能な何か、誰でも学ぶことができるものとして扱われるようになってからは尚更である

元々のプラトン、アリストテレスの哲学に属していた全てが根こそぎにされ、最早根差した何かとしては理解されなくなる

全ての哲学が辿る運命ではあるが、それが学校の哲学になるのである

問題となるのは、最早その核心においても活力においても理解されることのない豊かな材料を整理する時の視点である


このスコラ的な整理をする際の視点は、すでに明らかになった主題の結果である

一方で、哲学がピュシスと関連することで、それは人間によって作られたものとは区別した

そこからピュシスの対立概念を得る

1つは、人間の行動や活動に関わる全てで、狭い意味のピュシス(自然)とは異なっている

これはギリシア語では「エトス」で、エシックス(倫理学)の語源にもなっている

ピュシスとエトスが哲学で扱われる時には、ロゴスの中で明確に話され議論される

「もの・こと」について語る「ロゴス」は、まず教えることに関係するすべてに入り込む


古代の哲学することがスコラ的な学科になると、自分自身の問題から生き生きと哲学することではなく、科学のような知識の習得になる

それはアリストテレスが言うエピステメ、すなわち一つの科学になるのである

このようにスコラ的に構成された哲学は、論理学、自然学(physics)、倫理学という三つの学科を生み出すことになった

この傾向は、実はプラトンがアカデメイアを作った時から始まっていた

哲学がこのように分離されるのはアリストテレスのリュケイオンにも引き継がれ、さらにストア派へと繋がった


我々は、この事実を単にメモするだけでは不十分である

決定的なことは、最初からこのスコラ的な構造が哲学の概念――学校で教え学ぶものとしての哲学――を形作っていることである

そのため、新しく現れた哲学的問題は必然的に、これらのどれかに割り当てられ、それぞれの方法論で扱われることになるのである






0 件のコメント:

コメントを投稿