2020年5月7日木曜日

哲学における論理学の役割(7)




フレーゲ、あるいは新しいアリストテレス?(1)

1787年、カントは論理学は「終わり、完成したようだ」と断言した
しかし、全くそんなことはない
見かけには騙されるのである

カントはおそらく、次のことを言いたかったのではないだろうか
論理学の主要な法則(無矛盾律、同一律、排中律)はアリストテレス以来変わらず、これからもそのままであろう

無矛盾律とは、pであると同時に non pであることはない(¬(p ∧ ¬p))という法則
同一律とは、pは pである(p=p)という法則
排中律とは、pであるか non p であるかのどちらかである(p ∨ ¬p)という法則

しかし、たとえこれら三つの原理が尊重されていたとしても問題は残っている
それは、この問題についての論争がその後どのように続き、その理由は何だったのかを知ることである
論理学はアリストテレスと共に終わっても完成してもおらず、それとはかけ離れた状態にあった

論理学が経験した重要な革新を知らなかったのはカントである
その変化は19世紀後半から非常に著しいものがあった
無矛盾律を保証できることが疑問視され、排中律も異議申し立てをされたのである
20世紀後半に発展した非古典的な論理学は言うまでもないが

もし19世紀末から20世紀初頭の偉大な哲学者の名前を訊かれたとすれば、特にフランスでは多くの人がこう言うだろう
ニーチェ
フロイト
マルクス
ベルクソン
フッサールさえ挙げるだろう

しかし、ゴットロープ・フレーゲの名前が出ることはありそうもない
誰が彼を知っているだろうか
彼がカント以来最も重要なドイツの哲学者として紹介されれば、その真面目さを疑うだろう
もし、彼は新しいアリストテレスだと言う人がいるとすればどうだろうか

ところで、論理学を新しくすることによって哲学を根本から変容させたであろう人
少なくとも論理学が教養課程になり、特権的な道具となるように
このフレーゲとは一体誰なのか

(つづく)







2020年5月6日水曜日

哲学における論理学の役割(6)




一貫性(3)

ここで言いたいのは、デカルトのコギトが妥当なのかどうかを知ることではない
寧ろ、我々の哲学的命題の含意の中を、論理学のお陰で得られる先に進む能力の哲学における役割を示すことである
そうすることにより、我々が間違っていないという保証として、我々の思考の一貫性を確認するのである

形而上学的命題が意味論や言語哲学に関するものになる時、我々はそれを受け止める準備ができているだろうか
同様に、心の哲学における命題が結果として形而上学に至る時、それを受け入れる準備はできているだろうか
我々の異なる主張の一貫性を保証すること
これこそが、哲学における論理学の根本的な役割である

論理学に割り当てられた哲学の教養課程の役割が、主にデカルト以来、なぜ非常に広範に疑問視されたのか
例えば、ジル・ドゥルーズやフェリックス・ガタリが、なぜ哲学における論理学の価値を全否定するのか
20世紀の哲学のすべての流れにおいて、一方では論理学は哲学的省察の基礎とされた
他方、論理形式主義に頼ることの妥当性は全面的に拒絶され、時に反哲学的とまで判断されたのはなぜなのか








2020年5月5日火曜日

COVID-19の最新情報(2020.5.4)




昨日の段階におけるCOVID-19に関連する情報を紹介したい
いつもの通り、ジョン・キャンベルさんの目を通して、ということになる
世界における5月4日の段階での数字は、感染者3,524,429人、死者247,838人

ワクチン

安全で確実なワクチンができたところで、COVID-19に対する最終的な方法を手にすることになる
ドナルド・トランプ大統領は、今年の年末までにはできるだろうと言った
ジョンさんは18か月は要すると見ているが、ドナルドが正しいに越したことはない
ここで重要なことは、誰でも手に入れることができ、安いことだ
ワクチンとは別に、既存の薬剤が治療に使えるかどうかをイギリスの160の病院で検討を始めた

ウイルスの由来

最近、ドナルドも国務長官のポンペオもこのウイルスは武漢のウイルス研究所に由来する証拠があると発表
証拠はいずれ公表されるのだろう

ジョンさんの見方は、次のようなものだ
ウイルスを合成したのではなく、他のウイルスの毒性が強いところを使った実験していた
それに感染した人が出て、そこから広がったのではないか

中国の統計

ジョンさんは、最初から中国政府の発表する数字は信用できるとしていた
そのために批判されるとも言っていた
しかしイギリスのMI6によると、最初の波は公式発表の4倍だったという
つまり、最初から過少報告をしていたことになる

オーストラリアの新聞も、昨年12月初めからヒト・ヒトの感染があったとしている
勿論、中国はこれを否定し、今年の1月20日までなかったと言っている
もしこれが本当なら国際的な問題になる可能性があるだろう

タイムライン

ここで、これまでの出来事を時系列で追ってみたい

2019年12月31日:武漢で27人の肺炎患者

2020年1月3日:発生源の追跡により、武漢のウェット・マーケット(華南海鮮卸売市場)が特定された

1月8日:コロナウイルスが同定と中国政府の発表

1月11日:重篤な基礎疾患がある61歳の人が死亡、この段階ではヒト・ヒトの感染の可能性は低いとされた

1月17日:アメリカは武漢からの航空便をスクリーニング

1月20日:北京、深圳、タイ、日本でヒト・ヒトの感染
ジョンさんによれば、ここでの失敗がパンデミックの原因になった

1月22日:武漢では旅行のロックダウン、17名死亡

1月24日: 中国国内13都市で交通の遮断
イギリスは、自国への脅威は低いと見ていた

1月30日:WHOは、global health emergencyであると発表
それが何を意味しているのかすぐには分からない

1月31日:アメリカも public health emergencyを宣言

2月6日: 武漢で新型肺炎が発生しているとの警告を出した李文亮医師が亡くなる
詳細は「李文亮」のリンクを参照のこと
ジョンさんの日付が必ずしも正確ではないところもあるが、全体の流れを観るには問題ないとしたい

