2020年2月14日金曜日

実在論の擁護(2)



しばらく時間が空いたが、反実在論に対する実在論についてに戻ってみたい

「信頼性主義」における信念の証明は、我々の認識能が正しく機能しているという事実によっている
しかし、その事実に主体は近づくことができない
この概念のあるものは、「外在主義」(エクスターナリズム)とも呼ばれる
認識の価値や信頼性を決めるために我々の信念の証明をするが、それは世界という外的なものである
従って、この証明は我々の能力にはよっていない

これに対する「内在主義」(インターナリズム)は、次のように主張する
我々の精神の検討により、我々の信念の認識論的価値を制御できなければならない
そこでは、無謬性が要求されているように見える
デカルトなどに見られるように、我々の知は反証不能で疑う余地のない考えに基づかなければならない
つまり、「知るということは、決して間違わないということ」になる

信頼性主義と外在主義は、可謬主義に甘んじるのである
我々の認知装置が正常に機能していないとすれば、私の信念は保証されず、間違っているかもしれない

正しい信念(偶然)と知識の違いは何なのか
知識は偶然の問題にもなり得るかもしれない
しかし、真理の発見において、知るということは偶然を排除することではないのか

信頼性主義に対するもう一つの異議申し立てのやり方として、次のような状況を想像するとよいだろう
それは、認識能が正常に機能しているが、それにも拘らず間違った信念を持っている人間である
懐疑的仮説の一つである

我々が描く世界とそれとは独立に存在する現実とが忠実に対応していることを保証するものは何もない
しかし、正常な機能という概念に目的論(認識論的な)を加えることはできないだろうか
我々の認識能は現実を知るために出来ていると想像してみよう
デカルトやスピノザ以来の哲学者は目的論に対する警戒を最後まで怠らなかったので、この仮説は大胆である

目的論とは、物や特に人間が今在るように在るための目的、すなわち目的因を持つという考え方である
ただ、この仮説自体は創造主の存在を前提としてはいないことに注意が必要である
進化が、現実を知る能力によって生き残る種の出現に有利に働いたことが考えられる


(つづく)






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