2019年5月28日火曜日

第5回ベルクソン・カフェの二日目、終わる



今夕は、第5回ベルクソン・カフェの二日目が開催された
夕方から雨になった中、参加された皆様に感謝いたします

テーマは「読むことを学ぶ」で、今回も概略を話してから始めることにした
初回に4頁を終え、今回は5頁の予定だったので心配したが、不思議なことに終えることができた
最初に全体を俯瞰するので時間を取るのだが、その方が早く終わるという意外な効果である
これからもこのやり方を採用することにしたい

今回の後半もほとんど古代哲学の特徴、特に魂の鍛錬について議論されている
哲学書は師が弟子を変容させ、自己実現させるように教育している学派から生れる
従って、モノローグの外観を採っているが、その中にダイアローグの要素を持っている
個別の状況における個別の回答を出している
さらに、読む人の精神の進捗状態に合わせて書き方を変えたようである
そのため、全体を通してみると矛盾も出てくる

後世の哲学史家はその点に驚いているという
彼らは元々の哲学が新しい生き方、世界の見方を教え、人間を変容させるものだったことを見ていなかった
そこには中世以来、哲学から魂の鍛錬が抜き取られ、キリスト教の僕となったことがある
純理論的な概念をキリスト教に提供する立場になったのである
その影響が現代にも及び、理論化の傾向はさらに先鋭化しているという
哲学が再び生き方や世界の見方に関わるようになるのは、ニーチェ、ベルクソン、実存主義からである


「魂の鍛錬」のエッセイ冒頭に、ジョルジュ・フリードマンの言葉を引用している
20世紀に如何に魂の鍛錬を実践するのかという問いに関するものである
ヴォーヴナルグは、本について次のように語っている
「真に新しく、真に独創的な本は、古くからの真理を愛するようにしてくれるものである」
著者アドー氏は本エッセイで、西欧には魂の鍛錬の豊かな遺産があることを言いたかった
そして、本エッセイをヴォーヴナルグが言う「真に新しく、真に独創的に」したかったようである

やっと最後になって、読書に直接関連することが出てくる
アドー氏はこう言っている
 「我々は‘読んで’人生を送っていますが、最早読むことができなくなっています。つまり、立ち止まり、我々の心配事を解放し、自分自身に還り、細かいことや新しいことを探究することは脇に置いて、静かに瞑想し、反芻し、テクストに語らせるようにすることができなくなっているのです。これは魂の鍛錬ですが、最も難しいものの一つです」
彼が考える読書とは、静かに瞑想し、反芻し、テクストに語らせるようにすることであった

そして、ゲーテの次の言葉でこのエッセイを締め括っている
「読むことを学ぶためには時間と労力を要するということを人は知りません。そのためにわたしは80年を要しました。そして、そのことに成功したかどうかさえ分からないのです」

議論の中で、ヨーロッパが持っている文化に関する問いかけがあった
このエッセイではヨーロッパの深い「教養」とでも言うべきものを感じる
しかし、そのようなものは現在ではどうなっているのだろうか
新しい状況に対する新しい思想や方向性は出されているのかという疑問だろうか

それから、「自己を実現する」とはどういうことなのか
「自己を超越して自己を永遠のものにする」ということは何を言うのか
もう少し思索を深めなければならない点も提起された
また、このエッセイを読んでいると、古代の哲学に誘われるように感じるという声も聞こえた

詳細なまとめは、近いうちに専用サイトに載せる予定です


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今日で今年前期のすべての活動を終えたことになる
この全体についても折に触れて纏めることになるのかもしれない
ISHEの活動に参加されたすべての皆様に感謝いたします

次回は今年の秋になる予定です
今後ともご理解、ご協力のほど、よろしくお願いいたします






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