2月22日:イタリアで最初の死者

2月29日:アイルランドで最初の感染者

3月5日:イギリスで最初の死者

3月11日:WHO、パンデミックを宣言

3月13~14日:アメリカ、旅行禁止をイギリス、アイルランドにも適用

3月20日:イギリス、文化の象徴パブを閉鎖

3月23日:イギリス、ロックダウン

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対策は「検査、追跡、隔離」(Test, Trace, Isolate: TTI)

これまでのお話から、対策の基本は社会的な無差別の隔離と感染者個人の隔離になる
上の対策は感染者を特定して隔離するものであるが、理に適っている
日本では未だに検査の是非が議論され、方向も定まっていないように見える

先ほどテレビで、隔離されている人で軽症の人は、検査なしで職場復帰できるというようなことを言っていた
症状がなくても感染を広げることができるというのが常識だと思っていたので驚いた
この常識が間違っているか、そもそも聞き間違いであればよいのだが、、









哲学における論理学の役割(5)




一貫性(2)

例を一つ取ってみよう
デカルトのコギトは、形而上学の領域に属するものである
少なくとも、我々の知の基盤についての探究として、デカルトによって理解されたような形而上学であるが

しかし、それは言語と現実の関係に関する意味論の領域の命題を意味している
我々の心的状態を描くために用いる言葉の意味は、我々の精神の中にある
心的言葉を使用する時の規則は、私的なものである
それは精神と自分自身との関係以外の何物でもない

しかし、私的な規則という概念は矛盾を含むものである
もし一つだけの規則を適用するとすれば、それを正しく適応しているかどうかを知る基準が何もない
規則を適用することと、適用していると思うこととの違いを知ることができないのである

しかしこのような批判から、デカルトのコギトを擁護することもできるだろう
例えば、コギトが心的用語の意味に関する意味論的命題を意味しないことを示すこと
あるいは、コギトがそれを生み出しているとしても、私的規則という非論理的な概念を意味しないことを示すこと
さらに、この概念がそれほど非論理的ではないことを示すことによってである









2020年5月3日日曜日

論理学についての回想




このところ、哲学と論理学の関係について触れている
ここで、論理(学)との個人的な関係について振り返ってみたい

日本にいる時(2005~2007年)だが、フランス語に慣れるためにフランス語のブログをやっていた
そのブログを全部読んだというフランスの哲学教師が、長いコメントを残してくれた
まず、そのことに感激した

その中には重要な指摘があり、今でも気になっているものがある
その一つに、あなたは非常に日本的である、というのがあった
その言葉を、わたしの書くものは感覚的で論理的ではない、と解釈したのである

なぜそう考えたのか分からない
その頃にはフランス人の書くものにも触れており、そう感じたのかもしれない
おそらく、間違っていないだろう

研究者をしている時から次のようなことは感じていた
同じテーマについて日本人とアメリカ人が話すのを聴いた時、アメリカ人の方が分かりやすいのである
日本人の話は全体の構造が見えず、細部に拘る傾向があるように思ったのだろう
これは現在進行中のCOVID-19のパンデミックに対する対応を観ても感じていることだ

2007年からフランスの大学で、科学について考えることにした
そのコースは、LOPHISS(Logique, Philosophie, Histoire, Sociologie des Sciences)というものだった
実はこのコースは論理学とそれ以外の二つに分かれており、わたしはそれ以外を選んだ
無意識のうちに決めていたが、無味乾燥に見えた論理学は最初から視野の外にあったのだろう

フランス人の話を聴いていていろいろなことに気付いたが、その一つにこれがある
自分で「Pourquoi ?(それはなぜなのか)」と問いかけて、「Parce que(なぜならば)」と続けるのである
そうやって相手を説得させるのだと思うが、殆ど無意識の内に行われていると感じるようになった

この二つの関係は何かを理解する時に重要になるが、日本人はこの関係を明確にして話をしないように見える
特に政治家に著しいが、何かの理由を論理的に説明することをしないか、できないのだ
その背後には民主的な精神が欠けているということもあるのだろうが、日本文化のせいもあるのだろうか
あるいは、そもそも思考というものを欠いているのかもしれない
いずれにせよ、「もの・こと」の理解が曖昧になり、従って話も分かりにくくなるのである
 「論理的でないものは真ではないが、論理的だからといって必ずしも真ではない。しかし、真なるものは常に論理的である」
この言葉には真理が宿っていると考えている
論理が意識に上ってこないところでは、間違ったことが罷り通ることになる
最近の日本政治は目を覆うばかりだが、その端緒として疑っているのは2004年の小泉首相の発言である
イラクに自衛隊を派遣する問題で非戦闘地域とは何かを問われ、「自衛隊が活動しているところ」と答えたのである

自衛隊が行けるのはどういうところかを訊かれたが、その定義を前もってせず、結果からものを言っている
自衛隊派遣ありきの答弁であることがよく分かる
それは「適者生存」における適者とは何かを問われ、生存した者であると答えるのに似ている
前もって適者を定義できないのである

論理的に破綻したことは発言できないという箍が外れ、それが放置された出来事であった
我々の中に、論理などどうでもよいという考えがどこかにあるのだろうか

















2020年5月2日土曜日

哲学における論理学の役割(4)





一貫性(1)

哲学課程において論理学に優位な地位を認めている主な理由は、哲学者が真理の概念に重要性を与えていたからである
論理学が本当に重要なのかを問うことは、近現代の哲学のすべての部分の特徴の一つである
それは同時に、論理学の哲学に対する価値を問題にすることでもある

論理的一貫性、簡単に言えば矛盾しないことは、真理に留まることを保証するものではない
反対に、矛盾は我々の考えが間違っていることの指標となる
しかし、もし我々の考えが間違っているとすれば、それは何かを間違って想像することである

