2019年5月25日土曜日

鈴木大拙と室生犀星を訪問



本日は金沢まで足を延ばした
兎に角暑い
その中を冬物の背広で歩く
体の水分を入れ替えるには良さそうだ

まず、鈴木大拙館を訪問
わたしの中では、現在の歩みに入る前の2006年に出遭いがあった

  鈴木大拙 DAISETSU SUZUKI, GRAND PHILOSOPHE BOUDDHISTE(2006.1.8)

この記事にあるように、彼が描くことになった人生の絵が大きいことに感動したのである
難しいことではあるが、こうありたいと思わせるものがあったのだろう




今日は、最初は静かだったが、次第に国際色豊かな訪問客が増えてきた
中にゆっくり池を眺めながら時を過ごすことができる場所がある
その池には鯉?が1匹だけ?いるのではないだろうか
時折、飛び跳ねるような音がしていた
あるいは、人工の仕掛けだろうか(写真を見ても生き物の気配を感じない)
暫しの間、その空間を愉しんだ





大拙館を出てから歩いて室生犀星記念館に向かった
地図は見ていたはずなのだが、犀川を挟んで反対側を探していた
見つからないはずである

犀星の詩を読んだのは学生時代で、その後は忘れていた
しかし、この町に来て再び触れてみようという気になった
ノスタルジックな気分を味わいたかったのだろうか

ビデオが充実していて、それを見てから展示室へ
出生が不幸だったので若い時は苦労したのだろう
そのためか、日本風の古い建物を想像して出かけたが、モダンな建物で意表を突かれた
ただ、後年は立派な家を構えたようなので、それほど違和感はないのかもしれない

詩集を読み返すと、記憶に残っているのがいろいろと出てくるのかもしれない
すぐに思い出すのは、これである
ふるさとは遠きにありて思ふもの              
そして悲しくうたふもの              
よしやうらぶれて異土の乞食となるとても              
帰るところにあるまじや              
ひとり都のゆふぐれに              
ふるさとおもひ涙ぐむ              
そのこころもて              
遠きみやこにかへらばや              
遠きみやこにかへらばや
交通機関の発達により、当時のふるさとの距離感は想像できなくなっている
「ふるさとは遠きにありて思ふもの」
この言葉には真理が宿っているようだ 

こちらは終始静かな館内であった
わたしのように同時代で一度触れている人には何かを呼び起こす可能性はあるだろう
しかし、そうでない人には話題も感情の面でも繋がりを見出せなくなっているのかもしれない




2019年5月26日(日)

ネットを見ていたところ、犀星のふるさとの詩は解釈が割れているようだ
まず、作者がどこにいるのか、東京なのか金沢なのか
それによって、最後のみやこがどこになるのか変わってくるという

冒頭の言葉もわたしのようにそのまま読む人もいるが、裏の意味があるという人もいる
金沢に帰って詠んだ場合になるのだろうか
故郷に来ても受け入れられないので、遠くから眺めている方がよいというニュアンスを見る立場だ

短い詩でも作者の真意に迫るのは難しそうである
ただ、素人の目から見れば、作者を離れて読むことがあってもよいのではないか
そんな考えが浮かんできた日曜の朝








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