2022年8月16日火曜日

ゲーテの言葉から(43)






























 Martin Luther (1483-1546)




今朝は屋根に当たる激しい雨音で目が覚めた

雨音もなかなか良いものである

今は落ち着いてきた

早速ゲーテ(1749-1832)を始めることにしたい



1828.3.11(火)

「つまり天才というのは、神や自然の前でも恥ずかしくない行為、まさにそれでこそ影響力をもち永続性のある行為を生む生産性にほかならないのだ。モーツァルト(1756-1791)の全作品は、そうした種類のものだ。あの中には、世代から世代へと働きつづけ、早急には衰えたり尽き果てたりすることのない生産力があるのだよ。そのほかの偉大な作曲家や芸術家についても同じことがいえるよ。フェイディアス(c.490 BC-c.430 BC)やラファエロ(1483-1520)は、その後何世紀にもわたって影響を及ぼしたではないか! デューラー(1471-1528)やホルバイン(1497/98-1543)も、そうではないか! 古代ドイツの建築の形式と釣合いをはじめて発見し、その結果、時の経過とともにシュトラースブルクの大寺院やケルンの大伽藍を作る素地を開いた人も、やはり天才だった。なぜなら彼の思想は、たえず生産力を保ちつづけ、今日に至ってもまだ影響を及ぼしているからだ。ルター(1483-1546)は、まことに顕著な天才だった。彼は、すでに久しいあいだ影響を及ぼしている。これから何世紀たったら生産的でなくなるものか、見当もつかないくらいだ。レッシング(1729-1781)は、天才という高貴な称号を受けつけようとしなかった。けれども、彼の影響が不断につづいていることを見れば、彼の考えが当たってないことを示している。これに対して、文学の世界には、その生存中、偉大な天才だと思われて名声を馳せながら、その影響がその生涯とともに途絶えて、自他ともに考えていたほどの者ではなかったことがわかる例があるものだよ。なぜなら、先ほど言ったとおり、生産的な影響を与えつづけないような天才は存在しないからだよ。さらに、この場合、その人がたずさわっている仕事や芸術や職業の別など問題ではない。何であろうと同じことだ。・・・大切なことは、ただその思想、その着想、その行為に、生命があるかどうか、後々まで生命を持ちつづけられるかどうかだ」

「それから、もう一ついっておかねばならないことは、作品や事業のが多いからといって、生産的な人間とはいえないことだよ。文学の世界を見ると、ぞくぞく詩集を出版したために、とても生産的だと見なされている詩人がいる。だが私の考えからすると、この連中はまったく非生産的だといわないわけにはいかないのだ。連中の作品には、生命もなければ永続性もないのだからね」

「すくなくとも、身体はそれにきわめて大きな影響力を持っているね。ドイツでは、天才は小柄で、ひ弱で、おまけにせむしとさえ考えられた時代もあったけれど、私は健全な身体をそなえた天才が好きだね」



「そういう人びとは天才的な人物で、それには特別の事情があるのさ。他の人びとには青春は一回しかないが、この人びとには、反復する思春期があるのだね」

「つまり、どんなエンテレヒーも永遠の一部分だよ。この世の肉体と結びついているわずかな年数のために老化することはないのさ。このエンテレヒーが、とるにならぬ類のものなら、それが肉体に閉じこめられているあいだに、あまり力を発揮できないだろう。むしろ肉体の方の支配に屈して、肉体の老衰とともに、それは肉体を支えたり阻止したりすることはできないだろう。けれども、すべての天才的人間のばあいにそうであるように、エンテレヒーが強力なものであれば、それが肉体にみなぎってこれを生かし、単にその組織に作用してこれを強化し、向上させるばかりでなく、さらに、強烈な精神力によって、永遠の青春という特権を、たえず主張しようとするだろう。卓抜した人物において、老年になっても相変わらず異常な生産力の活潑な時期が認められるのは、じつにそこから来ているわけだよ。彼らにはつねに、一時的な若返りがくり返し起こるように見える。私が反復する思春期と呼びたいのは、じつにこのことなのさ」



「あらゆる最高級の生産力、あらゆる偉大な創意、あらゆる発明、実を結び成果を上げるあらゆる偉大な思想は、だれかの思うままになるものではない。それは一切の現世の力を超越しているよ。人間はこうしたものを、天からの思いがけない賜物、純粋な神のこと見なして、ありがたく感謝の心で受け取り、尊敬しなければならないね。それは、人間を思うままに圧倒的な力で引きまわすデモーニッシュなもの、人間が自発的に行動していると信じながら、じつは知らず知らずのうちにそれに身を献げているデモーニッシュなもの、に似ているのだ。こういうばあい、人間は、世界を統治あそばす神の道具、神の感化を受け入れるにふさわしい容器と見なされるべきだ。――私がこんなことをいうのも、たった一つの思想のために幾世紀にもわたって世界の相貌がすっかり変わってしまったり、二、三の人間が、そのつくりだした物によってその時代に刻印を押して、それが次の幾世紀にも消え去ることなく、いい影響を及ぼすことがあるとかんがえるからだよ」


(山下肇訳)









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