2017年6月24日土曜日

第1回ベルクソン・カフェの初日が終わる



今日の夕方から、フランス語で哲学のテクストを読む第1回のベルクソン・カフェがあった
当初予想していたのは2-3名の参加であったが、他のカフェと変わらない人が参加された
これは嬉しい誤算であった
参加された皆様には改めて感謝したい

今回はどのようにやればよいのかを決めかねた中でのスタートとなった
結局、テクストをそのまま読むというスタイルで行った
最初は講師からスタートしたが、希望する参加者数名にも読んでいただいた
まさに、大学の講読コースと同じだとの声も聞こえた
ただ、フランス語という外国語を解読するという過程そのものに魅力を感じている方もおられた
中には、テクストの翻訳をプリントされてきた方もいて、これから参考になるものと思われる

来週の土曜に予定されている二日目も基本的には同じスタイルになるものと思われる
ただ、最初に全体の構図や問題点などを説明してから始めるようにしたい
これは今日の反省から生まれた改善点である
次回は今回よりもスムーズに進むように努めたい
読んでみたい部分をお持ちの方は積極的に参加していただければ幸いである  


ところで、今日選んだテクストはピエール・アドーの「生き方としての哲学」であった
それまで、歴史家は哲学的言説だけを古代哲学の中に見ていた
しかし、アドーが古代哲学の中にはもう一つの要素があることを見出したのである
私がこの言葉に2006年に触れたことが、哲学への後押しをしたと感じている
その意味ではその根を考え直そうという意図もあった

このエッセイでは、ヘレニズム時代、ローマ時代の哲学の特徴が分析されている
ソクラテス、プラトン、アリストテレス、エピクロス、犬儒派、懐疑派、ストア派などが出てくる
そこで指摘されているのは、次のようなことである

哲学はそもそも手に入らない知に向おうとする運動で、そこに逆説と偉大さがある
哲学は根源的な回心、根源的な変容を要求する精神(魂)の進歩の一つの方法である
哲学は自律性、内的自由(autarkeia)、自足性を達成するための方法である
それだけではなく、特にストア派とエピクロス派では宇宙的意識が加わった
すなわち、われわれが宇宙の一部を構成しているという意識である

さらに、哲学は人生と一体化した永続性ある行為で、絶えず更新されなければならないと指摘する
ストア派の場合、人間の意志が宇宙的自然の意志、すなわち理性と一致すること
エピクロス派では、快楽、それは結局のところ存在する悦びになるが、それを求めること
人生の有限性の自覚と現在への集中を説く
なぜなら、それだけがわれわれがコントロールし得るものだからである
そして、そこには宇宙の全体が含まれ、関わっているからでもある

ここで問題となるのが、ストア派が提唱した「哲学についての言説」と「哲学そのもの」の違いである
哲学とは、構成要素の理論を語ることではなく、それらを生きなければならないと説く
構成要素とは物理学、倫理学、論理学である
それらを生きるとは、それぞれ、宇宙を瞑想し、正しく行動し、よく話し、よく考えることである

ここでアドーは、哲学についての言説は哲学ではない、と言っている
エピクロス派の「哲学者の言説が魂の病を癒すことがなければ、それは空疎である」を引いている
この点は議論の余地のあるところだろう

後半はどのような展開になるのだろうか?


文章を読んでの感想がある
自然科学者であれば、もう少し無駄や反復が少ない、構成も整った文章を書くのではないだろうか
そうした方が論点をより効果的に伝えることができるのではないかと想像されるからだ
しかし、そうはなっていない
文系の人の頭の使い方が違っていると思わざるを得ない


会は当分の間、試行錯誤が続くものと思われるが、ご理解をいただければ幸いである
今日のテクストにもあった通り、これからも変容を続けて行きたいものである



会のまとめ






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