間違った信念も矛盾しないことがあるので、一貫性は真理を保証しないとすれば、一貫性の欠如は間違いを保証する
このように論理学は、一貫性の欠如を調べる方法を我々に提供するだろう
一貫性の欠如は、一つのこととその反対のことをはっきり言える簡単な場合を除き、一目瞭然ではない

一般的に、我々は一貫性の欠如を追い詰めなければならない
特定の主張が意味するところを検討すると、我々が真とするものの反対を意味していることに気付くことができる
このように、論理学は哲学において有用に見えるのである

論理学は推論する方法、より一般的には、一つ以上の命題から別の命題に誘導する方法を我々に提供する
このように論理学によって、我々が真であると見做すものの結果をさらに深く見ることができるようになるのである


哲学を次のように定義することが可能になるだろう
哲学とは、我々が真であると考えることから懸け離れた結果を見ることである
Aという領域において、ある人がT-1というテーゼを採用し、Z領域ではT-5というテーゼを採用するとしよう
論理学は、真であるとされるこれら二つのテーゼが両立しないことを我々に気付かせることができる

領域の違いが二つのテーゼの不適合を正当化できなければ、T-1かT-5、あるいは両方を否定しなければならない
しばしば、T-1とT-5が両立しないことは、直ぐに、あるいは直接的には明らかにならない
A領域のT-1はF領域のT-2を意味し、それはH領域のT-3を意味し、それはU領域のT-4を意味すると続く
そして最終的に、T-4がZ領域のT-5を意味することに気付かなければならない
T-1とT-5が両立しないことに気付くのは、最後になってからなのである








2020年5月1日金曜日

「4月のまとめ」を振り返る




昨日書いた4月のまとめについて、さらに振り返ってみた
と言うよりも、今朝、以下のようなアイディアと共に目覚めたのである
昨日の言葉を借りれば、「誰か」が振り返ってくれたということになるのだろうか

最近、次のような感覚が生まれていると書いた
それは、自分が何かをやっているのではなく、誰かがそれをやってくれているという感覚
自分がやっているのは、誰かがプロジェをやってくれそうなところまでこの体を持っていくことだけである
そのため、自分で考える必要がなくなったので非常に楽になった

この状態は、以前に纏めたある状態と似ていることに気付いたのである
一つは、『医学のあゆみ』誌の「パリから見えるこの世界」第70回のエッセイである
静寂と沈黙の時間、あるいは自己を自己たらしめるもの(2018年7月14日)
2017年夏に気付いたこととして、次のようなことが書かれてある
自分を動かしていると思っているSelf1とそれを観ているSelf2の間のスペースが広がってきたということ
これを今回のことに当て嵌めると、プロジェを進めているのがSelf1だとすれば、それを観ているのがSelf2
つまり、Self2に身を置いていれば、自分は何もする必要がないのである
瞑想的生活の中で、アクターとしてのSelf1から離れることが可能になってきたということではないのだろうか
そう考えている

さらに遡ると、第10回のエッセイにもこれと関連することが書かれている
エルンスト・マイヤーとシーウォル・ライトというセンテナリアン、あるいは100歳からものを観る(2012年11月10日) 
50歳を過ぎたあたりから、今を歩いている自分をすでに100歳になった自分が観ているというイメージが生まれた
階段を登ってくる自分を上の方から観ているもう一人の自分がいるという感覚である
それは、初めて歩いているはずの新しい道なのだが、実はすでにそこを通っているという感覚でもある
従って、安心感が生まれるのである

いずれの場合も、精神の安定に与える影響が甚大であるという点で繋がっているようだ












2020年4月30日木曜日

4月を振り返って




今年から恒例になった感のある「ひと月を振り返る」日がやってきた


1月のまとめにも書いたが、今年に入ってから感じていることに1日が長いというのがある
以前から感じていたが、このところそれがより明確になってきたということだろう
朝、どんな状態にあっても、夜には想像もできなかったような展開になっていることが稀ではない
1日の時の流れにはそれぞれ感情のようなものがあるのだが、その違いを味わえるようになってきた
素晴らしいことである

今年が始まって暫くしてから、複数のプロジェを並行させるのではなく、一つのプロジェに絞ることにした
そして2月からは、そのベースになるものの必要性を感じ、それを纏めようとしていた
今月、やっとのことでその形が目に見えるようになってきた
これで一区切りがつきそうなので、元のプロジェに戻ることができそうである


以前、プロジェになかなか入ることができず困っていたが、最近それがなくなってきたと書いたことがある
苦しみの原因は結果が先に来ていたから、つまり何かを仕上げなければならないと思っていたからである
楽になったのは、そのことに気付いたからである
成果を求めるのではなく、ある時間をプロジェの中に入って遊べばよいと悟ることができたのである

今月、それがもう少し進化(深化)して(?)、こんな感じになっていることに気付いた
それは、自分がやっているのは、この体をプロジェが捗りそうな場所に移動させるだけだという感覚である
最早、自分の意志で何かをやっているという意識がなくなっている
その場に落ち着けば、誰かが勝手にプロジェを進めてくれているという感覚なのである
これは生まれて初めてのことで、驚くべき変化である

その意味で「は快適」である
この漢字変換を変なとことからやったため、「破壊的」と出た
しかし、そうなのだろうか
確かに、自分が努めてやっているという感覚がないため、限りなく続けることも苦にならないのだ
この二つの極、本当は隣り合わせなのかもしれない


来月のことをぼんやりと思い描く
再び、二つくらいのプロジェを並行させてはどうかというアイディアが浮かんできた
懲りないものである
しかし、それをやるのは自分ではないのだから、今回はうまくいくかもしれない
来月の今頃が楽しみである








2020年4月29日水曜日

フランスにおける5月11日以降の制限解除方針について






昨日、エドゥアール・フィリップ首相から5月11日以降の制限措置解除の方針が発表された
丁度、大使館から連絡が入ったところだったので、その概略を以下に紹介したい
方針は微に入り細を穿つという印象である

