2020年4月28日火曜日

哲学における論理学の役割(3)




論理学と共に、あるいはそれなしで(3)

論理学が哲学者に齎すものを自問することにはそれなりの理由はないのだろうか
結局のところ、哲学者が興味を持つのは命題の中身であって、その形式ではない
「にんじんは調理されている」という文を取ってみよう

論理学者は、命題論理において、この文は p で置換できると言う
例えば、「にんじんは調理され、キリンは長い首を持っている」は、p & q で表現される
勿論、q は「キリンは長い首を持っている」である

従って、「もしにんじんが調理されていれば、キリンは長い首を持っている」は p q で表される
このようなことをしても結論は何も変わらず、哲学者がその勉強をしても時間の無駄である
その魂も失うのではないか

「神が死ねば、すべては許される」
これは何を意味しているのか
自分があるところのものに一人で責任を持たなければならないことを知っている今だから
現代人は神から見放された極端な状態に対峙しなければならない

それを我々に語るのは、「もし p ならば q である」というような論理的解析ではない・・・
少なくともこれが、論理学の講義で、深く実存的な問題を訊かれた時に哲学科の学生が考えることである

その学生に何と答えるのだろうか
それではなぜ、アリストテレスや中世の哲学者が哲学や神学をやることになる時、論理学に優位な役割を与えたのか
ドゥルーズガタリのような大陸哲学者は、その哲学的価値を非常にネガティブに考えた
それなのになぜ、分析哲学では論理学が決定的な役割を担い続けてきたのか

このような問いを出すことは、その答えがすべての人を満足させるものにはならないかもしれない
しかし、そうすることが現代哲学をよりよく理解することを可能にするのである










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