2022年1月20日木曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(48)

























絶えず「もの・こと」が始まるのでないとすれば、この創造性とは何を意味しているのだろうか。

起こったことの単純な繰り返しはない。

そうでなければ、時間は何のためになるのか。

時間は創造的ではないし、「同じ川に二度入ることはできない」と言ったヘラクレイトスは間違っていただろう。

エピクロスはよく見ていた。

今の自然は以前に在ったものの中には含まれていなかったこと、過去に在ったものから見れば自由であったこと、自主性が無限な場であることを。

しかし彼は、デモクリトスの普遍的なメカニズムは保持した上で、その上に単にこのメカニズムの破綻のアイディアを張り付けたのである。

自然はレベルに合わせて解析しなければならない。

自由と自然の所謂矛盾は、自然の唯物論的見方から来たものである。

生命のない物質から生命や精神や自由を引き出すことができないのは確かである。

しかし物質とは、表層は表面的で比較的固まり硬直化しているに過ぎないが、その深みにおいては永遠の活力であり革新に他ならないものである。

自然は常に革新的で、詩人として、すなわち自身の創造を先取りすることなく盲目的に創造する。

自然はペネロペの布のようなもので、それは果てしなく、全体を見渡すことなく、織っては解き、解いては織ることを絶えず繰り返すのである。

なぜなら、何かが起こった途端、自然はそれを無に帰すからである。

自然は自分がやっていることを知らずに人間を創造した。

人間の中で自然は精神になる。

なぜなら、自然は自分を知らないが人間は知っているからである。

自然は自己創造的であるので、人間が自分から始めるという意味で自己創造者と見做す限りにおいて、人間は最も自然な、少なくとも自然の本質に最も合致する存在である。







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