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4月28日、フィリップ首相が国民議会において5月11日以降の制限解除等に関して演説を行った
5月11日以降の基本方針として、「ウイルスと共に生きる」、「段階的に」、「地方ごとに」が掲げられた

・学校については学校施設ごとの方針が示され、テレワーク継続が推奨された

・カフェ、レストラン等(6月2日以降の再開を今後検討)以外の商業施設は再開可能に

・100キロメートル以下の移動は解禁、それ以上の移動には証明書が必要になる
市内交通は平常時レベルに戻していくが、大型美術館や大型イベントは引き続き閉鎖


詳細について

【現状認識】

● 3月17日以降、戦時下や感染爆発の際にも前例のない制限措置をとっているが、無制限に続けるわけにはいかない
経済的にももたないからだ

● 現在の様々な制限は有効で、医療体制の崩壊を防いだ
4月14日以降、入院者数は減少に転じ、4月8日以降、重体患者数も減少に転じている

● 段階的に、確実に、賢明に、制限を解除してくべきだ

● 5月11日以降の制限解除方針は、状況が悪化することがあれば、5月11日という日付は後ろ倒しになる

● 医療体制は維持されているが、医療従事者は疲れ切っている

【5月11日以降の基本方針】

● 我々はウイルスと共に暮らさなければならない
ワクチン開発や集団免疫の形成はまだ先の話
ウイルスが広がるスピードを抑えなければならない

● 5月11日以降も毎週状況を確認し対応していく
6月2日以降、新たなフェーズに入れることを期待しているが、仮に第2波が確認されれば再度外出制限に戻る
フランス国民の民度の高さを見せて欲しい

● 段階的に、地方によって濃淡をつけて制限を解除していく
地方・県によって状況は大きく異なるからである
明日から、カステックス制限解除担当長官を中心として各県議会等との協議を開始
明後日からは、各県の民間団体とも協議を開始する
5月7日までに各県ごとの方針を固めていく

●「ウイルスと共に生きる」、「段階的に」、「地方ごとに」が基本方針の3本柱

● 5月11日以降を一言で言えば、「防御、検査、隔離」である
従来どおり、物理的距離、手洗い等を徹底していただきたい

(防御マスク)
● 多くの状況においてマスク着用が推奨される
科学委員会による見解の変化もあった
マスクは殆ど意味が無いとしていたが、あるに越したことはない、と意見が変わった

● 従来我々は、医療用マスクを20週間分備蓄し、その他は輸入に頼っていた
しかし、EU、米等と同様に、輸入が出来なくなり需要が供給を上回ってしまった

● マスクの国内生産を5倍に拡大し、医療従事者に優先的にマスクを供給し、布マスクの生産も開始した
現在、週に1億枚のマスクと2000万枚の布マスクを生産することができる
5月11日には十分な量のマスクが供給される

(検査)
● 5月11日以降、週に70万件の検査を行う
全ての検査は保険で100%カバーされる
科学委員会は、一日当たり1000~3000の陽性者を見込んでいる

(隔離)
● 各県は、陽性者から濃厚接触者や伝染のチェーンを特定しなければならない

● 陽性者が出た場合、その家族も検査されなければならない

● STOPCOVIDは補完的な役割を果たし得るに過ぎないが、STOPCOVIDに関する議論や開発はまだ十分ではない

【各論】

(学校)
● 5月11日以降、保育園、幼稚園、小学校は再開可能とするが、登校は自由とする
マスクやジェル等を供給するが、子供のマスク着用は義務づけない

● 5月18日以降、中学校を再開可能とする
マスクを市町村から供給するので、先生も生徒もマスク着用を義務とする

● 幼小中学校は、15人以下のクラスとする
保育園は10人以下とし、医療従事者の子供が優先される

● 高校は当分閉校
5月末に、6月2日から再開できるか検討する

(企業に対して)
● 6月2日まで、テレワークは継続して欲しい
不可能な場合は、ローテーションを組む等して欲しい

● 業種ごとに、コロナ対応マニュアルを作成している
現在33のマニュアルがあり、今後60まで拡大するので参照して欲しい
人と人との距離がとれない場合はマスクを義務付けて欲しい

● 部分的失業制度については、6月1日まで延長していく方針

(商業施設)
● カフェ、レストラン、バー、ディスコ、大型ショッピングモール(4000平方m以上)以外は5月11日以降再開可能
カフェ等は、6月2日以降の再開を今後検討していく

● 市場も5月11日以降再開できるが、地方自治体の判断で閉めることも出来る

● 商業施設では、1mの距離や人数制限、マスク推奨等につき配慮する必要がある

(移動外出・公共交通機関)
● 5月11日以降、100km以下の移動は解禁
100km以上や県をまたぐ移動は現状どおり特別な場合(家族の理由等)に限られ、証明書が必要

● RATPは70%程度に回復
市内交通は元に戻していくが、席数は半減

● タクシーも含め公共交通機関を利用する際は、マスクは義務

● TGV、 intercite等の長距離移動は増やさない
チケットは要予約

(文化・スポーツ等)
● 安全が確認されれば公園等も解放されるが、10人以上の集団利用は不可

● コンタクトスポーツ・集団スポーツも不可
ビーチは6月1日まで閉鎖

● 図書館や地方の小規模な美術館は5月11日以降再開

● 大型美術館、博物館、映画館、コンサートホール、パーティールームは引き続き閉鎖

● 大型フェスティバル・スポーツイベント等は、9月まで不可
サッカー2019-2020シーズンも再開せず

● 宗教施設は5月11日以降再開されるが、宗教行事は6月2日まで禁止
お墓参りも5月11日以降可能になる

● 市役所での結婚式は、5月11日以降も再開されない














2020年4月28日火曜日

哲学における論理学の役割(3)




論理学と共に、あるいはそれなしで(3)

論理学が哲学者に齎すものを自問することにはそれなりの理由はないのだろうか
結局のところ、哲学者が興味を持つのは命題の中身であって、その形式ではない
「にんじんは調理されている」という文を取ってみよう

