今朝、開高健のカナダでの最後の釣りに纏わる特集が流れていたので、観てから立ち上がることにした
作品を読んだことはないが、ベトナム戦争や釣りなど、外によく出かけていく人であることは知っていた
今回、非常におしゃべりの人だったことを知る
番組の中で、こちらに入ってくる言葉をいくつか聞いた
科学について語っていたのがその一つである
こんな流れではなかったかと思う
科学はキリスト教から生まれた
西洋人は信じる信じないは別にして、自然を対象にする時、神(的なもの)が介在する
そこには畏れの感情が生まれるはずで、科学に対しても畏れを持っている
我々日本人は神を介在させず自然と直接交流する
アニミズムの世界だという
介在するものがないため、自由な観察が可能になる
しかし、そこでは畏れの感情が生まれにくいという
科学を畏れる感情も少ないのではないか
彼は、戦後、科学を畏れた日本人はいなかったとまで言っていた
これは私自身の観察だが、絶対的なものがないため、統一的、体系的にものを見る視点が弱いように感じている
私を離れて、例えば新型コロナの対策を見ても、全体的な視点は見られず、出てきたものに対応するだけである
従って、分かりにくく、理由も説明できないのである
二つ目は、C・W・ニコルさんが開高健のことを「昭和のルネサンスマン」と形容していたこと
この言葉に強く反応した理由は、以下のブログ記事にある
普遍人 HOMO UNIVERSALIS(2007-02-21)
フランスに渡る年の初めに、この言葉が意味するところに向かっていきたいという願望が湧いたのであった
それから、カナダでヒメマス釣りの案内をしたカナダ人ガイドの話も印象に残った
開高健は魚を釣ることだけが目的ではなく、その時彼を包んでいた全体を味わっていたように見えたという
これは人生を歩む時にも見られる二つのスタイルにも通じるのではないだろうか
仕事の中に人生を見るのと、人生の中に仕事を見るのとの違い
あるいは、専門の中に溺れるのと、それを離れてものを見る目を持つのとの違い
このような共通点も見られたが、彼が自身のことを狩猟民族だと言っていた点はどうだろうか
私自身は定住型ではない、あるいは動きたいという気持ちは強いかもしれない
最近では、動けるうちに動いておきたいと言った方が正確だろうか
しかし基本的には、狩猟は疲れそうなので受け身の状態を好み、運命論者的性格が強いと思っている
いずれにせよ、今朝は興味深いものを見せていただいた
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