2022年9月1日木曜日

R・G・コリングウッドによる科学と哲学
































以前、イギリスの哲学者による詩と散文、哲学と歴史、科学と哲学などの対比を興味深く読んだ



今回改めて、コリングウッド(1889-1943)の死後、1945年に刊行された書を手に取ることにした

そこに、これから考えていきたいテーマについてのヒントがあるのではないかと思ったからである

冒頭に、特に新しいところはないと思うが、わたしの認識にも通じる科学と哲学についての考えが書かれてあったので控えておきたい

 自然事象の個別的研究は、ふつう自然科学と、あるいは簡単に略して単に科学と呼ばれている。一方、原理への反省は、自然科学に関する反省であれ、思考あるいは行動といった他の部門の反省であれ、一般に哲学と名づけられている。・・・哲学に反省の題材を与えるためにはまず自然科学が生じなければならないが、科学と哲学は非常に密接な関係をもっているため、自然科学は哲学が始まらなければ長く続きえない。・・・哲学は、科学者が研究する上の根拠としていた原理に関する、科学者の新しい意識から生まれた、新しい確実性と整合性を自然科学の前途に与えてゆく過程を通じて、科学そのものから成長してくるものなのである。

 それゆえ、自然科学のことはもっぱら科学者と呼ばれる人々に委せ、哲学のことは哲学者と呼ばれる連中に委せておけばよいのだということは成り立たない。自分の研究の原理について一度も反省したことのない者は、それに立ち向かう大人としての態度を全うしえないといえよう。自分の科学に一度として哲学的省察を試みたことのない科学者は、生涯、二流の、猿まねの、下積みの科学者の域を脱することはできないであろう。またある種の体験を経たことのない者はそのことを反省する術もない。自然科学を研究したり、それに従事したことのない哲学者は、それについて哲学することは不可能であり、敢えてそうするものは世の失笑をかうだけであろう。

 十九世紀以前には、少なくともかなり優秀でかつ著名な科学者たちはつねにある程度自分の科学に関して哲学的省察を加えてきたものだった。そのことはかれらの著作が証明している。しかもかれらは自然科学を主要な任務とみなしているのだから、当然これらの著作が証明する以上に広汎な哲学的活動を行っていたと考えてもよいだろう。 十九世紀に入ってから、自然科学者と哲学者を二つの専門集団に分ける風潮がだんだん大きくなった。一方では他方の研究を少しも顧ることなく、ほとんど共感を寄せなくなってしまった。これは双方に害をなす悪しき風潮であり、双方ともどもその風潮が終わるのを見とどけ、それが作りだした誤解の裂け目に何とか橋をかけたいと願っている。


(平林康之、大沼忠弘訳)












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