2020年4月2日木曜日

現象学とは(6)




特に現代フランスの現象学についてのコメント(つづき)

(2)現象学はしばしば、他の哲学的アプローチを排除するもののように見える

それは次のように理解される
もし現象学者が正しいとしたら、哲学における適切な方法は現象学の方法以外には存在しないことになる
例えば、意識生活の記述 、我々が知覚できるすべての基礎、「もの・こと」の理解など

現象学者は「現象学的還元」によって真の哲学的態度に入り、そのようにして現象の意味に近づくと考える
対象を取り間違えた探索の素朴さと不確実性を断ち切った方法なしに、一体誰が済まそうというのだろうか
本来の対象は、我々にとっての現実の意味を構成するものとしての意識の中身で、外部にあるものではない

これは次のようなことが言われたことを説明している
「形而上学が目的を見つけて以来、哲学は現象学の下でだけ真に追求できた」⧪
「本質的な部分において、現象学は20世紀の哲学の役割そのものを担っている」⧪

分析哲学者は、形而上学は終わるどころか非常によくやっていると考えている
なぜなら、多くの哲学者が形而上学の論文や本を書き、世界の殆どすべての大学で形而上学が教えられている
この流れの哲学者として、ピーター・ストローソンデイヴィド・ルイスデイヴィド・アームストロング
ジョナサン・ロウジョン・ホーソンピーター・ヴァン・インワーゲンフレデリック・ネフ、他多数

しかし現象学者の中には、そこに見方の間違いがあると考える人がいる
形而上学が終わる時、ある者は不幸にもまだそれをやっていると主張するかもしれないのである
しかし今日、現象学だけが「哲学的意図を哲学自体の完成へと到達させるのである」⧪

このようなコメントによって、分析哲学と現象学の間を溝を計ることができる
それが哲学的テーゼ間の論争ではなく、乗り越えることが難しい分裂に関するものであることも分かる
分析哲学者から見れば、現象学者は意識行為の重要性を強調し、問題の多い観念論へと向かうように見える
結局は月並みで難解な語彙と基礎的であるという思い上がりによる心理的描写に満足しないのではないか

現象学者にとっての分析哲学者は本物ではなく、真の哲学との関係を結び直すことができる転回をしなかった
対立するものの和解は非常に危ういように見える


ジャン・リュック・マリオンの言葉


(つづく)









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