論理学者は、命題論理において、この文は p で置換できると言う
例えば、「にんじんは調理され、キリンは長い首を持っている」は、p & q で表現される
勿論、q は「キリンは長い首を持っている」である

従って、「もしにんじんが調理されていれば、キリンは長い首を持っている」は p → q で表される
このようなことをしても結論は何も変わらず、哲学者がその勉強をしても時間の無駄である
その魂も失うのではないか

「神が死ねば、すべては許される」
これは何を意味しているのか
自分があるところのものに一人で責任を持たなければならないことを知っている今だから
現代人は神から見放された極端な状態に対峙しなければならない

それを我々に語るのは、「もし p ならば q である」というような論理的解析ではない・・・
少なくともこれが、論理学の講義で、深く実存的な問題を訊かれた時に哲学科の学生が考えることである

その学生に何と答えるのだろうか
それではなぜ、アリストテレスや中世の哲学者が哲学や神学をやることになる時、論理学に優位な役割を与えたのか
ドゥルーズやガタリのような大陸哲学者は、その哲学的価値を非常にネガティブに考えた
それなのになぜ、分析哲学では論理学が決定的な役割を担い続けてきたのか

このような問いを出すことは、その答えがすべての人を満足させるものにはならないかもしれない
しかし、そうすることが現代哲学をよりよく理解することを可能にするのである










哲学における論理学の役割(2)




論理学と共に、あるいはそれなしで(2)

1960年代から80年代のフランス構造主義では、あらゆるジャンルの現象を理解可能にするアルゴリズムを発見したいと思う者がいた
モーパッサンの中篇を対象にしたA・J・グレマスから神話を研究したレヴィ・ストロースを経て無意識を研究したJ・ラカンまで
その際、モデルの役割を果たしたのが数学であった

「二コラ・ブルバキ」と呼ばれた数学者のグループは、数学の形式主義の一つの流れを発展させた
ブルバキ派の言葉は数学にだけ有用だったので、ブルバキ派の人たちに責任があるわけではないのだが
哲学者の中には、哲学においても構造や形式に興味を示すのがよいと主張する者もいた
このやり方は、哲学の「精神主義的」見方から抜け出る唯一の道であった

ミシェル・セールは、当時こう言っている
「ある文化的内容について、形式としてその内容を明らかにする時にだけ、解析は構造研究になる」
このような捉え方は殆どいつも、数学的概念や形式と構造の概念の隠喩的用法を生み出したのである

この点について、批判者は「知的詐欺」について語ることができたのである
特に、フランスの構造主義哲学者(ラカンの仲間)が使う数学的・科学的語彙は、冗長で見せかけのレトリックに過ぎなかった
いずれにせよ、数学は哲学者の間で評判がよいが、そこにはプラトンやデカルトが関係している
彼らは思弁が持つすべての長所を数学に付与したのである

特にフランスでは、数学に比して論理学は哲学者のネガティブな反応を引き起こす
この態度はかなり前まで遡ることができ、デカルトに既に存在している
コンディヤックやオーギュスト・コントにも見られ、コントの影響は強いものがあった
さらに20世紀初め、論理学の擁護者B・ラッセルとH・ポアンカレの数学における証拠についての論争の中にもあった

論理学に対する敵意は、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリで極限にまで達した
彼らは、哲学の子供じみた考えを作り出すとして論理学を非難した
実際に悪く言われたのは、哲学におけるすべての形式的方法である

形式主義はしばしば素朴で単純化されたものとして考えられていた
論理学は真に自由な思考のためには束縛となるものではないのか
むしろ哲学者には、「真に哲学的な」、哲学に特有の論理学を提示することではないのか
それは、形式的な規則にしか興味を示さない論理学者の論理学とは異なるものである

(つづく)









2020年4月26日日曜日

COVID-19 の最新情報






ジョン・キャンベルさんによる COVID-19 の4月25日時点での情報を紹介したい

まず、世界の感染者は282万人を超え、死者も20万人に迫る勢いになっている
ただ、実際はこれを大きく上回っていると予想される

WHO の新しい解釈が出た
それは、抗体があっても二度目の感染に有効であるという保証はないというもの
抗体陽性者に免疫証明書を出したとしても全く安全という訳ではなく、これまで通りの注意をすること
さらに、抗体検査が必ずしも正確ではないこともある

抗体保有者の血漿を投与すると効果を示すようなので、ジョンさんは全面的には同意していないようであった
しかし、用心するのに越したことはないという立場だろう


以下に各国の現状を

アメリカ 

感染者:905,333  死者:51,949

1週間の増加を州別で見ると、
 ネブラスカ:99%  アイオワ:90%  アーカンソー:60%  サウスダコタ:44%  オクラホマ:26%
アメリカの中西部に感染が広がってきたようである

一方、活動の再開を考えている州も出ている
 ジョージア、フロリダ、サウスカロライナ、ミシシッピー、アラスカ、オハイオ、テネシー

COVID-19 入院患者5,700人(ニューヨーク州)で併発している病気のベスト3
 1)高血圧(57%) 2)肥満(42%) 3)糖尿病(34%)

ヨーロッパ

EU(ドイツ?)が80億ユーロを医療サプライ(ワクチン開発を含む?)に拠出

フランス

感染者:159,953  死者:22,279
ロックダウン解除を検討中
 洋裁材料店を早く解除するという話:マスクなどを作るためではないかと想像していた

スペイン

感染者:219,764  死者:22,902(木曜+367、金曜+378 ⇒ まだ増えている)

ベルギー

感染者:45,325  死者:6,917
5月11日に活動再開の予定(公共の乗り物ではマスク着用が義務付けられる)

*マスクの効用(数字は程度を示す目安)

感染者(マスクなし)――――>非感染者(マスク)  70%感染
感染者(マスク)  ――――>非感染者(マスクなし)5%感染
感染者(マスク)    ――――>非感染者(マスク)  1.5%感染 

