2022年8月21日日曜日

ゲーテの言葉から(48)


















 Georges Cuvier (1769-1832)



1831.6.20(月)

「すべての言語は人間の手近な欲求や、人間の仕事や、人間の一般的な感情や直観から生じるものだよ。もしも今いっそう高次の人間が、自然のふしぎな作用や支配について予感や認識をえるとすれば、彼にあたえられた言語では、そういう人間的なことから完全に隔離したものを表現するにはとても十分でないのだ。それ特有の観察をみたすためには、魂の言語が自由自在に駆使できねばならないだろう。しかしながらそうすることができないので、異常な自然状況を観察しながらもたえず人間的な表現によるより仕方ないわけだ。そのとき、ほとんどどんな場合でも舌足らずになり、その対象を引き下げるか、あるいはまったく傷つけてしまうか、台なしにしてしまうかなのさ」

「最近、キュヴィエ(1769-1832)とジョフロア・ド・サン・ティレール(1772-1844)との論争のとき、私もそう思ったよ。ジョフロア・ド・サン・ティレールはたしかに自然の精神的な摂理と創造についてりっぱな考え方を持っている人だ。しかし彼のフランス語は、慣習的な表現を用いなければならないときには、まったく彼の役に立たなかったな。しかも、たんにふしぎな精神的な場合だけでなく、完全に目にみえる純具体的な対象や状況の場合でもそうなのだ。彼がある有機体のそれぞれの部分を表現しようとすれば、そのためには物質(マテリアール)という言葉以外にはないので、それで例えば、同質の部分が腕の有機的な全体を構成している骨というものを表現するにも、家をつくる石とか、角材とか、板などと同じ段階にならべて表現されているという次第だ」

「同じようなことだが、フランス人は創造物について語るとき、組立て(コンポジシオン)という表現をつかうが、これはやはり不適当だね。むろん、一個ずつつくられた機械の個々の部分を組み立ててならそういう対象をコンポジシオンとはいえようが、個々の部分がそれぞれに生命をもって形成され、共通の精神によってつらぬかれた有機的全体の各部分を意味しているなら、そういってはまずいわけだよ」


1831.6.27(月)

「彼(ヴィクトル・ユゴー、1802-1885)はすばらしい才能だ。だが、あの当時の、不幸でロマンティクな傾向に完全にとらわれて、美しいものと同時にあらゆる点でまったく耐えがたいものや、まったく醜悪なものまでも描き出している。最近私は、彼の『ノートルダム・ド・パリ』を読んだが、読んでいて苦痛になり、途中で何度やめようかと思ったことだろう。これは今まで書かれたものでは最もいまわしい本だね。また、その苦痛を耐えとおしても、人間の性質や性格が真実に描き出されているのを感じて、その苦痛を償えるだけのよろこびもない。むしろあの本には自然らしいところがないし、なんの真実もない。彼が描き出している、いわゆる行動的な人物は生きた肉と血をもった人間ではなく、あわれな木製の人形なのだ。その人形どもを彼は好き勝手にあやつり、自分の意図した効果に応じていろいろなしかめ面やグロテスクな顔つきをさせたりしている。それにしてもああいった本が書かれ、出版されるというだけではなく、まったく嫌がられもせずおもしろがられているのは、なんという時代なのだろうか!」


(山下肇訳)






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