2021年6月28日月曜日

エンツォ・パーチさんの日記から(6)



 

Segni, 4 août 1957

現象学的態度には、哲学的省察と以下のものとの絶え間ない対話がある。日常生活、身体生活、意思の疎通、生きている経験を考える視角の更新、ばらばらにし再び結び直す過去。時間の中における哲学的省察の深く意図された内在性。


Milan, 15 septembre 1957

このようにして、自然との接触の中で、フッサールの「ものそのもの」を具体的な人間の生活、日常の仕事として見出す。飾り気のない生活の意味、謙虚さの価値を見出し、生き直すのである。ホワイトヘッドは「歴史的な真の生活は小路や田舎町の穏やかな人間の本物の個人的感情の中にある」と言った(Essays in Science and Philosophy, New York, Philosophical Library, 1948, pp.17-18)。

 

20 octobre 1957

ヴァレリーは『レオナルドと哲学者たち』で「レオナルドにとって描くということは、すべての知とほとんどすべての技術を要する作業である。・・・彼はある意味で対象の外観から始める」と言っている。「外観」はフッサールの現象であり、よってレオナルドの態度は現象学的なのである。

描くということは現象を見ることである。絵画的見方、普通は見えないものを見ることは知にとって貴重である。つまり、現象を見ることと科学との間、技術によって見ることを実現する行為と知の間には一種の相互性がある。ヴァレリーはさらに言う。「制作と知の間の驚くべき相互性ーーそれは前者が後者を保証しているのだがーーはレオナルドを特徴付け、言葉だけの科学に対している。そしてこの相互性が行動なき言葉、不完全なものとしての哲学にとっては大きな不利になるのだが、現代を支配することになった」。従って、視覚によって哲学的な無駄話を矯正することが可能になる。言葉が行動になるのである。実際には、能動的な語りは自然の技術であり、技術の中の自然を延長するものである。 

 






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