イギリス

感染者:144,640  死者:19,506(増えている)

スウェーデン

感染者:17,567  死者:2,152
この数字は、デンマーク、ドイツ、ノルウェイ、フィンランド、ポーランドなどより高い
写真を見る限り、social distancing が行われていないとのこと

ヨーロッパで唯一、ロックダウンをしていない国で、集団免疫の方針を取っているようだ
これはある意味で何もしないレッセフェールのようなところがあり、老人などに影響が出る可能性が高い
イギリスが最初これで行こうとしてすぐに変更した
スウェーデンの実験がどのような結果を齎すのか興味深い

イタリア

感染者:192,994  死者:25,969

5月4日から170万人が仕事に復帰する予定
イタリアはフロントランナーなので、解除後の戦略に学ぶところが出てくるだろう
旅行は必要最小限に
公共の乗り物内ではマスクを、換気も重要
タクシーでは2名以上の時にはマスクを

時差出勤、在宅勤務、週~数日の勤務など
移動にスクーターや自転車を推奨、それに合わせて自動車道を空けるなどの方策も
これは非常時でなくてもよい方策かもしれない

中国

感染者:83,901  死者:4,636
この10日間で外からの人を除くと死者なし
但し、香港の研究によれば、2月20日の段階で、232,000の感染者がいたという(計算方法は不明)
これが科学的な算定であれば、上の数字は全く信用できないことになる

トルコ

感染者:104,912  死者:2,600

死者の認定には臨床診断も重視すべきとのWHOの声もある(?) 









2020年4月25日土曜日

哲学における論理学の役割(1)





論理学と共に、あるいはそれなしで(1)

大学における哲学の新しい学生は、論理学を学ばなければならないことにしばしば驚く
悩まされることさえある
哲学にとって論理学はどのような有用性があるのだろうか
哲学史、倫理学、政治哲学、美学、科学哲学のように、論理学はなぜ哲学の過程に顔を出すのだろうか

学生の頭の中では、論理学は数学と結び付いている
しかしフランスの教育システムは、文系と理系の間の殆ど絶対的と言ってもよい分離で特徴付けられている
数学と論理学は科学の側で、哲学は文学や人文系になるだろう

一方は認知的、科学的、理性的、もう一方は感覚的、感情的、文学的、芸術的という対立は決定的だろう
哲学は後者と関連する部分を持っている
多少とも科学的な分野と付き合いながらも、最早その中での役割はなくなっている
哲学が裏切ったのである

文系の進学クラスでは哲学が教えられ、大学の哲学科は一般に文学や人文科学のキャンパスにある
大学の哲学研究において、正式の学科としての論理学は何をするのだろうか
文系の進学クラスの哲学研究に論理学がないというのは本当である
このような教育のやり方は、良い徴なのだろうか

数学が文系の学生に嫌気を起こさせるとする
その抽象観念や形式主義は哲学者の一部を惹き付けずにはおかないだろう
フランスの教育システムで広く実践されている数学のフェティシズムは、哲学においても広まっているのである

(つづく)







2020年4月24日金曜日

精神と魂と身体(13)





性向と人間の魂(2)

しかし、「現代の」哲学は何に関わっているのだろうか
アリストテレスと共に、古代哲学に関わるのだろうか
神経科学の時代にいる現在、アリストテレスのモデルが少しでも意味があるとどのように信じるのだろうか
確認したいのは、アリストテレス・モデルの貢献に異議を差し挟むものではないことである
ただ、アリストテレスの伝統は今なお存在している

機能主義において何かを思考にするものは、欲求や苦痛、あるいは如何なる心的状態も内的な構成には依存しない
依存するのはその機能であり、認知システムにおける役割だけである
それは最終的には、アリストテレスの教義から遠く離れるものなのだろうか
現代のこころの哲学者の中には、アリストテレスの伝統を明確に主張し、理性的魂に現実味を与える者がいる

人間における生の原理は、成長、繁殖したり、動き、知覚するだけでは駄目で、理解し考えなければならない
こころの研究は、人間の理性的性向の研究でなければならない
その性向は、人間に他の動物との特異的な違い(理性)を付与することなしには理解できない活動や振る舞いに表れる
 
その視点から見れば、感情は認知的であるというテーゼは、こころの哲学の一つのやり方を示している
それは、心身の違いを基にして議論するやり方とは異なるものである
感情は、ある状況を理解し、しばしば道徳的に適切に反応する人間に特有なやり方である
人間を理解するということは、魂と身体で構成される存在、全体性に興味を持つことである
その存在は、他者と共にいる世界、社会生活の中、自然物と人工的なものの中にいる
どんなやり方であれ、その全体を断片化する時、人間的現実から離れる危険を冒すことになる

「こころの哲学」という表現は、デカルトのパラダイムの中にある理論を特徴付けるために取っておくことができる
それは心身の関係に関する議論になる
対する「魂の哲学」は、我々を全く違う伝統の中に置く
そこでは、人間の研究がその潜在性を基に存在の種類を区別する形而上学と結び付いている
従って、心的状態について調べるよりは、道徳的な反応や芸術的、宗教的な活動を研究して人間について学ぶのである















2020年4月23日木曜日

精神と魂と身体(12)





性向と人間の魂(1)

二元論者も反二元論者も人間に心的状態と物理的状態があると見做し、両者が結ぶ関係について自問する
新アリストテレス主義の見方によれば、それが物理的なものであるかどうかは別にして、人間に性向が与えられる
性向は、ある条件(実行するための社会的なものも含む)と能力を前提としている

ポーランド語を話すためには、話す能力と、その言語を子供のころ家族の中で、あるいは後に学んだ能力が要求される
遊ぶ、話す、フルートを演奏する、哲学をやるなどの理性的な性向は、人間に特有のものである
性向とは特性である
しかし、何の?

