2022年6月19日日曜日

ゲーテの言葉から(5)































ゲーテご本人の語りが次第に心地よくなってきたようだ

今日もその言葉に耳を傾けることにしたい



「人生は短い。おたがいに楽しみあうようにしたいものだね」(1824.12.9)



「(イギリス人技術者に向かって)お国の若い人たちがわれわれの国へ来て、ドイツ語の勉強をするのは、よいことです。というのは、わが国自身の文学が学ぶ値打ちがあるというだけでなく、今、ドイツ語がよくわかれば、他の言葉をたくさん知らなくても済むということも否定できませんからね。フランス語だけは別ですよ。フランス語は、社交用の言葉で、とりわけ旅行のさいには欠かせませんものね。だれでもわかるし、どこへ行っても、優秀な通訳のかわりに、フランス語で用が足りますから。しかし、ギリシャ語やラテン語、イタリア語、スペイン語、となると、それらの国の最高の作品は立派なんドイツ語訳でちゃんと読むことができる。だから、よほど特殊な目的でもないかぎり、苦労をしてこれらの言葉を学ぶために、多くの時間をかけることはない、あらゆる外国のものを、その持ち味を生かして評価し、異質な特性に順応するという性質が、ドイツ人にはありましてね。このことと、ドイツ語の柔軟さのお陰で、ドイツの翻訳は、徹底的に原文に忠実で、完全なものになるのですよ。・・・フリードリヒ大王(1712-1786)は、ラテン語ができなかったけれども、フランス語訳でキケロ(106 BC-43 BC)を読んだ。それも、われわれが原語で読むのと同じくらいよく読みこなしていました」

「私なら、『ファウスト』はまだあなたにおすすめしませんよ。あれはとんでもない代物で、あらゆる日常の感覚を超越しています。けれでも、私にたずねないで自分から読みはじめたのですから、ひとつどこまで読みとおせるか、やってごらんなさい。ファウストは、じつに珍しい個性の持ち主だから、その内面の状態を追感できる人は、ほんの僅かしかいません」(1825.1.10)



「彼ら(学者たち)は、口ぐせのように、これはここから取った、あれは、あそこからだ! と言います。たとえば、シェークスピア(1564-1616)の中に、古代詩人にもある詩句を発見すると、シェークスピアは古代詩人から取ってきた、と言うのです。・・・なんと妙な話でしょう!・・・こんなことは、ふだん目の前で、見たり感じたり言ったりしていないとでも言うんでしょうかね!・・・私のメフィストーフェレスも、シェークスピアの歌をうたうわけだが、どうしてそれがいけないのか? シェークスピアの歌がちょうどぴったり当てはまり、言おうとすることをずばり言ってのけているのに、どうして私が苦労して自分のものをつくり出さなければならないのだろうか?」

「(最近五〇年間にひろまったドイツの中流階級の高い教養について)その功績はレッシング(1729-1781)よりもヘルダー(1744-1803)とヴィーラント(1733-1813)にある。レッシングは最高の知性をもっていたから、彼と同じくらい偉い者にしか、彼から本当に学びとることなどできなかった。中途半端な能力の人間にとっては、彼は危険な存在だった。ヴィーラントの活躍で、南ドイツ全体が、その文体をもつことができるようになった。彼から多くのものを学びとったという次第だが、正しく自己を表現する能力も、決してつまらないこととはいえないね」

「彼(シラー、1759-1805)は、ふしぎな大人物だったね。一週間ごとに、シラーは別人みたいになり、一段と完成された人間になっていた。彼と会うたびに、読書の点でも、学識の点でも、判断力の点でも、進歩しているように思われた。彼の手紙こそ、私にのこされた最もすばらしい追憶のかたみだよ。それは、彼の書いたものの中で、最もすぐれたものの一つだ。私は、シラーの最後の手紙を、私の宝の中でも神聖なものとして保存している次第だ」(1825.1.18)


(山下肇訳)










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