2022年1月16日日曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(44)

























しかし、皆さんはわたしにこう言うだろう。

なぜ、天体物理学者の言葉を借りれば「神秘的なビッグバン」によって始まったこの宇宙が――そこには歴史があり、絶え間なく膨張している、あるいはしていない――、自然の全体ではないのか、と。

さらに、「あなたは、この宇宙が広大な自然の中における『小さな牢獄』にしか過ぎないと主張している。あなたは、他の人たちが神を信じるように、自然を信じている」と。

わたしは、形而上学が純粋に合理的な回答を出すことができないことは認める。

有神論あるいは自然主義の立場に立って議論することもできるが、議論というのは、我々が議論に対して自由に与えたいと思う力しか持っていない。

わたしは、形而上学とは「自由に基づくものである」と言った。

事実と事実を超えたものがあり、この超えたものに中身を与えるには信念が必要になる。

ところで、自然の中にあるものが、わたしにとって最も確かなように見える。

なぜなら、神は事実を超えているのに対し、自然はすべての人に直に開かれており、事実であると同時に事実を超えている。

さらに、神がいないとすれば、人間の自由は制約されない。

人間が自由なのである。







0 件のコメント:

コメントを投稿