理性的性向の場合(大学に行きたい、試験を受けたい、受かりたいなど)、それは人間であることの特性である
意図を持ち、欲し、望み、愛する人は一人の人間であり、その精神でも身体でもない
二元論者や反二元論者は、意図や欲求や感情を付与する際、カテゴリーの間違いを犯す
ただ一人の人間だけが意図や欲求や感情を持つことができるのである

心的現象を理解するとは、心的状態を記述することではない
そうではなく、社会的状況に置かれた人間が語り、することを解釈することである

「魂」という言葉に、不死性と直接結びつく宗教的意味合いを伴う精神と同じ意味を与えるという習慣があった
しかしアリストテレス主義者にとって、魂は身体の形である
それは丁度、家の形相がそれを作っているレンガやモルタルに構造を与えているのと同じ意味において
形相の存在がレンガやモルタルを家にするのであって、壁や窯ではない

アリストテレスにとって、レンガやモルタルは潜在的に家なのである
それらが家として適切な形を実現するまで
この場合、形相と材料が一緒になって家を現実に作っているのである

アリストテレスの言葉に肖れば、形相は家の現実性である
形相の存在が、なぜある特定の量の材料が他のものではなく家になるのかを説明している
同様に魂の存在が、なぜある材料が他のものとは区別される人間になるのかを説明している

人間の魂は、人間という特定の生物の特殊性を説明している
クリストフを鯉や猿ではなく人間にしている原因は、クリストフの現実性と分けて考えられないのである














2020年4月22日水曜日

COVID-19 の新情報




COVID-19の状況に関しては、これまでジョン・キャンベルさんの発言に注目してきた
日本の状況が説明されることは稀だが、考え方に一つの筋が通っていると感じたからである
理性的・科学的な視点が徹底されているということだろうか
事実、彼の見方を指標にして日本の状況を見直すと、いろいろなことが明らかになってきた
これまでのところ、非常に役立っている


今日は、昨日の発信のポイントを紹介したい

最初は、どれだけの人が抗体を持っているのか、免疫を獲得していると想像されるのかという点である
WHOもオランダでの研究も抗体保持者は2-3%程度であるとしている
スタンフォード大学の研究では数字がかなり高く、間違っているのではないかとジョンさんは言っている
少なくともわたしが見たところでは、2.5~4.2%程度なのであまり違わないようである
いずれにせよ、抗体陽性率が60~70%にならなければ集団免疫はできないと言われている
パンデミックはまだ初期段階にあり、その制御には時間がかかりそうである

次は、巷で噂されているように、今回のウイルス(SARS-CoV-2)が人工的に作られたのかという問題である
これに関しては、WHOと同様に、あくまでも動物由来であるとジョンさんは考えている

それからイギリスの現状が紹介されている
4月10日までの週(第15週)の死者は、前週より2,129人増えて、6,213人(総計=18,516人)
この週の死者数は過去最多で、全死者数の33.6%(ロンドンで見ると53%)を占めている
第14週ではこの割合が21.2%だったので、確実に死亡する人が増えている
また場所による違いを見ると、家<病院<介護施設の順に死者数も死者の増加率も増えている









精神と魂と身体(11)





生活形式としての思考(2)

「もの・こと」を別の方向から検討することも可能である
考えるとは、例えば、集め、組み立て、分解し、一番しっくりくる何かを探す人のように、することである
苛立ちや満足を示す音を出すことも含めて

人間のようなロボット、あるいはロボットのような人間の可能性はその意味を失う
もし「なぜその人はその動きや身振りをし、その音を出すのか」という問いに答えなければならないとしたら
それではうまくいかない、こうやるのがよい、やり方を見つけたなどと彼は考えたと言わなければならないだろう

この考え方は、人間は物質的存在であるという見方(唯物論になるが)に何ら反するものではない
なぜなら、人間に意図や願いや信念を付与することは、人間を非物質な存在であると考えることを意味しないからだ
しかしそれは、すべての心的状態が物理的状態に還元できるということではない
そうではなく、物理的なものは一つの「生き方」を持つことができることを意味している
それはそのものに特有で、人間ではない他のいかなる物理的なものもその生き方を持つことはできない


思考を、意志を持つ、信じる、欲する、想像する、心配する、待つ、望むなどのことであるとする
現代哲学に広まっているかもしれないが、思考とは内的状態や内的出来事であるという主張は当然なことではない
フロイトに倣って付け加えるとすれば、これらの状態や出来事は部分的に無意識である

まずそれは、我々が意志を持ち、欲し、望みむなどのことをする場合の心的状態ではない
そうではなく、それは我々が採用する態度の多様性である
ウィトゲンシュタインは「生活形式」(Lebensform)ということを言う

アリストテレスに照らして再解釈すれば、これは人間に特有の生の形態のことである
それは人間的なものとして人間を特徴付ける
そして、すべての挙動は社会的に構成された実践の中で現れ、そこでは我々の言語能力がしばしば構成的役割を演じる

一般的に、動物は移動や摂食の仕方、生活の場、社会的構成などを考慮して記述することができる
ある動物は、意図や信念や願望などを考慮して特徴付けることができる
そうでなければ、彼らがやっていることを十分には記述できないだろう

ウィトゲンシュタインはこう言った
「命令し、質問し、駄弁るなどのすべては、歩き、食べ、飲み、遊ぶのと同様に我々の自然史の一部を成している」
多様なやり方で言語を使うこと(「言語ゲーム」;Sprachspiel) は、人間の自然史に属している
それは丁度、木の中で生きることがサルの自然史に属しているように

言語ゲームは言語のみならず行動も含み、「生活形式」の中に組み込まれているのである















2020年4月21日火曜日

精神と魂と身体(10)




生活形式としての思考(1)

そもそも考えるということは何から成っているのか
我々は、本質的に考えるものである我々のことを最もよく知っているのだろうか
ベルクソンが言っているように、多くの哲学者は、我々は「われわれ自身の中に入る」能力を持っていると主張する
その能力は、我々の内的眼差しを自由に使う内的生活が何から成っているのかを検討するために使われる

