2022年1月11日火曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(41)

























20年程前の1985年1月26日、ジュネーブにあるCERNの物理学者故ポール・ミュセが、ソルボンヌで「素粒子、天体物理学、宇宙論」というセミナーを行ったが、多くの疑問が生まれた。

わたしの質問は以下の通りであった。

「あなたの発表原稿では、宇宙と『我々の』宇宙について語られています。あなたの語る宇宙は『観察された事実』に基づいて考えられたものなので、わたしにはこの宇宙が『我々の』もの――すなわち、ヴェルナー・ハイゼンベルクが言ったように人間の宇宙――にしか過ぎないように見えます。哲学者が宏大さの中に多数の宇宙を考えるのを妨げるものは何もありません。それはエピクロスがやったことです。」

これに対してミュセはこう答えた。

「もし宇宙が閉じているとすれば、常にこの仮説を出すことができ、閉じている我々の宇宙は他の宇宙と何のコミュニケーションもありません。」

そして、こう付け加えた。

あなたの提案は「思弁的」なので、物理学者の興味を惹かないと。

表現は正しいが、形而上学は思弁なのである。

我々は常に宇宙の多数性についての仮説を提出できるのである。

なぜなら、物理学者の宇宙は「人間の」宇宙であり、必然的に閉じている。

その意味は、世界という全体性の中で、全ては全てと結び付いている。

ニーチェは「自然を人間的なものにすること」(humanisation de la Nature)について語っている。

わたしが「世界化(世俗化)」(mondanisation)として定義したのは、この「人間的なものにすること」(humanisation)である。

プラトンは世界の単一性について疑問を呈することができることを認めている。

「複数の、あるいは無限の数の天国があるという方がより正確ではなかったのか」と彼は『ティマイオス』の中で言っている。

そして、デモクリトスには反論し得ないことをプラトンは認めている。

確かなことは、科学者は複数の宇宙を認めることができないということだけである。

なぜなら、2つの宇宙があることになった途端、プラトンが示したように、科学者は一つのものにしてしまうからである。

というのは、もし宇宙が2つの場合、科学者は我々の宇宙の中にもう一つの宇宙を認めるように強いる何かを見つけたからである。

そのため、そこでも宇宙は統合されるのである。


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最近、宇宙は一つとする見方と同時に、マルチバース(多元宇宙論)の考え方も出されている

その意味では、形而上学者コンシュさんの見方にも通じるところがある

科学は観察されたもの、実証されたものに基づいて進むので、当時の科学者の意見が間違っていたとしても致し方ないだろう

科学者は想像ではものが言えないのである

その点、形而上学者の方が自由度が大きいとも言えるのだろうか







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