2022年10月11日火曜日

コリングウッドによる自然(18): プラトンの宇宙論『ティマイオス』(4)
































ティマイオスによる世界の魂の創造は、次のようなものであった

魂はあらゆる身体の中に注ぎ込むと同時に、それを外から包んでいる

従って、世界の身体は自身の魂にくるまれている

魂とは、物質的世界(様々な過程の複合態)としての自然と、非物質的世界(様々な形相の複合態)としての自然との間にある中間項である

つまり魂は、世界の中にも世界の外にも存在する

それは恰も、人間の魂が身体を超えたところまで届くように意図されているかのように

この本でプラトンは、以下の2点を示そうとした

一つは、如何にして惑星の運動と距離の体系を演繹すればよいのか

二つ目は、このような運動体系の中に現れる生命が、思想や判断を生む、感じ考える生命たり得るのか


ここでコリングウッド(1889-1943)は分析を止め、現存する最も偉大な哲学者であり、最も偉大な現存の宇宙論の著作家であると彼が認めるホワイトヘッド(1861-1947)の意見を紹介する

プラトンもホワイトヘッドも、自然の世界は時空における運動/過程の複合態と、形相の世界を前提として複合態であるとしている

ホワイトヘッドは後者を「永遠的客体」と呼んでいるが、プラトンとの違いが存在している

プラトンにおいては、可視的世界の事物は形相を手本としていたが、形相に近づくだけである

ところがホワイトヘッドの「永遠的客体」は、叡智的世界の近似値ではなく、叡智的世界そのものである

また、『ティマイオス』において、世界の魂は身体に浸透しているが、ホワイトヘッドにとっての精神は現象の一階級に過ぎず、自然の中の特殊な場や時間において現れるものである

この違いこそ、ギリシア的自然概念と近代的自然概念の違いだとコリングウッドは見ている


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これで『ティマイオス』についての考察が終わったことになる

最後のプラトンとホワイトヘッドの違いは、実に興味深い

この世界は「永遠的客体」として叡智的世界が実現したものだというホワイトヘッド

一体、どういうところからそのような考えに至ったのか、興味が湧いてくる

また、ギリシア的自然観では魂は至るところに浸透しているが、ホワイトヘッドはそうは考えないという

こちらもその理由が知りたくなる







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