これは、『デカルト的省察』で「意識の純粋な生」の研究を提唱したフッサールに見られる概念である
一般的に現象学は、後に「志向的生」と呼ばれる精神生活へのアクセスの可能性に依拠している
こころの科学の進歩のお陰で、脳内の物理的過程はどんどん記述が可能になっている
多くの認識を専門とする心理学者や神経心理学者は、思考はその対極にあると考えているように見える
ウィトゲンシュタインは、志向性の状態、心的状態に関わる思考の中身は何から成っているのかを自問する
それが物理的状態に還元されるか否かは別にして

わたしは、次の週末にパリに行くのはよいことであると考えるができる
さらに、サン・ミシェル通りのイメージをこころに浮かべることもできる
しかし、そのイメージがなくてもそう考えることができたであろう
そして、そのイメージはわたしが思い描くことのできると主張する唯一のものに見える
我々は、我々自身で内部を観察することにより、考えるとは何であるのかを知ることができない

ウィトゲンシュタインにとって、考えるとは「彼の中に多くの生の表現を集める概念」である
彼は次のような場面を描いている
ある人が建築部品と道具一式で何かを作る
その人は、これを取り、あれを捨て、集め、分解し、再び組み立て、一番しっくりくる何かを探す

すべての過程を映像に収める
その人は「うー」とか「あー」という音を発するが、話はしない
音は録音される
その映像を観て、わたしはその人の見振りと発する音に対応する内なる独り言を想像することはできる

わたしは彼に「ちぇっ、この部品は長すぎる」、「これから何をしようか」、「これだ」と言わせることはできる
その人は、その身振りをし、その音を出しながら考えたことだったと確認することはできるだろう
仕事中、彼は何も言わず、これらの言葉に対応することを思い描いたこともなかった
我々は映像が示す見振りや録音された音に何か(内的な過程)が伴っているはずだと考えがちである
おそらく、二元論者の影響であり、心理学者の問いの出し方の影響もあるのだろう

思考とは、この例のように、動きと音、より一般的には行動と言葉に伴うものだろう
そこから、同時並行での思考がないところに行動や言葉は可能なのか否かの問いが現れる
ロボットやゾンビは我々が感じることは感ぜず、我々のように行動しないのではないだろうか


(つづく)















2020年4月20日月曜日

精神と魂と身体(9)





ご無沙汰してしまったが、再び『現代哲学』に戻ってみたい(前回はこちらから)


アリストテレスの帰還

同じ前提を共有している二元論者と反二元論者は、世界最高の好敵手である
両者は共に、根本的な問題は精神(心的特性)と身体(物理的特性)の関係であると考えている
彼らは二つの特性が全くの別物であるとするか、同一性から付随性に至る関係を確立しようとする
それを完全な還元可能性なしに行ったが、その間には不完全な還元可能性を持つ異なる形がある

精神が占める位置はどんなものなのか
純粋な精神的実在なのか
単なる錯覚、あるいはこころの科学が最終的に根絶するという「通俗的な」語り方に過ぎないのか

しかし、あらゆるジャンルにおける二元論者と唯物論者に共通するこれらの前提を拒否することができる
アリストテレスにとって、精神と身体の関係は問題ではなかった
彼は二元論者でも反二元論者でもなく、「四元(素)論者」だったのである

彼は思考と知覚の性質に関連する問題を検討した
精神と物質というぶつかり合うカテゴリーの中でではなく、四つの構成要素を含む大きな枠組みの中で
四つの構成要素とは、自然の物質、生き物、知覚する動物、理性的動物である

アリストテレスとトマス・アクィナスは、存在の物差しの特定のレベルを占める動物として人間を考えていた
動物は物理的身体が特別な種類の動物である
下のレベルが常に必要条件を構成しているとしても、それぞれのレベルは質的に還元不能である
魂は生き物を生き物たらしめているもので、人間の魂はある存在を人間にしているものである

この意味で、アリストテレスとアクィナスにはこころの哲学はないが、知覚する動物と人間に特有の生の説明がある
人間の生とはどのようなものなのか
これはよい問いになるだろう

しかしそれは、デカルトが我々に教えたことのすべてに戻ることにならないだろうか
わたしは考えるものである
今日では「主体」であって理性的動物でないと言われるものである
それ故、私の思考が私の身体とどのように相互反応できるのかを知ろうとする問題が出されるのである
ロックのように、物質がどのようにして考え始めることができるようになるのかを問うこともできるだろう

しかし、デカルトが魂と身体の関係を省察し、この問題を適切に問うたことが問題にされているとしてみよう
また、哲学の主要な問題は主体や主体の批判であるとは考えられていないと仮定してみよう
その場合、アリストテレスの「四元論」の意味が見えてくるかもしれない
このようにして、20世紀後半、アリストテレスやアクィナスの伝統が再び現れたのである

アリストテレスやアクィナスを特に読んだわけではない哲学者から衝撃が来た
その哲学者はウィトゲンシュタインである
彼がこころの哲学について独自の省察を行うことによりその根源的な側面を発見したように事は進行した
より正確には、アリストテレス・アクィナスの伝統に特有の「魂」の哲学についての省察である
少なくともすべてのイギリスの哲学者たちは、ウィトゲンシュタインをそのように理解したのである















2020年4月19日日曜日

記憶の彼方のニューヨーク





今日、この曲が流れてきた
80年代初めにニューヨークにいた時、映画Arthurを観、その主題歌をよく聴いていたことが蘇ってきた

それから20年ほどして、アメリカ文化を振り返ることになった
しかし、当時はその中に完全に入っていて、全身でその文化を受け止めていたことが見えてきたのである

しかもそれを今から見直せば、現実世界としてではなく、地上から離れた世界の中に浮いていたように見える
ここ10年余りの間、身を置いていた世界はフランスに変わったが、地上から離れた世界にいたことに変わりはない

今は記憶の彼方に去っているアメリカも、実は幸福な天空の世界にいた時間であったのだ
そのことに気が付いたようである