2020年1月27日月曜日

哲学と哲学史(3)



今日は曇りだが、太陽が覗く穏やかな天候だった
向かいのグラウンドからは選手の掛け声や声援が聞こえてくる
春が来たかのようであった


今日のテーマは「太陽の下に新しきものなし」なのか、あるいは「大きな物語としての哲学史」なのかである
つまり、哲学の歴史に新しいものはないのか、時代を画す哲学が織り成す物語が哲学史なのかの問題である

昨日、哲学の歴史的再構成(B)は、哲学と哲学史が独立しているという主張(1)と相性が良いと書いた
しかし実際には、(B)は哲学と哲学史が同一であるという主張(4)とも相性が良い
哲学史の重要なテクストを検討すると、殆どすべての問題は過去の哲学者が考えていたことが分かる
歴史の中でその問いに対する回答も提示されている

今日の哲学は、歴史の諸相で他の形を採ってすでに表れていたものを再検討することである
現代の哲学者が何らかの主張をした場合、哲学史家は「誰某がすでに言っていますよ」と指摘するだろう
(この感覚は、哲学に入ったかなり早い時期からわたしの中に生まれたものと共通する)
つまり、哲学において新しいものがあると考えるのは単純すぎるだろう


しかし、すべての主張や見解が哲学史の中にないのではないか
従って、不変の哲学的問いにより良い解を与えるために哲学するというのはナイーブである
哲学は哲学史である
哲学者の対象は、議論を評価しながら検討する主張や見解ではなく、テクストである
過去の哲学者はテーゼを述べ正当化するというが、実際にはテクストを読んでいる
それをさらに明確にし、変形し、再解釈しながら
テクストを検討するしか哲学に残されていないとすれば、哲学は完成したと言えるだろう

フランスでの哲学教育はこの姿勢を採っている
哲学史に依存しない現代哲学という考えに全く意味を与えていない
哲学を教え哲学するということが、重要な哲学者のテクストに没頭することになっている

この姿勢は哲学史を大きな物語にするというジャンル(C)と全く異なっている
(C)では、哲学史が急展開に次ぐ急展開のシナリオのようになっている
(C)の主張は、現代哲学は歴史の物語の中でしか理解できないというものである

従って、哲学と哲学史が独立しているという(1)の主張とは合致しない
寧ろ、哲学と哲学史が相互に依存するという(3)の主張と相性が良い
さらに、哲学と哲学史は同一であるとする(4)の主張を想定するやり方でもある
これは哲学者が提起する議論や主張ではなく、議論や主張についての物語から構成される
過去の哲学者は歴史的状況に捕らえられているため、自身を理解する最良の立場にはいないと考えている
哲学と哲学史が相関するという(2)の主張は、ジャンル(C)では難しいようだ


(つづく)








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