2017年10月28日土曜日

第12回サイファイ・カフェSHE、無事終わる



本日も朝から準備に追われた
テーマが「ミニマル・コグニションを考える」となっており、何のことを言っているのか分からない
そんな中、週末の夜にも関わらずお集まりいただいた皆様に感謝したい

これまでのテーマよりも専門性が増したという印象を持たれたようである
ざっくばらんに言えば、分かり難い話だったようだ
生物が複雑でダイナミックな環境で生き残るためには、記憶と情報処理を基にした決定過程が必須だ
昔はこの仕事は中枢神経系が担っていると深く考えることなく思っていた

しかし、最近では必ずしも中枢神経系に依存しないという見方が広がりつつある
それでは、どこまでを神経系様の機能と考えているのだろうか
その機能を広くコグニションと言い、その最小限の条件をミニマル・コグニションと言っている
コグニションは認識と訳すこともできるが、ここではもっと基本的な過程のことを指している
すなわち、情報の獲得、保存、処理、使用に関わるメカニズムとして論じられているようだ

これまで、脳、ニューロンに関連した構造と機能を持っていなければならないという考えがあった
その後、神経とは関係がないが、感受して運動に変換されるものもコグニティブだと考える人が出た
さらに極端な例は、運動とは関係しないシグナル伝達や遺伝子ネットワークまで含める人もいるという
いずれの場合も、そのように定義した時、その枠内では比較的明確に選別ができる
しかし、どの定義を正当なものと考えるのかという問題が出てくる

それに対して、免疫系での解析結果を絡ませて、適切ではないかと思われる見方が提示された
直感的にはなかなか受け入れられそうにもない説である
講師も100%確信しているわけではないが、論理的には矛盾しないのではないかと考えている
まるで先週のプラトンの霊魂不滅の証明のように、あっという間の出来事であった
いずれにせよ、今後いろいろな批判を受けながら、練り上げていく必要があるのではないだろうか
参加された皆様の感触はどうだったのだろうか

カフェの中でも懇親会でも様々な議論が出たという意味では、よいテーマだったと言えるのだろうか
少なくとも議論を呼ぶテーマであったことは間違いなさそうである


会のまとめ






2 件のコメント:

  1. 刺激的なお話をありがとうございました。
    情報の流れを考えると、cognitionはinput側に偏った見方かもしれません。免疫系ー神経系ともにあるoutputをすることが前提とすると minimum cognition+actionという枠で考えるほうが誤解が少ないのではないかとも思いました。こうした系がどのように生物界で生まれてくるかは次元の異なる問題かもしれませんが、現代科学のなかでタブーとも異端ともされる”生気論””目的論”を正面から持ち出して、妥当性や矛盾を議論する生物学者や哲学者がでてこないのは大変不思議な感じがします。科学史化の米本昌平先生は「バイオエピステモロジー」[2015年、書籍工房早山}の中で、”現在の生命科学の研究者は生命現象の解釈論には全く関心を向けず、すこしでも新しい実験データを獲得することに最高の価値を置く態度が共有されている”と現状分析しておられます。生命からモノを切り離してこうしてメカニズムを研究するのは生物学というよりは死物学にすぎないという痛烈な批判も米本先生はされていますが、それに抗する論拠を現役の生物学者が提示していれば知りたいと思っています。今後とも宜しくお願いいたします。

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    1. 早速のコメントありがとうございます。

      cognitionという言葉を普通に考えれば、inputに重点が置かれているように思います。ただ、この問題を考えている人たちは神経様の機能という広い意味で捉えているように見えます。その場合のoutputを普通に考えるactionが含まれていなければ神経様と認めないという立場ともう少しインクルーシブな立場を採る人がいるようです。常識的に考えれば、前者の立場を採る人の方が理解されやすいようにも見えますが、後者もあり得るという議論にも興味深いものがあると考えております。

      後半の生物学者批判は歴史的に古いもので、トルストイも生命が生物学から乖離していることを痛烈に批判していますし、フランソワ・ジャコブも生物学は最早生命を研究対象にしていないと言っており、その見方は正しいとわたしも考えております。それから生物学者が自らのやっていることについて考えないという点も一般的にはその通りですが、むしろ生物学という学問が解釈論(それは哲学的態度によると思いますが)を研究対象にしていないからだと思います。科学と哲学の乖離と言ってもよいものですが、その峻別を厳しくしている人の方が優れた科学者であるという認識が生まれる原因になっています。しかも哲学を排除しているために、その判断自体の是非については考えることがないという関係になっています。これは科学に限らず、社会や政治の進め方についても当て嵌まるのではないでしょうか。わたしが「科学の形而上学化」と言うようになったのも、この乖離が科学、さらに言えば我々の知的世界を貧しくしているという認識があったからになります。昨日のような話ができる空間がいろいろなところに広がることが科学に対する態度を文化的なもの、成熟したものにする上で重要になるのではないかと改めて感じた次第です。今後ともよろしくお願いいたします。

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