2022年2月11日金曜日

ハイデッガーの形而上学(5)
































本日もハイデッガーを読むことにした

これまで読んできたのは、「予備的評価」と題されたイントロのようなところの第1章だった

今日からその第2章「哲学(形而上学)の本質の曖昧さ」に当たることにしたい

因みに、第1章のタイトルは「哲学(形而上学)の本質の決定に向けての回り道、そして形而上学を直視することの不可避性」であった


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「形而上学の根本諸概念」という講義のタイトルの理解の仕方が変化してきた

もし、人間存在の冒険に対する熱意や、謎に包まれたダーザインやものの性質に対する興味や、思考の学派や学術的意見からの自立を呼び覚まさなければ、いくら知識を蓄えても大学生活は内的に欠落したものになる

それ以降の歩みも曲がりくねったものになり、最後は独りよがりの満足に終わるだろう

ここで求められるのは、単に知識を集めて記憶するだけではない異なった種類の注意深さである

哲学は科学と全く違うものだが科学の外形が残っていると、哲学は隠れてしまう

さらに、哲学とは全く違うものとして顔を出す

しかし、それは形而上学の本質の良い面である

それが曖昧さである

この曖昧さの兆候を示すまでは、我々の哲学に対する予備的評価は完了しない

形而上学の本質的曖昧さについて、次の3点から論じる予定である

1)一般的に哲学することに存在する曖昧さ

2)聴講者と講師の振る舞いにおいて、我々がいま・ここで哲学することの曖昧さ

3)哲学的真理の曖昧さ

これらを議論するのは、我々に求められている基本的な方向性を明らかにするためである







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