2018年8月2日木曜日

何度でも「科学と哲学」

       ミケランジェロ
    ダニエレ・ダ・ヴォルテッラ


日本では猛暑日が何週間も続いているところもあるとの便りが届いた
こちらはそれほどではないが、それでも真夏日が続いている
向かいのグラウンドの芝は毎日水がまかれ手入れされているので緑を保っている

今朝、手前の芝の半分が枯れていることに気付く
それなりの暑さが続いていることが分かる
幸いアパルトマンの中にいると、エアコンはないのだが涼しいので助かっている

今日の便りには、近々発売になるカール・ウーズについての本の書評が添えられていた
その最後は次のような言葉で終わっていた
多くの人は認識していないが、根のところで科学と哲学は絡み合っている
著者は賢明にもそのことに気付いている

実は昨日、ガーディアン紙に出ていた科学と哲学に関する対論を読んだばかりであった
哲学者のジュリアン・バジーニさんと科学者のローレンス・クラウスさんによるもの
もう6年前の日付になっている
そこで語られていることに新しいことはなかったが、いくつか書き出しておきたい

バジーニの言葉として、哲学者は科学者が着る白衣に憧れるところがあるという
その傾向があることは、哲学に入ってこれまでわたし自身も感じてきたことだ
程度問題だが、それには反対したい気持ちの方が強い
そこに行ってしまうと哲学本来のものを捨てることになるのではないかという危惧があるからだ

バジーニさんは科学では扱えない問題として倫理や道徳の問題があるという
それに対して、クラウスさんはこう反応する
世界には回答ができるものとできないものがあり、回答できるものは科学になる
道徳性に関しても、それが理性に基づくものであれば科学が解決できるだろう
しかし、理性だけでは無力である

バジーニさんは科学で解決できない問題は重要な問題ではないという科学主義に異議を唱える
科学では扱えない問題がどうしても残り、それが重要でないとは言えないという
クラウスさんはそれには反対すると予想したが、次のように答える
哲学的議論は多くのことを決定する際に事実について省察するという重要な役割がある
しかし、その際の事実は実証的に明らかにされたものだけであるべきだろう
確かに、人間の問題は理性だけでは処理できそうにない
しかし科学は進歩するので、いずれ道徳の問題も科学が解明できると考えている
つまり、Why問題はHow問題になるのである

突き詰めれば、最終的にすべてが科学で説明できるのかどうかになるだろう
しかし、それは歩みを進めなければ分からない
これまでの科学の歩みを見ると、何かが分かるとそれまで見えていなかった謎が現れる
これの繰り返しである
その経験から、自然のすべてが姿をあらわす日が来るとは到底思えない
自然の奥深さは人知を超えているのではないかというのがいまの実感である
そうならば、科学と哲学などの領域の両方に目を配っておくべきだろう

科学の力を信じているクラウスさんは言っている
科学がすべてを解決し、もう答えられる問題がなくなったとしたら何と悲しいことだろう
確かに、人間が好奇心の動物であるとしたら、それは悲劇的なことかもしれない
そこには人間がいなくなるということにもなるだろう
しかし、科学の仕事が終わった後にも確実に残るものがあるような気がしている
これは科学がすべてを解決するという信念と同じ信の領域に属するものかもしれないのだが

科学が終わり、静寂が訪れた後にもまだ残っている人間の好奇心を刺激するもの
それはどういうものなのだろうか
その時を体験することはないだろうが、好奇心は掻き立てられる





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