2020年1月22日水曜日

再びの分析哲学と大陸哲学(4)



本日も快晴、朝は久しぶりにファドを聞きたい気分
もう9年前になるが、パリで発見した音楽を只管流しながら、暫しの間ポルトガルを想う
ファド歌手アナ・モウラを聞く(2011.3.6)

本日も昨日の続きで、第五の問題である哲学と真理および解釈の関係を検討したい

大部分の伝統的な哲学者と同様に、分析哲学者も哲学を真理の追及として理解している
真理に至るために、前提から結論に至る正しい立論を行う
そこでは論理学や数学のような演繹が使われることは稀で、推論の正確さや有効性が問題にされる

哲学では、次のような問いに関する真理の探究が行われる
例えば、実在の究極の要素は何か? 道徳的価値は実在するのか? 我々は自由なのか?
出来事の間に因果関係は存在するのか? 世界は創造主を想定しているのか?
知るとは何を言うのか? 美的判断は客観的なのか? ・・・

神の存在について、分析哲学者は次のように立論する
1)神が存在するとすれば、それは全知全能で道徳的にも完璧である
2)神が全能であれば、悪を排除できる
3)神が全知であれば、悪の存在を知ることができる
4)神が道徳的に完璧であれば、悪を排除したいと思うだろう
5)しかし、悪は存在する
6)もし悪が存在し、神も存在するとすれば、次のことが言えるだろう
  神は悪を排除できないか、その存在を知らないか、排除したいと思わないことになる
7)これは前提に反するので、神は存在しない

このような議論から導き出される真理に大陸哲学者だけではなく、どれだけの人が納得するだろうか
寧ろ、過去の哲学者がなぜこのような問いを出し、現在でも問われているのかを問うことだろう
このような形而上学的問いを解釈することが重要であり、元の問いに答える振りをすることではない

真理の探究としての哲学に代わるものとして、人間の現象を解釈する哲学がある
例えば、9・11でツインタワーが破壊されたことは何を意味するのかという問いである
分析哲学者の思考は次のように進むだろう
政治的な大義のために無垢の人を殺すのは正当なことなのかと問い、論理的立論をもって答えるだろう
この現象の奥に潜む哲学的で時に形而上学的な深い意味を探るところに思考は向かわない

このような論理的解析一辺倒の傾向は、哲学が衰退の一歩手前まで来ていることを示している
ドゥルーズとガタリは哲学は概念を創出することだと言った
しかし、分析哲学者は概念の分析はするが、大部分は概念の創出は考えていない
概念の創出にどれだけの意味があるのかを問うことも重要である

ドゥルーズとガタリは、哲学は真理ではなく、興味深く、人目を惹く、重要なカテゴリーから成ると言った
しかし、これらは哲学的概念と言うにはあまりにも相対的な性質である
結局のところ、明晰で、正確で、厳密という表現はそれほど悪いものではないだろう








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